序幕『末端』
「一発当てて人生逆転したい。」――きっかけはそんな、邪な気持ちだった。
荻原雄太は、自身の事を「勝ち組」と称するダメ人間である。
高校は入学してすぐに暴力沙汰を起こして退学したため、最終学歴は中卒止まり。親のコネクションを活用して様々な企業に就職したはいいが、セクハラパワハラの繰り返しで退職が続き職歴は真っ黒。以来親のスネを齧りニート生活を謳歌していたが、いよいよ見かねた両親に手切れ金を叩きつけられ、強制的に実家を追い出された。
現在は安アパートに暮らしながら、日雇いバイトで食い繋ぐ日々を送っていた。
全てにおいて自業自得であるが、しかし彼は自身が悪いなんて一切思っていない。むしろ自分は悪環境による被害者側で、社会や両親に見放された哀れな存在なのだと信じていた。
そんな彼は今日も、布団に寝そべりながら、日課である日雇いバイト探しをしていた。
「肉体労働は……駄目だ。メンドいもん。……接客?無理無理、やってらんねーよそんなの。」
一々文句を垂れながら、スマホの画面をスライドしてゆく。彼が求めているのは「楽して稼げる仕事。」そんなものは存在しないのだが、しかし甘え切った考えの彼は、それを本気で探していた。
……と、雄太の指がピタリと止まる。それは『完全在宅、時給三千円。PCやキーボードは別途支給』という破格の案件だった。慌ててタップし、募集要項を確認する。
「えーと、何々?……『こちらが指定する商品を、オンラインショップで販売する』。は、そんだけ?」
時給三千円ということは、単純計算で日当二万四千円。月収にして……五十万!?こんな楽そうな仕事で!?しかも雇用形態は正社員。
思わず布団から上体を起こす。掲載日時は、今から五分前。
「いやいやいや……こんな案件、やらないと損っしょ!」
良いながら、しかし応募ボタンを押す直前、親指がピタリと止まった。
この仕事、本当に大丈夫なヤツなのだろうか?詳しくは知らないが、近年は『闇バイト』なるものが流行っていると聞く。もしかしたらこれも、その類なのではないか。
ゴクリと、雄太は生唾を飲み込む。一瞬迷うが、しかし金に目が眩む。もし本当なら、人生大逆転である。俺を追い出したあのクソ両親も、散々見下してきた連中もまとめて見返せる。その欲求が、彼の判断を鈍らせた。
「…………ええい、ままよ!」
喝を入れながら、彼は勢いのままに応募ボタンを押す。
先方からのメッセージは、すぐに届いた。
『この度はご応募ありがとうございます!こちらの案件は先着順となっており、荻原様には是非お任せしたいと思っております。お仕事をお任せする前に、顔合わせもかねて一度お会いしたいのですが、荻原様のご都合がつく日程をお教えください。』
「日程、日程ね……。」
日程なんて、いつでも空いている。タプタプと適当に入力すると、すぐに日時指定がされた。今日から三日後。それが顔合わせの日となった。
顔合わせの場所は先方からの計らいで、近所のカフェで行う事となった。
雄太はちびちびとアイスコーヒーを飲みながら、先方の到着を待つ。……が、しかし。十五分経っても、それらしき人物は現れなかった。
「……チッ!おっせーなぁ!」
苛立ちを露に激しく貧乏ゆすりをしながら、荻原は舌打ちする。と、そんな彼の肩を、ポンッと優しく叩く人物がいた。
「そこのお方、失礼。荻原様で間違いないですかね?」
「あ゛!?」
振り向くと、そこに居たのは黒い礼服を纏った長身の男性だった。見たところ、まだ二十代後半と言ったところだろうか。少なくとも日系ではないのだろう。素肌は黒く、短い黒髪はオールバックで固められている。細い垂れ目は一見柔和な印象を与えるが、しかし、その眼光は鋭く、見る者に若干の畏怖を抱かせる。
ヒェッ……と肩を竦ませると、雄太はコクコクと頷いた。込み上げていた怒りは、今の一瞬でどこかに消え去っていた。
男性は向かいの席に腰を下ろす。その傍らに、銀のアタッシュケースが置かれた。
男は困ったように眉を歪ませて笑いながら、
