幕間『とある病床での一日』
栗栖玲治は悩んでいた。
この狭い病室の一角で、一人、物思いに耽っていた。
窓辺からは夏の日差しが降り注ぎ、新緑はそよ風に吹かれ爛々と輝いている。噎せ返るアルコールの匂いは窓辺へと抜けていき、代わりに遠くから響く蝉の音が、病室にこだましていた。
どこからか、風鈴の音色も聞こえる――瞼を閉じ、夏の空気をしかと噛みしめながら、やがて栗栖玲治は、その口を開いた。
「“――くっっっっっそ暇だなぁ!!!!!”」
玲治とツムグは、まるでハウリングするように、同時に言い放った。
暇。とにかく暇なのだ。
『イド』に潜り、三枝を救出してから二日が経過した。体調はとうに回復し、もう退院してもいい気がするのだが、主治医曰く「あと二日は経過観察が必要だねぇ」との事。主治医が言うなら仕方ない。
桐花曰く、この病院は『イド』に干渉できる稀有な存在――『ダイバー』の治療も請け負っている施設なのだという。それ自体はいいのだが、この病院には何もなさすぎた。テレビはおろか、漫画も置いていないという徹底を貫いていた。
最初こそスマホで遊んでいたが、それも早々に飽きてしまった。あまりにも娯楽がなさすぎて、退屈という感情だけを大量生産する機械と化してしまった玲治は、意味もなく右手で空を切っていた。
「なーんかねぇかなぁ……このままだと退屈に圧死させられる。」
“マジで暇なぁ~……。”
玲治に呼応するように、ツムグもぼやく。
子供の頃は、こういう時どうしてただろうか、なんて考えてみる。あの頃は、有り物から即興の玩具を作っていたような気がする。工作用に捨てずに取っておいたトイレットペーパーの芯を組み合わせて銃を作ったりだとか、古紙を細く丸めたものを束ねて剣を作ったりだとか。他にも色々作ったような覚えがある。今にして思えば、子供の創作力とは凄いものだ。中々侮れない。
この歳になると、娯楽の趣はもっぱらゲームや漫画、テレビやネットへと移り変わり、当時のような遊び方では満足できなくなってくる。きっと舌が肥えるのと同じように、感性も肥えてゆくのだろう。
「歳を取るってのは悲しいねぇ。」
“悲しいも何も、お前まだそんな感傷に浸る歳じゃねぇだろに。……あぁ。有るぞ、いい暇つぶし。”
「マジか。」
“俺が玲治を誘導して、テメェの『イド』に潜るってのはどうよ。”
「……は、そんな事出来るのか?」
“知らね。けど嬢ちゃんの『イド』に潜った時の感覚的に、多分出来んじゃねーかな。知らんけど。”
なんだその面白そうな提案は。と一瞬心躍る玲治だったが、しかしふと、件のマリオネットや木偶人形、触手のデカブツのことを思い出す。またあんなのと戦うかもしれない事を考えると、その意欲は次第に減衰していった。
それを察してか、ツムグはこう続けた。
“あぁそれな。こうやってテメェの『イド』に住んでっけど、今のところ、あんなバケモン見た事ねぇぞ。だから戦う事にはなんねぇだろ。……知らんけど。”
「お前さてはなんにも知らねぇな!?」
駄目だコイツ。前回も思ったが、直感に従って生きてやがる。ツムグの提案に易々乗っていては、命が幾つあっても足りない気がしてきた。
だが、「自身の『イド』に潜る」というのは魅力的な提案でもある。
こういう時は、先駆者の知恵を借りるべきだろう。
「――という訳で、ですね。その辺はどうなんでしょうか、桐花先生。」
「栗栖くん、貴方ね……自分が休息をとるために入院しているの、忘れていないかしら。」
場所は院内の控室。玲治と三枝の見舞いに訪れた桐花に尋ねてみたところ、心底呆れたといった表情をされた。
今日が平日ではなく土曜という事で、桐花の装いはいつもの制服ではなく、白を基調とした花柄のワンピースとレースのカーディガンという、夏場に相応しい休日スタイルだった。頭にはベージュのキャスケットを被っており、その下では額に汗を滲ませている。
彼女の言う通り、『イド』で消耗して入院しているというのに、その暇つぶしに『イド』に潜るというのは、確かに色々と矛盾している。
「まぁ、やるやらないは置いておいてさ。実際のところ、自分の『イド』に潜るなんて可能なのか?」
「……一応、自身の『イド』への干渉は出来るみたいよ。栗栖くんが懸念している『イドの怪物』も、現れないだろうとされているわ。」
