第28話 ノヴィアとアレックス ①
リザ先輩が見舞いにやってきた翌日の昼過ぎ。
今度は、地下で結ばれた奇妙な縁の一角が、ぼくの病室に姿を見せた。
「面会条件、いったいどうやってクリアしたんです?」
先輩にしたのと同じ質問を、その人――ノヴィア・ピルグリフに投げかけると、彼女は短い深紅の髪を微かに揺らして、「いろいろとやったんですよ。いろいろと」とだけ口にした。
リザ先輩もそう言っていたけれど、いったいなにをやったんだろう。この病院の受付は美人な見舞客には滅法弱いとか、そういうのあるんだろうか。
「これ、ギルドのみんなと選んだお見舞いの品です」
季節の果物が山盛りのバスケットを手に、彼女はやってきた。反射的に両手で受け取ろうとして、右腕の感覚がないのをいまさらのように自覚した。一週間が経過しても、まだ慣れそうにない。
ぼくは、務めて平静に「ありがとうございます。そこの台に置いておいてください」と言い添えて、ぼくから見て左側に位置する、ベッド脇の丸椅子に座るよう彼女へ促した。
「そういえば、あの二人は?」
「警邏隊の聞き取りに応じてます。本当は三人でここに来る予定だったんですけど、どうしてもトムさんのことが心配で。もうそちらの取り調べは終わったんですか?」
「いえ。まだちょっと先ですね」
「そうでしたか……あの」
「はい。なんですか?」
「あたし、トムさんのことを見捨てるつもりはないので、安心してください」
きっぱりと、ノヴィアは言った。
一瞬、なんのことを言っているかわからず、困惑した。
「あたしだけじゃない。キレートもエディさんも、あの日体験したことのすべてを、正直に余すところなく、警邏隊の人たちに話します。もし裁判になって、証人台に立つときがあっても、正直に話します。《魔王の遺産》の起動責任は、あなたにあるんじゃないって。きっちり証言しますから」
有無を言わせない迫力があった。それだけ、三人ともこちらの身を案じてくれているのだ。
申し訳ないと思うのと同時、すごくありがたかった。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて、とんでもない。むしろ《魔王の遺産》との決戦のときは、ぜんぜん戦力になれなくて、こっちこそ申し訳なく思っているくらいなんです」
ぺしゃんこになったぼくの右袖へ、ノヴィアの遠慮がちな視線が注がれているのを意識する。
「そんな。ノヴィアさんが無事でいてくれたことが、ぼく、本当に嬉しいんですよ」
「ありがとう」
口元を少し綻ばせたものの、ノヴィアはすぐに硬い表情になった。
その顔を見て、ぼくはふと、起動直前の《囀り》を前にしたときの彼女の行動を思い返した。
あの時の彼女の言動は、なにもかもがおかしかった。頼りがいのある上長ではなく、年相応の人間の脆さのようなものが浮き彫りになっていた。
おそらくは、《囀り》が宿す幸災楽禍の理に巻き込まれた挙句、背負ってきていた昏い感情が呼び起こされたせいだ。そしてそれは、いまも彼女の心の中で燻り続けているのだろうと、この時は思った。
こういうとき、気の利いた男なら、なにかうまい一言をさらりと言ってのけるのだろう。
けれど、ぼくの貧相な語彙力じゃ無理だ。言葉をどれだけ頭の中でこねくり回しても、なにをどう話すべきかまとまらなかった。
余計な気遣いをさせたくないという気持ちばかりが焦り、気まずさが沈黙のかたちを借りて場を満たしはじめた。
背筋をほんの少し丸めて、綺麗に整えた指先を膝の上で揃えて石のように固まっていたノヴィアだったが、その視線が不意に窓越しへと向けられた。つられるように、ぼくもそうした。
その日は、緑ノ月にしては珍しいほどの肌寒い日で、朝からぱらぱらと小雨が降っていた。
「雨、まだ止みませんね」
とりあえず、当たり障りのないところから始めてみる。
「そうですね」
「……あ、あの、傘って持ってきてます?」
「大丈夫です。受付に預けてきました」
「あ、そうですか」
「……あたし、けっこう好きなんですよ。こういう天気」
そう言って、ノヴィアはじっと窓の外を眺めた。整った顎から鼻梁にかけての線に、どこか憂いのようなものをぼくは見た。
彼女がこの病室に入ってきたときからなんとなく感じてはいたけれど、《レボリューショナリー・ロード》で遭遇したときと比べると、若干雰囲気が変わっていた。すべての弾丸を撃ち尽くした銃が、次に誰を目標に何を吐き出せばよいのか、迷っているような感じだった。
