ひとしずくの許し
「あとがき・創作メモ」と同時投稿です。
海を渡った先の国は、チェディスより少し夏が長い。そんな場所で新しい生活が始まって、数ヶ月が経った。
この国に来たとき、駐在武官のための館はすでに用意されていたし、荷物もそれなりに持ってきてあって。使用人さんはチェディスからついてきた人もいたし、こちらで今までセヴィアスさん(オルセードのお父さん)のお世話をしていてそのまま残った人もいて。初日から、何の不自由もなかった。
そんな中、オルセードが最初にしたのは、私のお世話をする新しいメイドさんの面接だった。
「シオンに不快な思いをさせる人物を、まず弾きたい。俺にやらせてくれ」
オルセードはそう言い張って、最初は面接を自分一人でやった。彼は、私たち「夫婦」の奇妙な関係――いつも一緒にいるくせに寝室は別だったりとか、そういう――に好奇の目を向けられると、私が嫌がると考えたのだ。
でも、はっきりと異色の存在である私に好奇の目を向けずに済む人なんて、なかなかいないと思うけどな。……と、私は思っていたんだけど。
さすが、騎士団長まで上り詰めた男。条件に合う、面白いメイドさんを見つけ出した。
「旦那様はいつも、奥様第一なのですね!」
私より少し年下のメイドさんであるネビアは、顎で切りそろえた栗色の天然パーマをふわふわさせ、眼鏡の奥の目をキラキラさせて言う。
私はもそもそと答える。
「奥様はやめて……名前で……」
「あっ、失礼いたしました! でも私、シオン様にお仕えしていると、まるでお姫様付きの侍女になったような気がします!」
「お、おう……」
「それでは、ご用があったらお呼びくださいね!」
ネビアが部屋から退出し、扉が閉まると、私は横目でオルセードを見た。彼は私の様子を見ながら微笑んでいる。
ネビアをメイド候補に選んだとき、彼はこう言ったものだ。
「彼女はどうだろう、シオン。俺たちの様子に何か疑問を持ったとしても、全て『いい方』に解釈する女性を選んだつもりだ」
「……ある意味、あなたに似てるよ」
私が答えると、「そうか?」と戸惑ったように顎を撫でていたオルセード。さんざん私を天女か何かのように扱う発言をしてきたくせに、自分じゃわからないのかな。
それはともかく、現在ネビアがいてくれて、とても助かっている。キキョウと離れて本当はすごく寂しかったから、ネビアくらい賑やかで明るい人がいると気が紛れた。
オルセードが、そっと私の手を取り、握る。
「皆が、シオンを『奥様』と呼ぶ。君がそれを喜ばないのはわかっているのに、俺は……嬉しくてたまらない」
「形だけなのに」
「ああ。それでもだ」
捧げるように持ち上げられた、私の手。私の顔の前で、そこにオルセードの唇が触れ、離れた。
私を見つめる瞳の中に、罪悪感と、それを上回ろうとしている熱がせめぎ合う。
他人事のように観察している自分がちょっと可笑しくなって、口元が綻んでしまった、かもしれない。
瞬間的に、オルセードの瞳の中で「熱」が勝った。引き寄せられて、深く口づけられる。そのまま、広い胸に抱き込まれそうになった。
これは、だめ。包み込まれるのは嫌だ。
私はその胸に手を当てて、軽く押し返す。彼を拒否するのに力はいらない。
オルセードの腕は素直に緩み、私は淡々と聞いた。
「手紙が来たんでしょ、レビアナさんから」
執事さんがオルセードに渡すのを、さっき見かけたから。イーラム君から私にも来ていて、オルセードは何か言いたそうに私に渡していた。ただの文通友達だけど、別に言い訳する義理はない。
それはともかく、レビアナさんの手紙は、書きたいことがたくさんあるらしくていつも分厚い。
「ああ……」
緩めた腕をソファの背に乗せ、オルセードはうなずく。
「何て?」
「ほとんど、チェディスの貴族たちの噂話だ。シオンはもうこんな面倒ごとは」
「話して」
私の命令に、彼は逆らえない。
