第一章 二十七話 紅白戦⑬―一回裏― バッティングカウント
ここまでの三球で餌撒きは予定通り完了。
初球のど真ん中、これは打者の裏をかきつつ後悔を与える一手。好戦的な言動に反してプレイスタイルは慎重な竜朗ならこの初球は待つと読んだ。そして見逃したら「何故打たなかったんだろう」と悔やむ。まぁ竜朗の性格的には後悔というよりはそんな配球をした僕に対して苛立ちを覚えてそうだけど。
二球目の内角高め、三球目の内角低めは内角への意識づけと相手の挑発、あとは『決め球』を活かすことを目的に要求した。共にボール球だったけど、二球目はほぼ要求通り。三球目に関しては若干低すぎてワンバンになったけど意識づけが目的だから問題はない。
どの球も久遠さんはキッチリ目的通りの球を投げ込んで来た。ど真ん中は言わずもがな投手にとっての危険地帯、内角は下手をしたら相手に当ててしまう、怪我をさせてしまうそんなコースだ。ましてや投げ込む相手は今日が初対面の歳上の男。久遠さんの野球をしていない時の性格は極めて温和。悪く言えば争いを好まない草食動物のような性格。それを鑑みると彼女は投手に必要不可欠な素養を持っている。
――それは『勇気』。
野球における投手と打者の対戦で最も打ち取り易いコースは外角低めだと言われている。外角低めという文字が表す通り、打者の眼から最も距離が遠いコース。眼から遠ければ遠いほどその遠近感は狂い易い。そんなシンプルな理由だけれど、『外角低めは投手の生命線』と言う格言があるくらい重要なコース。
けれどそこ一辺倒では打者に対応されてしてしまう。故に外角低めの対角線上に位置する内角高めを投じることで外の球を打つ時の踏み込みを牽制したり、もしくは内角以外の球を読んで振りに来たバットの根元に当てることで打球を詰まらせる、そういった配球が必要不可欠だ。
「……ふぅ。2塁で刺せたら良かったんだけど……。」
そう言葉を漏らしながら、直前のプレイで少し荒れた本塁ベース付近の土を均しながらマスクを被り直す。久遠さんはきっちり役目をこなした。だから僕が足を引っ張るわけにはいかない。
久遠さんはきっと今、心に余裕がない。滅多打ちされた状況、捕手がいつもと違う状況……そんな風に積み重なる想定外は容易に彼女の心を乱す。それを支えるのが捕手の役目。暴投なんかでの進塁は許さない。安易な単独スチールさせる隙も与えない。
彼女が今持てるすべての力をこの四番打者に注げるようにそれ以外の一切の雑事は僕が引き受ける。
(……捕手からしたら次の球が勝負球!!)
投手は打ち取る為の球を勝負球として力を入れがちだけれど、捕手から見れば違う。打ち取る為の球とは言い換えれば打ち取れる確率の高い球。投手自身の手札で最も強い札、相手に止めを刺す札。だからこそ打者はそんな勝負手を避けようとする。2ボール、1ストライクが『バッティングカウント』と言われる所以だ。まさに今がその時。
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立て続けにこれ見よがしの内角攻め。
(普通に考えれば見せ球を活かす外一択なんだが……。)
打席でスパイクに着いた泥をバットで軽く叩き落としながら視線だけ斜め後ろに座る捕手に向ける。
(問題はこの人が普通じゃないこと。……あり得る。3球連続内角。考えろ。今、俺がやられて一番嫌なことは何か。)
あの女投手に変化球がない以上、俺に空振りの三振はない。直球だけなら例えコースの読みが外れていたとしても当てることは出来る。あるとしたら詰まらされての凡打。だけど詰まらせるにはある程度緩急を使うか、俺が読んで外の球を決め打ちしにいったときの内角か。
……緩急に関してはこの回だけ無駄に間やらクイック使ってやがる。
(あの人に余計な浅知恵でも入れられたか?……あの内角に決められた度胸だけは認めてやってもいい。だけど直球だけで俺を打ち取れるって本気で思ってんなら、バッテリーして俺をナメてやがる。)
一打席目の高めを打つ感覚は良かった。だから次に来ても俺なら打てる。下手に外に手を出しに行って内に来られたら目も当てられない。それに次に外が来たら最後の球が内角ということの裏付けにもなる。甘いコースの失投だけケアして厳しいコースは捨てる。……どうせあの女投手は2打席目みたいに逃げる。そうなれば3ボールで儲けものだ。
(よし、方針は決まった。その余裕そうな顔を慌てさせてやる!)
