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イド:エクリプス  作者: 西街八代
第一章
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7話『フロイト機関(後)』

 初老の男性――高木優作たかぎゆうさくは握った手を離すと、名刺を差し出してきた。「あ、どうも……。」と会釈しながら、玲治は両手で名刺を受け取る。昔の母さんの見様見真似だが、作法は合っていただろうか。

 場の雰囲気に呑まれて緊張している男子高校生とは対照的に、隣の桐花は、こなれた様子で口を開く。


「所長。既に話は伺っているとは思いますが、改めて。……彼が、三枝由香の事案に助力してくれた、栗栖玲治くんです。」

「うん。君の報告書で、事の詳細は伺っているよ。まずは栗栖くん、この度はどうもありがとう。君の尽力のおかげで、今回の件は無事に解決したとの報告を受けているよ。」

「い、いやそんな……俺は何もしてませんよ。」

「はは、謙遜することはないさ。君たちが居なければ、あの件は対処が遅れていたと、そこの華炸くんから聞いているよ。……さて、君たちも学校帰りで疲れているだろうから、単刀直入に、本題へ移ろうか。」


 そう言うと、高木はマグカップを手に取り、コーヒーで唇を湿らせた。


「栗栖玲治くん。私としては、君には是非『フロイト機関』に加入してほしいと思っている。今回の件で『ダイバー』へと目覚めた、君に。」


 そう告げる彼の雰囲気は、柔和なそれから一変した。社会人として、一組織を束ねる長としての、重鎮な雰囲気へ。

 その雰囲気に少しだけ物怖じしながら、しかし玲治は、目前の初老男性に視線を合わせ、訪ねた。


「……それは、俺が『希少な存在』だからですか?」

「ふむ。確かに君は、「手を翳しただけでダイブ出来る」なんていう、前例のない存在だ。だが何も、それだけが理由じゃない。我々としては……おや?」


 と、そこで言葉を区切ると、高木は眼鏡の下の目を細めた。彼の目は、栗栖玲治の胸元――学生服の襟元から覗く、瑠璃色の石が埋め込まれた銀のネックレスを注視していた。


「……話の腰を折るようだが、失礼。栗栖くん、君のそのネックレス、少し見せてくれはしないかね?」

「え?……あぁ、まぁ。いいですけど。」


 玲治は桐花に目配せすると、彼女は頷く。玲治は首の後ろに手を回してネックレスを外すと、高木に手渡した。

 渡されたネックレスを、彼はじっと見つめる。特に、嵌め込まれた瑠璃色の石――まるでダイヤモンドのように、光を受けて七色の色彩を放つ、石の中心を。

 その石を指先で撫でながら、しみじみと懐かしげに告げる。


「……成程。栗栖くん、君はもしかして「栗栖里美くりすさとみ」の息子くんなのかな。」


 思わぬタイミングで飛び出したその名前に、玲治は驚愕し、目を丸くした。

栗栖里美――それは確かに、母さんの名前だ。だがしかし、何故、この人は母さんの事を知っているのだろうか。

 その事を問うと、高木はニコリと優しく微笑んだ。


「知っているとも。私と君のお母さんは旧知の仲でね。生前はよく、一緒に飲みに行っていたよ。」


 彼はそんなことを言う。母さんにそんな交友関係が……と、思いがけない形だが、生前の母の話を聞けそうでなんだか楽し――と。玲治は、喉の奥がキュッと絞まるのを感じた。

 今、彼はなんて言った?今この人は『生前』と言ったのか?

 

 栗栖玲治は知っている。『あの日』についての記憶は、誰も覚えていないことを。

 栗栖玲治は知っている。親戚、知人の記憶が改竄されていることを。『母さんは、俺を置いて失踪してしまった』という事になっている事を。

 だというのにこの人は今、はっきりと『生前』と言ったのか?


