自己肯定感を育てるものは、達成感って話
『IQ130~150の人は、(中略)科学の外にある社会的問題に関しては好きな方向に主張を持っていける』みたいな与太話を見ましてね。
ちょっと考えてみたんだけどさ。
ぶっちゃけIQに関わらず、『こだわり』がなければ社会的問題の主張は好きな方向にもっていけるじゃん?
『右と左』仲良し仮説とかさ。
あるあるだよね。
記憶にしてもなんにしても、現実って、後出しジャンケンになってることが多いような気がします。
何話か前でした理由の接続詞の話もそうだけどさ。
あのときこうしたのは、こうだったからだとかさ。
だいたいみんな後出しじゃん?
利他と利己もそう。
経過と結果もそう。
因果と相関だってそう。
『負けたと思わなければ、勝負はまだ終わっていないのだ』とかさ。
めっちゃ物騒な例だけど、10回負けた剣奴がぐーぜん11回目に転んでもつれ合って剣が相手に刺さって相手を殺害して勝利しましたとかどうよ?
10戦した状態では相手のほうが強いはずじゃん? キルレシオ10:0だぜ?
11戦したとき、『以降戦闘できなくなったから』みたいな後付の理由で強さが決められるのさ。
そんなんでいうと、
成功経験のない子の自己肯定感を育てるために、結果でなく『経過を褒める』ってのがあるじゃん。
ちょっと待て、と。
経過と結果って、後出しジャンケンじゃん?
どこをもって結果とするか。
常に『現時点を経過』だと考える人に言わせたら、『経過を褒める』はすなわち『全肯定』することになるじゃん?
そういう教育方針で育てられた場合、出来上がるのは独裁者だよ?
高確率でその子は『いじめられっ子』になるじゃん?
不幸を作る気がするんだよね。
おそらく根底が間違ってる。
自己肯定感って、成功経験とか承認欲求の満足で育つものじゃないよ。
そいつは後出しじゃん?
じゃあ、なにで育つか?
『達成感』で育つんだよ。