「……ラーラシアが結婚したと。婚約者はずっと待っていたようだから、きっと彼女を大切にするだろう」
ラーラシア嬢、オルセードがいなくなって落ち着いたんだろうか。幸せになるといいなと思う。私に言われたくはないだろうけど。
「それから?」
「ハルウェルが、前より頻繁に訪ねてくるそうだ」
ああ。オルセードを私が連れていってしまったから、オルセードの家には行きにくくなったかな。
「あの人、レビアナさんにしゃべったりしてないでしょうね」
私は声を固くする。レビアナさんに心配かけたくないからこそ、わざわざ侯爵家まで行ったのに、ここでハルウェルが何もかもしゃべってしまったら……
「彼は話してはいないが、お祖母様もさすがに何かあったとは察しているようだ。その……シオンと俺と、三角関係にでもなっていたのか、と」
「似たようなものじゃない? ハルウェルの大事なオルセードを私が奪っちゃった、それでハルウェルは落ち込んでるんだってことにしておけばいい」
投げやりに言うと、オルセードはちょっと困ったように笑い、続けた。
「ハルウェルが何も話さないので、お祖母様はあいつに言ったそうだ。『何か密かに懺悔したいことでもあるなら、私の死に目にでも言いにきなさい。墓場に持って行ってあげるから』と」
……ほんとに、レビアナさんにはかなわない。
ハルウェルは、打ち明けるかな。それとも……
「出発前に、ハルウェルと話をした。今度は、落ち着いて話すことができた」
ソファの背に乗っていたオルセードの手が、私の髪に触れた。彼は最近、心の内を話すとき、たいてい私の身体のどこかに触れている。
「ハルウェルがシオンに辛く当たっていたのは、そもそもは俺の命を救ったために子供時代の悪夢を繰り返す羽目になり、苦しみもがいていたからだ。……本当なら、俺があいつを救うべきだった。あいつを罰してでも」
「私を堕としてすぐなら、罰することもできたかもね」
窓の方を見ながら、私はつぶやいた。
でも、オルセードは自分が助かったのがハルウェルの術のおかげだと、二年間知らなかった。その間に国王を、国を救ってしまった。それなのに術のおかげだったと知ったとたん、手のひら返しでハルウェルを罰するなんて……国王の騎士として、できなかっただろう。
「ハルウェルを罰せていれば、私に対するオルセードの罪悪感も、軽くて済んだだろうにね」
わざと嫌みっぽく言ってみたけど、それは私の本心でもあった。
すると、オルセードは例によって生真面目に、私の嫌みをまともに受け取ったようだ。
「そんなことはない。君が命を縛られて苦しいと感じているのに、軽く考えることなどあり得ない」
「でも実際、今ずいぶんオルセードがすっきりして見えるのは、私とハルウェルが離れたことで彼を一応でも救えたからじゃないの? 彼は、オルセードのお母さんのことでも何か助けてくれたんでしょ。大事な存在だもんね」
「シオン」
オルセードの声は、いつも真面目。
「……確かに、子供の頃の俺は母がいなくなって寂しい思いをしたし、同じ思いをしていたハルウェルと支え合って成長したのは否めない。その後、母が金銭的に俺に依存しようとしたのを断ち切ったのも、ハルウェルだ」
そうだよねぇ。
「しかし、それで全て解決した訳じゃない」
オルセードは、私の髪を撫で続けている。
「……あんなに、戻ってきて欲しいと願った母だった。それなのに、いざ母が現れたら俺は落胆し、母を許せなくなった。ハルウェルが母を脅し、もう現れないだろうとなって安堵し、そのことがずっと心に掛かっていた。チェディスの家に絵をかけていたのは、母を拒絶した自分は息子失格だと、反省して忘れないためだ」
オルセードの手が前に回り、無骨な指が私の頬を撫でる。
「だが、シオンが気づかせてくれた。母を許せないままでも、俺は自分を否定しなくていいのかもしれない、と。今、俺がすっきりして見えるとしたら、きっと君のおかげだ」