 ドッと冷や汗を噴き出す玲治をよそに、高木は続ける。

 

「お母さんのことは……そうだね、非常に残念だったと思うよ。我々の対処が遅れたばかりに、」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 玲治は咄嗟に立ち上がり、ローテーブルを叩いた。

 なんだ、その口ぶりは。それではまるで、あの日の事を『覚えている』ような口ぶりではないか。いやそれ以前に『我々の対処が遅れたばかりに』とは、どういう意味だ。

 玲治の思考が混乱する。急に突き付けられた現実を、脳が拒否しようとする。


「その口ぶり……そんな、しかもそれじゃまるで、アンタ……ッ!」


 ――まるで、あの件に関与しているみたいじゃないか。

 玲治は捲くし立てるように叫ぶ。焦りで思考がまとまらない。

 パニック状態に近いのだろう、次第に呼吸が浅くなってゆく。指先から徐々に、熱が失われてゆくのを感じる。

 “おい玲治、一旦落ち着け!”とツムグが叫ぶが、その声は頭を素通りしてゆく。


「『対処』って何のことだ!?……いや待て。ちょっと待ってくれ。桐花は、その、知ってるのか?」


 震えたまま、玲治は、傍らに座る少女を見た。

 彼女は神妙な面持ちで目を伏せると、ゆっくりと、小さく頷いた。


「……えぇ。あの事件は凄惨だったわ。でもまさか、貴方のお母様が巻き込まれていたなんて……。」


 そう言われ、玲治はいよいよ身体をふらつかせ、そのままソファに沈み込んだ。身体が硬直し、自由が利かない。思うように思考が出来ない。

 ……いや、それじゃあ駄目だ。『思考が出来ない』じゃない、『しなきゃならない』んだ。考えることを、知ろうとすることを放棄するな。


 玲治はゆっくり深呼吸すると、身体中に酸素を取り込んだ。昂る感情を、一旦リセットする。――それでも、胸のざわめきは消えてくれない。


「……悪い。いや、すみません、取り乱しました。」


 震える息をゆっくりと吐きだすと、あくまで冷静を装い、玲治は告げる。その拳が未だ強張っていることに、自分では気付かないまま。


「誰も『あの日』の事を覚えていない。だっていうのに、貴方たちは覚えている……いやそれどころか、貴方たちは、『あの日』に関与している。そう捉えていいんですかね。」

「……あぁ、そうだね。」

「……なら教えてください。あの日、何が起きたのか。なんで誰も、『あの日』のことを覚えていないんですか?」

「…………、」


 高木は手にしていたネックレスを玲治に返すと、ソファから立ち上がり、窓辺へと歩いた。そこから覗く、目下に広がる街並みを眺め、次いで空を見上げ、小さく息を吐いた。


「勿論だとも。君には、その権利がある。あの日に実母を亡くし――そうして今、ここに生きる君には、それを知る資格がある。」


 彼は振り返り、動揺している玲治を見据える。視線を逸らすことなく、まっすぐに。

 





「私たちフロイト機関は、あの結晶化現象の事を『アリス・クライシス』と呼んでいるよ。」

「アリス、クライシス……?」


 聞き馴染みのない言葉に、玲治は訝しんだ。

 高木は静かに頷くと、淡々と言葉を続けた。


「栗栖くん。君はアレを、なんと解釈している?」

「えっと、不可思議な現象というか、災害というか、そういうモノだと……。」

「あれは災害なんかじゃない。れっきとした『人災』だよ。悪意ある人間によって引き起こされた人災……あの日、あの場に居合わせた君と、君のお母さんは、それに巻き込まれたんだ。」


 悪意ある、人災。

 それを聞いた玲治は、思わずソファから立ち上がっていた。背筋にゾワリと悪寒が走り、次第に自身の顔が険しくなってゆくのを感じる。

 人災、だと?あれが、誰かによって仕組まれたものだとでも言いたいのか?


「……ちょっと待ってくれ。どういう意味だよ、それ。」


 抑え気味に、しかしその語気がつい荒くなる。無自覚に拳に力が入り、背筋はじっとりと汗で濡れていた。

 「ちょっと玲治くん、」と桐花が止めに入ろうとするが、しかしそれを、優作は手で制した。


「君は、“マーブル”によって『イド』を暴走させた人間が、最後にどうなるか知っているかい?」


 その問いに、玲治は首を横に振った。

 高木はあくまで淡々と、話を続ける。


「『結晶化』だよ。肉体という殻に収まりきらなくなった心象世界が、結晶という形で現実へと溢れだす。……君が見た、あの日のようにね。」


 言いながら、高木は瞼を伏せた。

 その発言に、玲治は息を呑んだ。――少年の脳裏に、あの日の惨状が鮮明に蘇る。目の前で母さんが結晶体になってゆく、あの光景が。

 ということは、あれもまた“マーブル”絡みだというのか?いやしかし、少なくとも母さんは、あんな薬を飲んでいない。少なくともそんな場面は記憶にない。

 玲治の問いに、しかし高木は首を横に振った。

 