「いやはや、遅れてしまい申し訳ございません。少々道に迷ってしまいまして……お詫びと言っては何ですが、ここの代金は私がお支払いしますね。」
「あ、いやそんな……いいんスか?」
「ええ、勿論。でもその前に……。」
そう言うと男は、傍らのアタッシュケースをテーブルの上に乗せた。パチリと、そのロックを指で弾く。
「まずは、仕事の話をしましょう。」
そう言うと、荻原に向けてアタッシュケースを開いた。
そこに収まっていたのは、複数の包装シート。それに包まれているのは、水色と黄色の、まるで玩具みたいな配色をしたカプセル状の薬品だった。男がアタッシュケースを開けた瞬間、ふわりと、金木犀のような香りが雄太の鼻孔をくすぐった。
「貴方には、このビタミン剤の代理販売を行っていただきたい。アイデリリウム……いえ、今は“マーブル”の名称の方が有名でしたっけ。」
言うと、タキシードの男はニコリと微笑んだ。
――-その眼は、怪しい輝きを放っていた。
会計伝票を手に、礼服の男はレジに進む。
その後ろを追うように、雄太はオドオドと着いていった。
「あの、本当にご馳走になっていいんスか?」
「遅れてしまったお詫びですから、ドリンク代くらい構いませんよ。それに長い目で見て、ビジネスパートナーに恩を売っておくのも悪くないものです。」
「あ、はぁ……それじゃあ、お言葉に甘えて。へへ……。」
「いえいえお構いなく。」
爽やかな笑みを浮かべながら、男は会計を済ませる。最初に感じた威圧感が嘘のような、非常に物腰の柔らかい人物だった。
退店しようと扉を開いた男は、雄太に軽く会釈をした。
「では萩原さん、どうか宜しくお願いしますね。貴方の手腕、期待してますよ。」
「……お、おう!任せてくださいよ!」
男は頷くと、手にしていたアタッシュケースを差し出した。
「中に連絡先も同封しています。もし必要になれば、いつでも連絡してくださいね。」
「それでは。」とだけ言い残すと、礼服の男はその場を去っていった。
彼はほんの少し足早に繁華街を抜けてゆく。ビルとビルの間に身体を滑りこませると、徐々にその歩みを緩めていった。……少なくとも、尾行の気配は感じられない。ならまぁ、大丈夫だろう。
男はスマートフォンを取り出すと、電話帳から、ある番号をタップする。
三度の待機音の後に、通話が繋がった。
「……よう旦那。調子はどうだい?ああ……あぁ。こっちも概ね問題ないよ。”アイデリリウム”の流通経路は、確実に拡大していってる。」
――そこには、先ほどまでの柔和な紳士の面影などなかった。
男は胸元のネクタイに人差し指をひっかけて解く。次いで白手袋の先を噛んで、するりと外した。
ああいう堅苦しいの嫌いなんだよな……。なんて思いながら、ヘアワックスで固めた髪をくしゃくしゃと搔き乱した。
「計画?あぁ、こっちは概ね支障ないさ。……『人柱』の選別だって、そう遅くないうちに済むだろうよ。」
胸ポケットから紙巻き煙草を取り出すと、口に咥えて火を灯す。バニラの香りと共に副流煙が立ち込め、宙へと消えてゆく。煙草の先から揺れる煙を眺めながら、男はニヤリと挑発的な笑みを浮かべた。
が、その笑みが、次の瞬間には曇る。
「……あん?日本国内で『クリッシ・メイリア』の反応を探知しただと?おいおい、そりゃあ確かな情報なのか?」
男は壁に背中を預けながら、電話口の声に耳を傾ける。
「……俺が探れ、だって?おいおい、そりゃ人使いが荒いぜ旦那。こっちは唯でさえアイデリリウムの件で忙しいんだ。せめてあと一人、こっちに人員を割いてくれなきゃ…………って、切りやがった。」
男は煙草を深く吸い、煙を吐き出すと、吸い殻を地面に放り投げて踏みつぶした。
「全く、相変わらず人使いが荒いことで。まぁ旦那のことだ、きっと誰かしら寄こしてくれんだろ。」
男はジャケットを脱ぐと、肩に担いだ。バニラの煙草の匂いが、ふわりと風に乗る。
「仕方ねぇ。ちと面倒だが、そっちも探り入れてみますかね。」