「一応、されている……?」
「前例がないのよ。だから確証はないの。」
桐花曰く、その辺は『イド』における、ツムグやミソギ達『トワ』の在り方に由来するのだという。
『イド』とは無意識と潜在意識の集合体だ。その内面には願望や欲望、コンプレックスや劣等感など、正と負の感情が綯い交ぜになっている。内包する感情の比率が、正の方が多ければ『トワ』が。負の方が多ければ『イドの怪物』と成る……というのが、桐花が所属している組織の見解だ。故に、既に『トワ』が発生している者が自身の『イド』に潜ったところで、怪物は現れないし襲われもしない……ということらしい。
「“なるほどなぁ~”」と、またもやハウリングするように頷く玲治とツムグ。だがしかし、『見解』というのが引っかかる。そんな推論をわざわざ立てなくても、俺たちがツムグやミソギ達『トワ』に直接聞けばいいのではないだろうか。なにせ彼女たちは、その『イド』に暮らしている当本人なのだから。
それを告げると、桐花は頷いた。
「……それもそうね。ミソギ、その辺ってどうなのかしら。」
暫しの沈黙が続き、桐花はふむふむと頷いている。おそらくはミソギに伺いを立てているのだろう。数刻置いて、桐花は口を開いた。
「少なくとも探知できる範囲には、『イドの怪物』は居ないらしいわ。」
「ツムグと同じだな。アイツも今のところ、そんなの見たことないって言うし。……なるほどねぇ。」
玲治は自身の内から、ふつふつと好奇心が湧き出るのを覚えた。二名以上の証言を得た今、あんな怪物どもが居ないのはほぼ確定したと見ていいのではないか。手持無沙汰で娯楽に飢えている現状、玲治にとって、それはあまりにも魅惑的なスパイスだった。
と、まるでこちらの思惑などお見通しとでも言いたげに、桐花は「待って。」と制止の声を挙げた。
「今日含めて、あと二日の辛抱よ。」
「…………、」
「何もないって言うけれど、スマホがあるじゃない。動画を見るなりゲームするなり、それで充分暇を潰せるわよね。」
「………………、」
「何かあっても、私たちは介入しないと前もって言っておくわよ。」
「……はい、諦めます。すみませんでした。」
その気分はまるで、母に念入りに叱られている子どもであった。ツムグは概ね不服そうではあるが。
と、そういえば先までの会話の中で、少し気になった単語があった。玲治は椅子から立ち上がると、自販機にコインを投入しながら、それを訪ねることにする。
「そういえば、いま『組織』だとかなんとか言っていたよな。何なんだ、それ?『ダイバー』とか言ったっけ、その集まりなのか?」
「ああ、それは――、」と桐花が口を開くと同時、彼女の懐から着信音が鳴り響いた。玩具店のBGMとして放送されていそうな、妙にポップで可愛らしい音だった。桐花はスマホを取り出すと、二言三言の簡単な返事をして、通話を切った。そして机に置いたカバンと紙袋を掴むと、申し訳なさそうに告げた。
「それについては後日、改めて紹介する事になると思うわ。詳しくはその時に。……急な案件が入ったから、私はこれで帰るわね。」
「三枝さんによろしくね。」とだけ言い残すと、桐花はそそくさと控室を後にし、階段を降りていった。……と思いきや、つかつかと戻ってきた。彼女は手にしていた紙袋を玲治に手渡す。
「渡し忘れていたわ。これ、三枝さんから持ってくるよう頼まれていたものよ。……多分、全部揃っていると思うわ。もし足りないようだったら、代わりに謝っておいてくれないかしら。」
「はぁ……。」
「それじゃあ、今度こそ。」と言うと、今度こそ桐花は階段を降りていった。
ガコン、と。自販機から紙パックのジュースを取り出しながら、玲治は、手渡された紙袋を広げて中身を確認した。
紙袋に入っていたのは、
「……スケッチブックと、なんだこれ。クレヨンか?」
「あー!華炸さん、お願いしたもの持ってきてくれたんだ。」
場所は、三枝が居る病室へ。三枝は玲治から紙袋を受け取ると、その中身を確認して歓喜の声をあげた。
玲治が暇を持て余していたのと同様、彼女もまた、この入院生活で暇を持て余していたのだ。まぁとは言っても、玲治ほど娯楽に飢えていたわけではなかったが。テーブルに並べられたのは新品のスケッチブックと削られた鉛筆が三本、そして未開封の水彩クレヨンと……ネイル?