「いや、それは少し違うよ。あの時、あの場の誰一人として、“マーブル”――いや、アイデリリウムなんてものは飲んでいない。……そもそも当時、アイデリリウムはまだ存在していない無かったのだから。」


 

 高木は傍らの椅子を引くと、ギシ……と腰を下ろした。


「なぜ、どういった手法で人々の『イド』が暴走し、結晶化するに至ったのか。それはまだ分かっていない。……しかし、アレを引き起こした者たちについては、既に見当がついている。」


 そこで区切ると、彼は桐花を一瞥した。

 彼女は頷き、高木の言葉を引き継いだ。


「『イドラ』――現在“マーブル”を世に流布させている要注意団体。彼らが『アリス・クライシス』を発生させた連中よ。」

 

 そう断言する彼女の声には、僅かな憤りが混じっていた。目尻が上がり、眉間に深い皺が寄っている。彼女のこんな表情は、玲治は初めて見た。


「奴らは一〇年前の『アリス・クライシス』を失敗とみている。そして今、“マーブル”を使って、再びあの惨劇を引き起こそうと企てているわ。……私たちは、あの悲劇をもう二度と繰り返させないために活動しているの。」


 顔をしかめて瞼を伏せる彼女へ、高木は右手で制す。次いで玲治に視線を向けた。


「何故そんな事を知っているのか、という顔だね。……一〇年前のあの日、この国にはまだフロイト機関なんてものは存在していなかった。が、それに準ずる団体に私は所属していてね。」


 窓辺から差し込む西日が、徐々に強くなってゆく。高木はは立ち上がりカーテンを閉めると、次いで、部屋の照明を点灯した。

 証明に照らされる眼鏡の奥で、彼の目は、当時を悔やむように目を細めた。

 

「『イドラ』の連中が、日本国内でよからぬ動きを見せていたのは知っていた。対処もした。だが連中の手によって情報が巧妙に撹乱されてしまって、私たちは後手に回らざるを得なかった。……気付いた時には、既に手遅れとなっていたよ。」


 言いながら彼は、その眼を固く伏せた。

 瞬間、玲治の中に、強い憤りにも似た感情が湧き出た。――もし、彼らが間に合っていたのなら。もし彼らが、もっと早くに動いていたのなら、あの惨劇は防げたのではないか。母さんも、あんな風にならずに済んだのではないのか。

 一緒に、過ごせたのではないか。

 そんな事を考えてしまい、玲治はつい、声を張り上げて――、


“それは違ぇぞ、玲治。”


――口を開きかけた、その瞬間。ツムグは静かに口を挟んだ。


“テメェのそれは感情論で結果論だ、それをこの爺さんにぶつけるのは違ぇだろ。この爺さんたちは十分に手を尽くした、けど『イドラ』とかいう奴らのせいで動けなかった。これは、それ以上でもそれ以下でもねぇのよ。”

「(んな事、分かって……ッ!でもじゃあ、俺のこの気持ちはどうすりゃいいんだよ!)」

“馬鹿野郎、矛先を間違えんなっつってんだよ。テメェのその気持ちをぶつける相手は、そこの爺さんじゃねぇだろ。”

「(………………、)」


 相棒にそう言われ、玲治は深く深呼吸をし、酸素を取り込んだ。この湧き出る憤りを抑え込むために。吐き出す息が、小刻みに震えている。

 ……あぁそうだ。彼女の言う通り、おそらく彼らは最善を尽くした。それでも間に合わなかったのだろう。

 起きてしまった過去は覆せない。最善を尽くしてくれた相手に結果論をぶつけたところで、それでは何の解決にもなりやしない。この憤りをぶつける相手は、他にいる――震える口で小さく深呼吸し、煮え滾る憤りを、理性で押し込めようとする。この感情は、今じゃない。


 高木は細眼鏡を外すと、真剣な面持ちで告げた。


「……こんな話をした後でなんだが。いやこの話をしたからこそ、栗栖玲治くん、君に提案したい。」

 