「やめてよ」
私は顔を背ける。
「私が意図してやったんじゃないことまで、私を持ち上げるのに使わないで。重いから。……それより、これからのこと」
「そうだな」
オルセードが私の額に頬を寄せようとしたので、私はぐいっと彼の顎を押しやった。
「んがっ」
「違う、私たちのこれからじゃない。ハルウェルのこれから。……今後ハルウェルに大事な人ができて、その人が命を落としかけたとき、また秘術を使わずにいられると思う? 救う手段を持っていて、それを使わずにいられる? もし誰かがまた堕とされたら……」
顎を戻したオルセードは、少し黙ってから言った。
「出発前にハルウェルと話をした時、俺もそれが気になって言った。悪夢から覚めて欲しいと……そしてもう二度と、悪夢を呼び込むな、と。ハルウェルはこう返事をした。『自分にはもう、あの術の代償を払う力はない。いや、そんな力は最初から持っていなかったんだ』と」
「そう言ったの?」
「ああ」
「そう」
それなら少し、安心していいんだろうか。
オルセードの話では、あの秘術の記された本が存在していたものの、ハルウェルのお母さんが焼いたらしい。まあ、術自体を目撃していたハルウェルがその方法を知ってしまったから、こんなことになったんだけど。
今後、ハルウェル母子が術を誰にも伝えることなくこの世を去れば、もうこんな悲劇は起こらなくなる。そう信じたかった。
「シオン」
ふと、オルセードが立ち上がった。
「俺の仕事の引き継ぎが落ち着いたら、やろうと思っていたことがある」
彼は棚を開け、一本の大きな瓶とグラスを取り出した。え、お酒?
「チェディスから持ってきた。君の成人の祝いをする機会を、ずっと逃してきてしまった。祝ってもいいだろうか」
「……いいけど」
そりゃ、私だって日本にいる頃から、大人になったらお酒を飲んでみたいって思ってたし。わざわざ禁欲生活を送る必要もない、少しくらい飲んだって構わないだろう。オルセードに祝われるのは、ちょっと微妙だけど。
「強いのは、ちょっと」
「これは大丈夫だ」
細身のグラスに注がれたそれは、薄い紫色に澄んで、とても綺麗だった。
「おめでとう」
オルセードが静かに言って、グラスが触れ合う。
黙って、一口含む。甘くて飲みやすい。ふわりと花の香りが広がった。
あれ? 紫色……花……?
私、オルセードにそんな話したこと……
はっ、と顔を上げる。
「オルセード、もしかしてキキョウが」
オルセードが微笑む。
「出発前、シオンの成人の祝いは何がいいだろうかとキキョウに相談したら、ためらいながらも名前のことを教えてくれた。勝手にしゃべってシオンが怒らないかと心配していたが」
もう。怒らないよ。
キキョウは、家族がいるからもちろん一緒には来れなかったけど、心だけでもついて行きたいと言ってくれていた。
今までの私をそばで見てきた彼女は、海を渡って環境が変わる上に今までずっと拒否してきたオルセードと暮らすことで、私がしんどい思いをするんじゃないかと、とても心配していたようだ。
名前のことを彼に話したのは、私とオルセードが仲良くならないとこれから相当辛いだろう、仲良くして欲しい、って願ったからだろうな。ちょっと、素直には聞けないけどね。
でも。一番、お祝いして欲しいキキョウに、お祝いしてもらったみたいな気分。
……嬉しい。嬉しくて、何だか……
「シオン」
驚いたように名前を呼んで、オルセードがまた、私の頬に触れた。
目を閉じると、涙の熱が頬を伝う。オルセードが頬に口づけて、私を抱きしめながら何度も名前を呼んだ。どさくさに紛れて「愛している」と言ったのが聞こえたけど、スルー。
レビアナさんにもだけど、キキョウにもほんとに、かなわないな。
私は彼女に免じて、しばらくの間、オルセードの胸で顔を隠すことを自分に許した。
【ひとしずくの許し 終】




