第一章 二十六話 紅白戦⑫―一回裏― 圧力
――2O、0B、1S
私はこれまでにない圧力を感じていた。一度長めのタイムを挟んだことで上がっていた息も少し落ち着けた。だけど、たった一球投じただけとは思えないほどの疲労感が全身を包んでいた。多分、私が思っている以上に危険地帯――ど真ん中に投げることに神経を使っていたんだと思う。それに加え――
(あの四番の構え――いや、恐らく表情とか目線も含めて、打者としての風格が今まで対戦してきた打者とは桁違いなんだ。)
今のど真ん中の投球に対して四番はピクリと一瞬反応しただけ。それにも関わらず、その仕草だけで私は打たれることを幻視してしまった。さっき、扇さんには二打席目の対戦を『――際どいコースで内外攻めすぎて、それがストライクにならなくて四球――』なんて言ったけど、多分無意識の内に勝負することを避けたんだと今になって思う。
なら何で今、逃げなかったのか。――違う。逃げなかったんじゃない。逃げられなかったんだ。視線を少し上げるとそこには一球目を投じた時と同じ様に目線を本塁に落とし何かを思案している扇さんの姿が映る。扇さんの構えていた真っ黒なミット。それがまるでブラックホールの様に見えて、緊張やチームのこと、試合展開――サイン交換中に考えていたそんなことが投球動作に入った瞬間に消し飛んで、気が付いたらミットから目が離せなくなっていた。――まるで"逃げるな"と言わんばかりに。
「……でも初球、あのコースでストライクが取れたのは大きい。」
投手にとってストライクカウントが先行する状況はお守りのような安心感がある。どうしてもボールカウントが先行してしまうと四球が頭によぎるし、かといってそれを避けようと安易にストライクを取りに行くと狙い撃ちされる。相手のレベルが上がるほどコースの枠の外での勝負が重要になってくる。レベルの高い打者はストライクの枠内でのコンタクト率が高い。つまりどうやってボール球でカウントが取れるかという勝負になる。
――でも私には変化球という選択肢がない。それが使えればストライクからボール、ボールからストライクというようにコースの範囲を目一杯使って打者を幻惑することができ、カウントを稼ぐことが出来る。使えないからこそコース枠ぎりぎりでいつも勝負してきた。けれど直球1本じゃボール球に手は出してくれないし、ストライクゾーンぎりぎりの良いコースに決まってもカットされるケースが多かった。だから私にとってカウントを稼ぐことは目下最大の課題だった。
「……よし、二球目は……。」
そう呟いて投手板に足を掛け、扇さんを除き込む様に前傾姿勢を取る。
……パッパッパッと扇さんが足下でハンドサインを切り替えていく。……うん。予定通りだ。
こくりと縦に頷き、セットポジションに入る。
(……1、2、3っ!)
そう心の中でリズミカルに数字をカウントアップした瞬間。
「――えりっ!!」
セットポジションの為に投手板掛けていた右足を軸にして180度クルッと身体を回転、視線の先に映る景色が身体の回転に伴って目まぐるしく変わる。――目端に私の動きに合わせて2塁に入るえりの姿を捉える。
私の動きを見て2塁走者はヘッドスライディングすらしないで帰塁した。あの感じ3盗はない。まぁ点差が点差だからわざわざする必要もないけれど、今の牽制球の意図は盗塁を阻止する目的ではない。
「夏波っ!!」
えりもわざわざ走者にタッチせずに間を置かずにすぐに私に返球してきた。私はそれに応えるように頷き、すぐさまマウンドに戻り再度扇さんのサインを確認する。
「………。」
扇さんも事前の打ち合わせの通り、サインを出してくれた。当然私はそれに同意する。
「……っふ!!」
セットポジションに入るや否や私は始動した。扇さんは中腰の姿勢で、構えるミットは内角高め。先ほどと同じように放たれた白球は――
「――あっっぶねぇ!!」
――打者の胸元付近を抉るように通過していった。四番の人はそれを仰け反るように避けてくれた。当然、ストライクゾーンは外れている。
(……これで良いんですよね?扇さん。)
あの四番の人が避けなければ多分当たっていたコース。直撃はなかったかもしれないけど、恐らく掠ったと思う。そんなコースに私は狙って投げた。
――所謂、危険球。プロの話にはなるけどルール上、退場行為とされるものは色々ある。その中の一つが頭部死球だ。野球の球はそれなりに硬い。それこそ軟式用のゴム製のものだって時速100km/h以上で当たるとそれなりに痛い。扇さんと出会ったきっかけになったあのバッティングセンターで当たった自打球ですら青痣になったくらいだ。それ以上の硬さとなる硬球ともなれば、命の危険だってある。だからこそプロの世界ではそれを戒めるルールが存在する。
……いくら球速が遅い私の球だって下手をすれば大怪我の恐れがある。それを承知で当たるか当たらないかぎりぎりの所に投げ込んだ。
(扇さん、やっぱりあの人めっちゃ睨んでます!!)
