第30話 ノヴィアとアレックス ③
「すみません。お見舞いに来たはずなのに、自分のことばっかり話してしまって」
ノヴィアは赤く泣き腫らした目元をハンカチで隠しながら、申し訳なさそうに笑った。その笑い方が、さっきまでの嗚咽と地続きであることが、痛いほど伝わってきた。
「謝らないでください」と、できるだけ軽い口調で伝える。「お見舞いって、果物を持ってきて『元気になってね』と伝えるだけじゃないでしょう? それに、自分のことについて話すのって、とても勇気が要ることだと思うんですよ。どこにも謝る理由なんてありません」
率直にそう伝えると、ノヴィアがハンカチの端から片目だけを覗かせて、ほんの少し興味深そうに口にした。
「……なんか、トムさん変わりました?」
「え?」
「いや……初めてお会いした時と比べて、なんか、逞しくなったなぁと思って」
「え、あ、あ、いや、あの。そ、そそ、そんなことは……」
いきなり女の人に褒められたことに動揺して、自分でもどうかしてるくらい言葉に詰まる。その、壊れたおもちゃのような反応がおかしく見えたのだろう。ノヴィアがハンカチを膝の上に置いて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もしかして、あたしの勘違いでしたかね?」
「あ、はは……ど、どーですかね……」
でも、とぼくは続ける。
「ぼくも、似たような経験をしたことがあるので、ノヴィアさんの気持ちはわかります」
「似たような経験?」
「きみの仕事にはロマンがある」
偉人の言葉を諳んじるように口にして、それからノヴィアの方を見て続けた。
「アレックスさんの、その言葉に救われて、ノヴィアさんは特別潜行の仕事で踏ん張れることができたんですよね?」
彼女がおずおずと頷くのを確認してから「ぼくも同じなんですよ」と、話を続ける。
「ぼくも、ベル・ラックベルの言葉があったから、ブラウ・ブラウニーを倒すことができた。彼女といっしょに仕事をする経験がなかったら、ぼくはあなたたちに出会う前にくたばっていたでしょうね」
「じゃあ、トムさんも、大事な人の言葉に救われたってことですね」
「大事な人……そうですね。本当にその通りだ」
お互いに軽く笑みを浮かべて、それからまた沈黙の帳が下りた。
病室の外から聞こえる足音と、窓を叩く小雨の音だけが、やけに規則正しく耳に響いた。
「最初、あなたたちのギルドネームを聞いた時、不思議に思ったんです。どうして《ケルベロス》って名前をつけているのかなって。でも、お話を聞いていく中で、名付けたのがノヴィアさんだとわかって、腑に落ちるところがありました」
神代の頃。大魔王の居城に通じる唯一の門――《地獄の門》を守護していた、恐るべき三つ首の魔獣。そいつが人類たちから《ケルベロス》と渾名されていたことは、養成学校に通った経験のある者なら、大半が知っていることだ。
そんな物騒な名称をつけていれば、他のギルドから良い目で見られないことは、キレートとエディも、当然承知していただろう。にもかかわらず、彼らは最終的に、ノヴィアの案を受け入れた。
きっと、彼女の悲痛な覚悟を、そこに感じ取ったからだ。そのうえで、彼女を支えようと心に誓ったのだろう。
おそらくノヴィアも、二人の想いはしっかり汲み取っている。だからこそ、未だに過去の悲劇を引きずる自分自身に、情けなさを感じているに違いなかった。
「地下魔構の探索は、あたしにとって、地獄めぐりのようなものだから……ようなもの、というのは正確じゃないかも。地獄めぐりでなきゃいけないんだって、そう決めてました」
やっぱりそうか。
彼女は地下魔構に潜ることを、己に課した罰だと定めているんだ。
「自分のことが、赦せていないんですか? 彼のそばにいてあげられなかった自分が」
「そうですね。赦せてはいません。きっと、これからも、赦せないと思います」
ノヴィアの言葉に迷いはなかった。
「そうか。それならそれで、良いと思います」
「というか、赦し方がわからないという…………え?」
ぼくがすんなり意見を肯定したのが、そんなに意外に映ったのか。ノヴィアが素っ頓狂な声をあげた。
「それだけ深い後悔を胸に抱いているのなら、それを無理に消化しようとするのは、あまり健康的じゃないというか、ちょっと違うんじゃないかと思うんです。自分を赦さなきゃ、亡くなった人もきっと悲しむだろうっていうのは、それは生きている人の論理であり、思い込みともいえるんじゃないかな。それに、赦そう赦そうって思えば思うほど、ある種の脅迫観念になって、かえって逆効果になるかもしれませんから」
「……そんなこと、考えたこともなかった」と、ぽかんとした様子でノヴィアが口を開いた。「やっぱりトムさん、明らかに最初出会ったときと変わってますよね?」
「変わってませんよ」と、苦笑する。「ただ、気づいただけです。いままでのぼくは、自分が何に後悔しているのか、その本質的な部分に気づこうともしてこなかった。目を背けていたんです。現実を受け入れたくなかった。ないものねだりをしている自分に、気づきたくなくてね。でも、あの地下魔構での経験と《魔王の遺産》との戦いを通じて、それに気づいて向き合うことができた。ようやく、気持ちのスタートラインに立てたってだけですよ」
「……羨ましいです」
ぼそりと、ノヴィアが呟いた。
「あたしにも、そういう日がやってくればいいけど」