「雨模様だけど土砂降りじゃないから、鼻の奥にかかる雨の匂いを感じることができて。例えるなら、自然がもたらす天然の香水って感じです。それが妙に落ち着くんですよ。トムさんは?」
「ぼくは、ちょっと苦手です」
ひと呼吸置いてから、苦笑混じりに口にする。
「ノヴィアさんの好みを否定するわけではないんですが、一週間ぐらい前も、こんな天気だったから」
「え?……あ、ああ……そうでしたね」
「でも」と、苦境を共に乗り越えた仲間が申し訳なさそうに何かを口にする前に、できるだけ力強く、一息にぼくは言い切る。「これからは、好きになれると思います。だって《放浪の三つ首》のみなさんに出会えた日ですから」
本心を口にしながら、ベッドの上でお辞儀をする。
「地下魔構では、本当にお世話になりました。レヴナントの戦いのときも。それ以外の精神的な部分のフォローも、すごく助かりました」
ノヴィアの視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「精神的なフォロー?」
「はい。その……ぼくが怖気づいて、皆さんと別行動を取ろうとしたときに、『見捨てるなんてダメだ』って、キレートさんに向かって言ってくれたじゃないですか」
顔を上げて言うと、ノヴィアは静かに頷いた。
「ありましたね。そんなことが」
「あの時、正直言って心強かったです。お二人の剣幕に圧されて、なにも言えなかったんですけど」
「キレートも、あいつも、あれで悪いヤツじゃないんです。誤解してしまったかもしれないけど」
「とんでもない! あの時は、ああするしかなかったと思います。あの時のぼくはかなり内に籠っていたから、彼なりに発破をかけてくれたんだなって」
「彼は不器用なところがあるけど、とっても仲間想いな奴なのよ」
「それを言ったら、エディさんもですよ。最初は苦手意識があったけど、でも、ぼくのことをよく見てくれていた」
「あの人はあの人で、ちょっと独特なところがあるんですけどね」
ノヴィアが、おかしそうに少し笑う。それから、しみじみと口にした。
「それでも、彼らとチームを組んでいて、いままで本当に良かったなって思ってるんです」
これからのことと、いままでのこと。その中間に立っていることを強く自覚しているような言葉に、ぼくは少々、心配な気持ちになった。
だから、思わずこう尋ねてしまっていた。
「もしかして、冒険者をお辞めになるつもりなんですか?」
ノヴィアが、顎を深く引いて下を向いた。
それからしばらく、黙ったきりになった。
「ちょっと、迷っているんですよね」
緊張した場をとりあえず和ませようというだけの、それだけの苦笑いが浮かぶのを、ぼくは見た。
「やっぱりこの仕事、あたしには向いてないのかもしれないと思って」
「上から目線な言い方になってしまったら、申し訳ないんですけど」と、前置きをひとつ。「ノヴィアさんほどの実力がある方が、どうしてそこまで悩む必要があるんです? 《魔王の遺産》の討伐戦に参加できなかったことなら、本当に気にしないでください」
「お気遣い、ありがとうございます。でも……うん……それも理由の一つではあるんですけど、それだけが全てじゃないというか……」
目を伏せて何事かを小さく呟きながら、ノヴィアが神妙な顔つきになった。
「トムさんになら話してもいいかなと思うんですが、ちょっと、あたしの身の上話をしてもいいですか?」
「ぜんぜん良いですけど。身の上話、ですか?」
「そう。《放浪の三つ首》を立ち上げる、少し前の話――そうだ……もうこの際だから話しちゃいますけど、うちのギルド名、最初は《放浪の三つ首》って名前にするつもりじゃなかったんです」
「ギルドネームの候補が、別にあったんですか?」
「……《四つ葉の誓い》」
古い文献にのみ記されている、いまはもう世界のどこにも存在しない精霊の名を囁くように、ノヴィアが言った。
「ギルドを立ち上げる時に、あたし、キレート、エディさんの他に、本当はもうひとり、旗揚げメンバーに加わる予定の人がいたんです。アレックス、という人なんですけど」
その名前には、おぼろげだけど聞き覚えがあった。《隠し階層》で《囀り》の存在にあてられたノヴィアが発した不可解な言動の中に、その名前があった。
「四人だから四つで《四つ葉の誓い》っていう……少し単純というか、なんというか……」
「そんなことないですよ。前向きな響きが伝わってくる、良い名前だと思います」
