文学的マウント気質
文学ってさ。
純度が上がればあがるほど、マウント嗜好が強くなってくるような気がするんだけど、みなさんはどうお考えだろうか?
俳句とかもさ、歳時記読むことが前提になってたりするじゃない?
過去のものだと当時の民俗学的、社会学的背景が要求されたりさ。
マナーだルールだと、とかく気難しい。
そも、文豪って気難しくてマウント取り合いまくってる印象じゃないですか?
今の御時世でもさ、創作界隈の特に純文学の近傍にはそんな傾向が見られるよね。
なんでそんなことになるかっていうと、文学には前提となる『教養』が要求されるからでしょうね。
『知性』に権威づけされる、教養が。
今日び、教養って、情報リテラシーに取って代わられつつあって、ホントのところ大して重要視しない人も多くなってきている。
文学部とかが蔑ろにされたりね。聞いたことないですか?
それでも、創作界隈では、とくに純度の高い領域で、『教養』の『権威』はまだまだ有効ってわけ。
権威論証とかさ。中身のない人は大好きだよね。
太宰がー! とか 芥川がー! とかね。
めっちゃ、マウント思考。
ジョイスをよめ、ジョイスを。
原文でな。
楽しいぞ。
そんな感じで文学は純度が高くなると、どんどん初見さんバイバイになっていく。
だから、試験に受かろうとかって言うんじゃなきゃ、わからなくっても、気にしなくていい。
文学がストンと腑に落ちないとき、それは、大抵マウントの道具に躓いているだけなのだ。