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サイン交換はつつがなく終わり、ゆっくりとセットポジションに入る私の脳裏に数刻前に行った作戦会議中の会話が思い起こされる。
『――…………。』
顎に手を当て、視線は足下に固定したまま何かを考え込む扇さん。きっかけは今しがた私説明したある提案だった。
『じゃ、じゃあ、扇さん!!こういうのも使えますかね?――』
私の発した思い付きの提案に『良いね』と賛成した後、扇さんは今の状態になった。まるで思考の海に落ちたような感じ。
やっぱり私の思い付きにおかしいところでもあったのだろうか。少しそんな考えがよぎったところで扇さんはおもむろに顔を上げた。
『これなら勝負できるかもしれない。』
『え?』
『ああ、ごめん。その久遠さんの言う"勝負球"にもっていくまでの配球を考えてた。』
『あ、あの本当に良いんですか?思いっきり思い付きなんですけど。』
苦し紛れと言っても良いかもしれない。単に扇さんのしてくれた"手札"の話を聞いてふと頭に浮かんだことを口に出しただけ。
『いやいや、馬鹿にしたものじゃない。本気で良いと思ったよ。……それに少し嬉しい。』
『う、嬉しい?』
『久遠さんもちゃんと投手板の上で生きているんだなって…………ただ、久遠さんの意見で行くとしてそれを勝負球にするとなると追い込むまでにちょっと工夫しないと。』
『工夫……。』
扇さんは遠足前の子供のようにうきうきした様子でその"工夫"について話し始めた。まだ出会って数日、普段の扇さんは落ち着いていて少し大人びているように感じことが多かったけれど、こと野球に関わると途端に無邪気な子供のような表情を浮かべることに気づいた。
『――って感じが追い込むまでの配球プラン!ファーストストライクに関してはちょっと博打の要素が入っちゃうし、その後のエサ球も投げ難いかもしれないけど僕を信じて欲しい。で、セカンドストライクに関しては僕は久遠さんを信じる。』
"信じて欲しい"、"信じる"、その言葉でタイム前に感じていたマウンド上での孤独感や試合に対する重圧が少し和らいだ感じがする。今の私たちはチームメイトでバッテリーだ。
『わかりました……!私も扇さんを信じて投げ抜きます。』
『よしっ!』と満足げに笑って私に向かって拳を突き出す。それに対してそっと拳を合わせコツンとぶつけて応える。
――――最後に合わせた拳の感触が今も右手に残っている。私は扇さんの作戦を信じて、扇さんの構えるミットに投げ込むだけ。
扇さんは三塁側へ体を少し寄せた。構えるミットは外角低め。扇さんほど配球のことは理解できていないけど、この一球の重要さは扇さんとのやり取りで何となく伝わった。今の構えより内側のコースへ入ってもダメ。外側だとボール球。ただ、少し高低には若干の余裕があるから多少高低はブレても良いかもしれない。
2塁走者は扇さんがケアしてくれる。だから私はミットにだけ集中すればいい。
余計な力みはフォームのブレに繋がる。いつも通りを心掛けて左脚を振り上げる。
――狙うはミットただ一点。
「……ふっ!!」
短く強く吐き出された呼吸と指先が白球を弾いた。
「っ!……これっ………は……。」
苦々しい表情でスイングを始動途中で止める四番。乾いた皮が打ち鳴らす捕球音。
「――………………………竜朗的にはどう見える?」
「ッち!……枠、入ってんじゃないですか?」
「僕がミット動かしたとかは考えないんだ。」
「先輩はそういう狡いことしないっスよね。大体ミット流れるとこあんま見たことないし……。てか、分かってて聞く辺り、本当良い性格してますよね。」
また扇さんと何か話してる。判定のことかな?まさか微妙に外れてた?……私から見た限りではドンピシャで投げられたと思うけど。
私は制球力が良いらしい。『らしい』という助動詞がついているのはチームメイトがそう言ってくれているからで、客観的に同世代の投手と比較しての評価ではないと思っているので私的にはあまり自信は無い。そもそも比較できるほど他の学校との対外試合が出来ていないという悲しい事情もある。
制球力が良いと言っても、寸分違わず構えたミットがまったく動かない、そんな精度の投球が出来るのは100球くらい投げて1球あるかないか。大抵構えたミットの近辺くらいにしか行かない。調子によってそのブレ具合が大きくなるか小さくなるか、それくらいの精度だ。現に今日は見極められたというのもあって、ここまで3つの四球を与えている。
……だから今の一球は奇跡的に決まったと言っても良い。投手的にはいわゆるストライクを取って欲しい一球。
「OK!!ナイスボール!!……2アウト、2ボール、2ストライク!!」
そんな私の内心の焦りと裏腹にちゃんとストライクだったようだ。扇さんがプレイヤーへの周知も兼ねて低く響く声で伝達してくれた。
これであの人を追い詰めた。