やはりというか何というか投げられた側はたまったもんじゃない訳で当然矛先はこちらに向く。……まぁ打者からすれば、それがサイン通りなのか失投なのか知る由がないから当然なのだけど。
「OK!ナイスコース!」
そんな内心穏やかじゃない四番の人を尻目に扇さんは「それでいい。」と言わんばかりに、何でもないように私へ声を掛けてくれる。
当然、そんな危ない球を投げられてそれを「ナイスコース」なんて言われた日には怒りの矛先が私から扇さんへ向かうのもまた自然なことだった。
「……へぇ……狙って投げてるんだとしたらへぼPの癖にコントロールはまぁまぁっスね。」
「さぁ?どうだろうね。」
何やら二人が話してる。マウンドからでは聞こえないけど。……四番の人は一瞬カッとなったけど落ちついてくれたみたいだ。でも次のことを考えると気が重い。
……三度サインを交換する。そして私はそれに首を横に振った。そんな私を見て再びサインの出し直しを行う扇さん。しかし、首を縦に振ることはなかった。
「……タイム。」
そんな私を見かねて四番は打席を外すことで一度タイムを要求する。一度、二度、打席の外で素振りをして再度打席に入る。そんな打者の様子を見て私はこう思う。
――ああ……どこまでも想定通りだ、と。
相手の短いタイムの後、再開した後のサイン交換は一度で完了した。
「…………………………。」
一度、二度、三度、セットポジションに入った状態でしきりに2塁走者を気にするように視線を向ける。
(さぁ、私。覚悟を決めろ。)
左足をいつもより高く振り上げ、相手打者の方向へ踏み出す。そしてグローブを着ける左手を相手打者目掛け指し示す。
(狙いは低め、後は扇さんを信じるだけ!!)
「っふ!!」
吐いた息と共に右腕を振り切る。
「……!?――またインかよ!!」
(低すぎ……!!)
投球は四番の足元目掛け放たれ、バッターズボックス内でバウンド。先程と一転して今度はまるで足払いをされたように球を避けた勢いそのまま前につんのめった。
打者にとっても内角は泣き所になり得るけど、捕手にとっても同じだ。何故ならそれは――投球が打者に被るから。暴投による2塁走者の進塁――私はそれを覚悟した。
「っ2塁ストップ!!」
その時だった。相手ベンチの沢井さんから3塁へ飛び出しかけていた2塁走者に放たれた、ひと際トーンの高い声で咄嗟に叫ぶような声が響いたのは。
視界を遮る打者、各打者によって踏み荒らされたバッターズボックス、そこでバウンドする投球。考え得る限りの捕球し辛い条件を並べた、そんな状況で彼は誰よりも冷静で、そしてテクニカルだった。
逆シングルで半月を描くようにミットで掬い上げて捕球。そして投球を避けて本塁に被る打者の後ろにステップ、そして2塁への送球。一連の動作が淀みなく流れるように行われた。
「セカンッ!!」
私は咄嗟にそう叫び、2塁へのカバーリングを指示する。送球が遅くなるどころか、むしろ送球に合わせ2塁へ入る二遊間のタイミングの方がギリギリだった。
「アウト!?セーフ!?」
そう沢井さんが判定を急かすくらい傍から見たら際どいプレイだ。
「ギリギリ……でセーフ?」
「そ、そうだと思います。」
2塁走者とカバーリングに入った2塁手の間で判断がなされ、両者がセーフの判定を下す。
「ん~惜しい。若干送球が浮いたかな?」
判定の余韻で静まりかえるグラウンドに扇さんの呟きが零れた。
確かにあのタイミングを考えれば、送球の捕球から走者へのタッチの時間がほんの少し短ければ判定は変わっていただろう。けれど今の送球はほぼドンピシャ。本塁から2塁までの27.431mという距離を考えれば誤差みたいなズレ。
「バッテリー間エラーによる進塁は絶対に許さない」――扇さんの今のワンプレイは相手への無言の圧力だ。そして私へのフォローでもある。「――2塁走者は気にしないで打者集中して良いよ。」
――これでカウントは2O、2B、1S