「ありがとう。きっとアレックスも喜ぶと思います。彼が考えたギルドネームなので」
「その方も、みなさんと同じ冒険者だったんですか?」
「はい。役職は塵闘士でした」
単純攻撃効果の付与された大型の魔道具を扱い、激しい近接戦闘を本領とするのが塵闘士だ。魔撃士に次いで花形と言われている、戦域前線担当の役職。
「塵闘士かぁ。守護士と並んで、ものすごくありがたがられる役職ですよね。ノヴィアさんは、前のギルドから軽業士だったんですか?」
「あたし、もともとは冒険者じゃなかったんです。前に所属していたギルドではぜんぜん違う仕事に就いてて」
「あぁ。もしかして、文献調査員?」
「なんでわかったんです?」
「たしか、学生だった頃は文献調査を専門にしてたってキレートさんが言ってましたよね。それに、神代文字もスラスラ読めてたから、そうなのかなって」
「そっか……うん、そうです。前のギルドでは文献調査員に就いてて、そのときに一度だけ、彼と……アレックスと仕事を一緒にする機会があったんです」
ノヴィアが語ったところでは、当時所属していたギルドで仕事をしていたある日、とある地下魔構の最深部で、神代の古文書らしき反応が複数あるという情報が飛び込んできたのが、きっかけだったという話だ。
「そのダンジョンの調査権を握っていたギルドの指令で、文献調査局と冒険局から数名を選出した特別潜行チームが組まれたことがあったんです。選ばれた人員のなかに、あたしと、アレックスがいました」
昔を懐かしむように、ノヴィアは目を細めて続けた。この短い付き合いの中でぼくが初めて目にした、彼女の穏やかな心の模様が、その目に現れていた。
「部局は違っても、チームの仲でたまたま同い年同士だったのと、故郷が同じだったのもあって、アレックスとは少しづつ話すようになりました。あたしも彼もギルドに入り立ての頃だったんですけど、彼は先輩冒険者たちも舌を巻くくらい腕が立つ人だったんです」
でも、愛想はあんまりなかったかなぁ、と言って、ノヴィアが失笑した。
「すごく自立心があって、強力なモンストルに遭遇しても、落ち着いて対処できる人でした。自分の仕事はきっちりやり遂げるし、責任感があって。同期なんですけど、結構尊敬していたんですよ、彼のこと」
この人なんですけど、と言って彼女は、ロングスカートのポケットから魔導列車用の交通板書が入った透明革袋を取り出した。裏面を見てみると、そこに一枚の撮画が挟まれていた。
「この人が、そのアレックスです」
どこかの神殿の石壁を背景に撮ったのだろうか。中央で、ひとりの男性が朗らかに笑って、指でサインを作っている。髪は短く刈り込んだ茶髪で、青いシャツと白いズボンを小慣れた感じに着こなしている。服越しでも筋肉の厚みがしっかりとわかった。これはたしかに、戦域前線で活躍する冒険者の体つきだ。
「オッドアイ、なんですね」
撮画の中で佇むアレックスの右目は薄い青、左目は薄いオレンジに染まっていた。
「そうなんですよ。すごく珍しいですよね。だから、一目見ただけで印象に残る人で、先輩たちからの覚えもよかったんです。本人はお世辞がうまく言えないひとで、人付き合いもそれほど得意じゃなかったんですけどね…………そんなにじっと見つめて、どうかしました?」
「え? ああ、いや、なんでもないです」
我に返って、ノヴィアに透明革袋ごと撮画を返す。
「でも、ノヴィアさんもすごいですよ」
「あたし? なんで?」
「だって、ギルドに入り立ての頃に古代文献の調査チームに抜擢されたんでしょう? ぼくの知る限りでは《星の金貨》にもそんな人はいませんよ」
「いやいや、あたしはぜんぜん」と、右手を顔の前でぶんぶん振る。「学生時代の成績が良かったっていうのと、貴重な実地経験を積ませたいっていう上長の熱意があって選出されたというだけで、もうみんなについていくので精いっぱいでした。世間の右や左を覚えたての田舎娘がやるにしては、ハードルの高い仕事だったと思います」
田舎娘、という表現が引っ掛かったので聞いてみると、彼女曰く、当時は今ほど垢抜けてはいなかったらしい。度の強い眼鏡をかけていて、髪も今よりずっとボサボサに伸ばしていたとのことだ。冒険者になったのをきっかけに、今のスタイルになったらしい。
「ちなみに、その地下魔構、何層あったんですか?」
「十七層」
「ああ。そりゃあたしかに、ハードル高いですね」
