原因へのアプローチは往々にして誰かの苦しみが伴う
『対症療法とか』もそうなのだけれど、結果にアプローチしてるから良くならないってこと、ありますよね。
『痛み止めを飲んだけど効果が切れると相変わらず痛い』とか。
みなさん、経験ありませんか?
あるいは、『降圧剤を飲んで高血圧が『原因』となる病気を防ぐことはできるけれども、一生薬をやめられない』とか。
聞いたことありませんか?
大本の『原因』にアプローチできれば、回復すると思うのだけれどね。
例えば、苦手な運動を毎日して、嫌いな野菜もお魚もモシャモシャ食べるとかさ。
そういうのみんな嫌がるんだよねw
法律の厳罰化とか、バラマキ政策とかもそう。
結果へのアプローチになっちゃってるの。
対症療法的といいましょうか。原因にアプローチしてないから効果が出ない。
そんなんじゃ、『万引』も『ネット上の侮辱』も『貧困』も防げないってばよ。
無能な政策とかさ。
比較的多くの人が見抜けないよね。
被害者感情の充足とか、損得とかに共感して満足しちゃうんだ。
悪いことじゃないよ?
だけど、『本気でどうにかしたいなら』、原因へのアプローチもセットで別に考えないといけないよね。
そうしないといつまでたっても良くならない。
最近、『煽り運転やいじめはなくせない』みたいな内容のエッセイを読んだんだけどね?
例えば、完全自動運転社会の実現で煽り運転はなくなるんだよね。
というか、乗り物を禁止しちゃえば煽りもへったくれもないじゃない?
ぼくは嫌だけど、さ。
あるいは、他人とコミュニケーションを取らない社会を実現すればいじめもなくなる。
ディストピア感満載だけどね。
可能か不可能かでいったら、可能なんだよね。
かかるコスト(金銭のみにあらず)が莫大なだけで、さ。
万引なら、実店舗をやめてネット販売オンリーにすれば、防げる。
ネット上の侮辱なら、ネットにアクセスできなくすれば防げる。
難題を解決するためには、常に前提に手を入れる必要があるといいますか、インフラの変化だとか構造の変化だとか、ある種の痛みを伴うことが多いから、みんな嫌がるんだよね。
誰かを守るためには、みんなが苦労を背負わないといけないみたいな。
多様なみんなが幸せな社会は、実はみんなが我慢する社会だ、みたいな。
原因へのアプローチって往々にして、誰かの苦しみが伴うんだよね。
最近そんなことを実感しました。
今回はそんなお話。