 彼は、こちらに手を差し伸べてくる。

 その皺だらけの細い手に、どれだけの苦悩を抱えてきたのだろうか。どれだけのものを掴み、そして手放してきたのだろうか。それは、玲治に計り知れるものではない。


「どうか、私たちと共に闘ってほしい。あのような惨劇を二度と起こさせないために。そして誰かに、君のような想いをさせないために。」


 真っすぐに玲治の目を見据え、高木優作は告げる。

 迷う理由はない――玲治は息を吐くと、そっと、その手を取った。







 その日の夜、栗栖玲治は件の公園へと訪れていた。

 もう陽が落ちて久しいにも関わらず、その結晶群は、内側から発光しているかのように煌めきを放っている。


「……こんな夜遅くに来るのは初めてだな、母さん。」


 玲治は母さんだった結晶の前に腰を下ろし、重い口を開いた。


「なぁ母さん、一〇年前のあの日の事、覚えてるか?……俺は覚えてる。今でもハッキリと思い出せるよ。」


 玲治が揺れ動くたびに、胸元のネックレスが寂しい音色を立てる。

 頬に夜風を感じながら脳裏によぎるのは、あの日の光景。――周りの人々が次々に結晶化していく未知への恐怖。混乱と恐怖の入り混じった無数の声。目の前で結晶化してゆく母さんの姿と、内から湧き出る恐怖と困惑を、笑顔で押し隠した歪な表情。

 

「俺さ、ずっと後悔していたんだ。なんで俺だけ生き残っちゃったんだろうって。あの時、母さんを助けられていればって。……子どもの俺が出来ることなんて、たかが知れてるけど。」


 言いながら、玲治は笑う。胸元のネックレスに手を伸ばし、ゆっくりと握りしめた。

この一〇年間、後悔が止むことは一度もなかった。煩わしいとさえ感じるほどに「もし、こうしていれば」が止まらない。

 俺の「人の役に立ちたい」という願いの原点は、かつての『ヒーロー』なのかもしれない。だがその起点は、きっとこの後悔が故なのだろう。


「母さん。俺、やりたいことが出来たよ。……いや違うな。あの日を生き残った俺が、やらなくちゃいけない事が出来た。」

 

 ネックレスを握る手に力が籠る。それは決意の表れか、それとも『奴ら』に対する執念なのか。

 

「俺が『イドラ』とかいう奴らを止める。あんな事、二度と起こさせてやらない。……今日はそれを言いに来たんだ。」


 告げる言葉は力強く、その眼に一切の迷いはない。その眼はまだ見ぬ『イドラ』を――母を死に追いやった仇敵を見据えていた。

 と、脳裏で寝そべっていたツムグが、おもむろに口を開いた。


“――おい玲治。水を差すようで悪ぃが、先に口出ししとくぞ。”

「なんだ?」

“『復讐心に身をやつすな。』――テメェの復讐心を、真っ向から否定するわけじゃねぇ。憎しみや悔しさは俺にも伝わってくるからな……。けど、テメェの目指すもんはソレじゃねぇだろ。”

「……あぁ、分かってる。」


 分かってるよと、噛みしめるように繰り返す。

 玲治が目指すモノ。それは、『人と人とを紡ぐヒーロー』であって、復讐者では決してない。

 この胸に秘める感情に、憎悪がないと言えば嘘になる。むしろ多いくらいだ。だがそれよりも強く脈打つこの感情は、きっと――。

 

 『私たちと共に闘ってほしい。あのような惨劇を二度と起こさせないために。そして誰かに、君のような想いをさせないために。』


 優作の言葉が過る。

 ――必ず、『イドラ』とやらを止めなければならない。

 俺や母さんみたいな人を、二度と生み出さないために。

 『アリス・クライシス』なんてものを、二度と起こさせてはいけない。


 夏の生ぬるい夜風がそよぐ。

 夜空を仰ぎ、満点の星々の煌めきを睨む。……その煌めきと、あの日の結晶の輝きを重ねながら、栗栖玲治は、己が決意を改めた。

 


まずはここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今度こそ、正真正銘、第一章は〆です。


後半の夜の描写は、急遽加筆したため内容や文章が薄く感じるかもしれません。(こちらは後日修正するかもです。)


もしよろしければ、評価、コメント、ブックマークなんかを押してあげてください。

筆者のモチベーション維持にも繋がります。

よろしくお願いします。

では。

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