「でしょ? 十層以上の地下魔構に潜るのなんて初めてだったし、見たことのないモンストルばかりだったし、アレックスや先輩冒険者に守られてばかりの自分が情けなくて……まぁ文献調査員の仕事はモンストルと戦うことじゃないから、それとこれとは別だって頭ではわかっていたんですけどね。緊張していたのかなぁ……冒険者のみんながモンストルを相手取っている隙に、やっとの思いで古文書を発見しても、頭の中がごちゃごちゃしてぜんぜん解読できなくて。どうしよう、向いてないのかなとか感じて。一度、ギルドを本気で辞めようかなって思った時があったんです」
意外な告白だった。《囀り》の鐘に刻まれていた神代文字をたやすく解読した彼女にも、そんな挫折を味わった時代があったのかと思うと、少し親近感のようなものが湧いてきた。
それにしても、彼女はいったい何がきっかけで、文献調査員から冒険者に鞍替えしたのだろうか……疑問に思っている間にも、ノヴィアはアレックスとの想い出を、静かに降り注ぐ小雨のように語り続けた。
「いまでも、よく覚えていることがあるんです」
「覚えていること?」
「地下魔構に潜って二か月が経過した頃でした。その時のあたしはもう、自信を喪失してしまっていて……チームのみんなにこれ以上迷惑をかけるのは嫌だから、チームを抜けたいって、当時の上長に話そうって意思を固めていたんです」
「そんなに追い詰められていたんですね」
「はい。でも、そんなあたしの心情を知ってか知らずかわからないんですけど、アレックスがある日の夕食後、三角広敷に入ろうとしたあたしを呼び止めて、こう言ったんです」
――きみの仕事にはロマンがある。
「最初は『なに言ってんだろこの人』って思ったんですけど、なんか意味深な響きにも聞こえたんで、どういう意味なのか確認してみたら、こう返してきたんです」
――俺たち冒険者は、目に見える存在の叫びを聞くのが仕事だ。けれども君は、精霊や古の勇者たちといった、もうこの世界のどこにも存在していない、目に見えない存在の声に耳を傾ける仕事に就いている。とてもロマンのある、それでいて誠実な仕事だ。俺にはとてもじゃないけど真似できない。前から言おうと思っていたんだ。
「唐突におかしなことを言うなぁと思ったんですけど、それを聞いたとき、なんていうんですかね。ふっと胸のつかえが取れたというか。『ああ、そんなすごい仕事を自分はしているんだ』って、いまさらのように自覚して。誠実な仕事に就いているなら、そこから逃げるような、不誠実な自分ではいたくないなぁと思えて、踏み留まれたんです」
一緒だ――そう直感した。
ぼくが地下魔構でベル・ラックベルの言葉に救われたように、ノヴィアはアレックスの言葉に救われたのだ。きっとそれは、彼女にとって最大の武器になったに違いなかった。
「それから半年後に、文献調査は無事に終了しました。頑張れたのは、アレックスのおかげです。彼の言葉があったから、あそこで逃げずに踏ん張ることができた」
文献調査員と冒険者。仕事も立場も違えども、この一件がきっかけで、ふたりは交流を持つようになったとノヴィアは言う。地下魔構に同行する機会は、文献調査の一件以降なかったけれど、暇さえあれば一緒に出掛けたり、食事をしたり、良い友人関係を築くことができたという話だ。
そして、彼との交流をきっかけに、キレートやエディとも知り合うことができたと、ノヴィアは言った。
「まるで、アレックスさんが皆さんとの縁を運んできたような感じですね。その出会いがきっかけで、ノヴィアさんは新たにギルドを立ち上げることになったんですか?」
「そうです。ああ、でも。立ち上げを最初に口にしたのはアレックスでした」
「アレックスさんが?」
「はい。別にギルドの待遇が悪いとかそういうのではなかったんですけど、彼は、自分が心を許せる少数の仲間たちだけで仕事をやりたいって思いがあったようで。あたしも、そのメンバーに誘われたんです。すごく嬉しかった。彼といっしょに仕事をできる毎日が、ずっと、続くんだっておもうと……心がわくわくした……旗揚げ日を決めて、新しいギルドをどこに構えようか相談したりもして……」
でも――ノヴィアの声がひそかに震える。
「結局、彼が旗揚げメンバーに加わることはなかった」
いったいなにがあったんですか?――などという、好奇心に身を任せただけの失礼な質問は投げかけなかった。ノヴィアが自分の意志で話をすると決めた以上、ぼくにできることは、彼女が自然と口を開くのを待つこと。それだけだ。
「二年半前に、消息を絶ったんです」
ノヴィアの目が陰りを見せた。
雨音が、やけに近く感じた。