いつの間にこんなものを……いやそもそも、いつの間に桐花と連絡先の交換なんてしたのだろうか。
尋ねてみると、三枝はどこか気まずそうに笑みを浮かべて、
「え、いやぁ~……ちょっと色々あって、一昨々日にね。」
と答えた。
三枝と桐花の組み合わせはなんだか意外だなぁ……などと一瞬でも考えてしまい、玲治は己の両頬を軽く叩いた。玲治の中の三枝像は、あくまで『理想を押し付けられた、仮初の三枝』だ。ああいう出来事があった以上、そういう先入観は捨てるべきなのだろう。
そんな事を考えている玲治をよそに、三枝は水彩クレヨンの封を開けていた。
「私、絵を描くのが好きでさぁ。短い期間とはいえ入院中、ずっと描きたくて仕方なかったんだ。だから、華炸さんに連絡してみたの。」
「それは分かったけれど。このネイルはなんなんだ?」
ネイルは全部で三色ある。暖色系が二色と、ラメ入りの透明な液体が一本。そのうちの一本を手に取りながら、三枝に尋ねる。
三枝もボトルを手に取りながら、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「これも、華炸さんにお願いしたの。……私、ネイルとかお化粧とかキラキラしたものにずっと憧れてたんだ。でも周りから軽蔑されるのが怖くて、ずっと出来なかった。だけど、そういう気持ちと向き合うって決めたから。」
「そしたら、買ってくれたみたい!」と、嬉々として告げる三枝。テーブルに置かれたスマホの画面には、ネイルの塗り方講座なんてものが表示されていた。そんな三枝の様子を見て、玲治は拍子抜けというか、安堵した。
非合法薬物なんてものに手を出して、一度は殻に籠った彼女が、今はこうして「自分らしさ」を受け入れようとしている。その様子を見て、玲治は心から安心した。
「玲治くんのおかげだよ。」
と。ボトルの封を開けようとする彼女の指先がピタリと止まる。三枝はこちらを見つめると、柔和な笑みを浮かべた。
「あの時、玲治くんが味方でいるって言ってくれたから。その事を思い出したら、少し勇気が出たみたい。」
「……そっか。」
その言葉を聞けただけで――その笑顔を見れただけで、玲治があの時に一歩を踏み出し、『イド』に潜った意味はあったのだろう。
しみじみとする玲治だったが、そんな彼に「あ、でも」と三枝が続けた。
「いきなり自分の爪で試すのは怖いから、玲治くんの爪で試させてね。」
「……おぉ、まじか。」
遠くから鳴り響く、風鈴の音色。
カーテンを優しくそよぐ、初夏の風。
消毒アルコールの匂いに交じり、ネイル特有のツンとした匂いが、病室に漂い始めていた。
こちらで第一章終了です。
現在第二章の執筆中なので、ある程度ストックが出来るまでは休載となります。
また投稿できるようになったら、その際はよろしくお願いします。
それでは、また。