「やってきますよ、必ず」
気休めで口にしたわけじゃない。
ぼくには、確信があるんだ。
「だって、アレックスさんに言われたんでしょ? 目に見えない存在の声を聴くあなたの仕事には、ロマンがあるって」
「それは、文献調査の仕事の話ですよ」
「違いますよ」
彼女からおかしな人だという目で見られてもいいから、ぼくはどうしても伝えたかった。
「目に見えない存在の声っていうのは、ぼくが思うに、精霊や勇者たちといった、神代の頃の人たちの声だけじゃないはずです。古文書にも文献にも載ることのない、でもたしかに『いま、ここ』に生きていた人たちの声だって、目には見えない存在の声ですよね」
「それって、アレックスのことを言ってるんですか? あたしがモンストルと戦っているときに、いまはもう存在しないアレックスの声を、聞いていたってことを言いたいんですか?」
ノヴィアが、どこか強い調子で訊いてきた。
ぼくが「そのはずです」と口にすると、彼女は首を振ってこたえた。
「それは違いますよ、トムさん。あたしは、あたしが聞いていたのは、モンストルの叫びです。目に見える存在の声です。アレックスの声なんて……それを聴く資格なんて、あたしにはありません」
「そうは言い切れないと思います。ぼくはあなたの記憶を見ていますから」
「記憶?」
ぼくは簡潔に説明した。《嘲り》が人間の記憶領域にある幸福な想い出を糧に動くこと。倒したときに感光膜に焼き付いた撮画のようなかたちで、大量の記憶がエネルギーとして放出されたことを。
「さっき、アレックスさんの撮画を見た時に引っかかるものがあったんです。オッドアイなんて珍しいから、ぼくも覚えてたんでしょうね。ヤツを倒した時に溢れた記憶の中で、彼を見ました。間違いなく」
ぼくの言葉に、ノヴィアは手元のハンカチをきゅっと握り締めながら、おずおずと尋ねた。
「どんな表情を、していましたか?」
「笑ってました。心の底から楽しそうにね。あなたが見た彼の表情を、そのまま切り取ったようでしたよ」
「いつの記憶だろ……」
考え込むノヴィア。少しでも情報を提供したくて、ぼくは思い出せる限りのことを思い出して伝えた。
「外のテラスで大きな白苺と甘桃のパフェを食べてましたね。周りには……あれはシンフォウッドの街路樹かな。それがいくつも並んでいて。彼はグレーのコートに白いニットを着てました」
自分でも、よく覚えているものだと感心する。たぶん《夜のはじまり》の影響だろう。《囀り》の内部に突入して変性を遂げたぼくの右腕が起点になって、ヤツが蓄えていた「幸福な記憶」に関する情報が、脳に刷り込まれたのかもしれない。
「ああ……それ、あれです」と、記憶の中に眠る、『想い出』という名の古い書物を辿る文献調査員のような眼差しで、ノヴィアが口にする。
「リーフガルドに、ミルキーウェイっていうスイーツ専門店があるんですけど、そこに行ったときのだ……あたしがどうしても行きたいって言って、それに付き合ってくれて……そっか……」
ノヴィアは、どこか安心したように、肩から力を抜いた。
「あたしの中で、まだ、彼は生きているんですね」
「それも、幸せな想い出のかたちとして。あなたが誠実だからです。ぼくにしてくれたように、誠実で責任感のある人だから、彼の声なき声を聴けているんです。あの笑顔が、その証拠です」
「……でも」
一抹の不安を口にするように、ノヴィアが少しだけ顔を歪めた。
「記憶なんて、その人にとって都合良くねじ曲げること、出来るじゃないですか。
実はアレックスって、甘い食べ物、あんまり好きじゃないんですよ。それ、あたし後で知って、やっちゃったなあと思って……無理な笑顔を作ってたんじゃないかなとか、考えちゃうんですけど」
「いや、彼は心の底から、楽しそうな笑顔をしてましたよ」
「なんで言い切れるんですか」
「ちょっと。忘れちゃったんですか? ノヴィアさん」
ぼくは、それまでほとんど他人には見せたことのない、ちょっと得意げな感じで口の端を上げて言った。
「ぼくは影響紡ぎですよ? いったいこれまで、どれだけたくさんの人の笑顔を撮画してきたと思ってるんです?」
ノヴィアが、ぽかんと口を開けた。
「大丈夫。ぼくには確信があるんです」
「……っぷ、あはは!」
ノヴィアが、可笑しそうに笑みを浮かべる。
「それ、決め台詞のつもりなんですか?」
「え? 微妙かなあ?」
「いや、いいと思います。なんか、トムさんらしい」
そう笑って口にすると、ノヴィアは濡れたハンカチをポケットにしまい込んで、代わりに透明革袋を取り出した。
撮画を優しげに見つめるノヴィアの姿が、今でも印象に残っている。あのとき、彼女の瞳に映っていたのは、粒子の世界に固定された、いまは会えない大切な人の姿だ。
でも、記憶を辿れば、いつでもぼくらは大切な誰かに、逢うことができるんだ。
目に見えない人の声を聴ける機会を、いつだって撮画は与えてくれるのさ。
そう考えると案外、影響紡ぎも悪い仕事じゃないかもな。ね? ダエラさん。
「もっと、聴かせてください。アレックスさんのこと」
心からの提案に、ノヴィアは笑みを浮かべて頷いた。
それからぼくは、彼女の想い出に先導されるかたちで、小雨降りしきる外の様子をときおり気にしつつ、日が落ちかけるその時まで、時間の許す限り旅をしたのだ。
一度も会ったことのない冒険者の、記憶に逢うための旅をね。




