第一章 二十五話 紅白戦⑪―一回裏― ど真ん中
扇 賢吾、あの人の凄さはチームメイトだった俺が一番よく知っている。あの人を超えることを目標に自分なりに研鑽を積んできた。その結果、近づけば近づくほどに分かるあの人の凄さだった。
試合の状況は11対1でこっちが圧倒している。相手が年下だとか女が混じっているとかそんなことは関係なく、やるなら誰が相手でも徹底的に叩き潰す、そう思っている。その結果、大差がついて多少モチベーション的な意味合いで張合いが無くなっていた時、相手捕手にアクシデントが起きた。状況的に試合続行か途中終了かマウンド上に集まる相手チームを眺めていると扇先輩だけがマウンドからベンチに引き下がった。そしてそのまま捕手用防具を装着し始めた。
『扇先輩と勝負させてくれ。』
マネージャに向けたその言葉は自然と出てきた。
――――長いタイム明け、さっきまで死に体だった女投手の表情がマシになっていた。この女投手の特徴は伸びのある直球とある程度まとまった制球力。持ち球は直球のみ。俺自身の二打席とうちの他メンバーとの対戦を観てもそれは明らかだろう。年齢や性差による能力を鑑みても良い直球ではある……が、それはあくまで中学生レベルの範疇だ。なまじ制球力がある分、配球が読み易い。一打席目はセオリー通り低め中心、伸びを活かした高めで決めに来た球を強引に持って行った。正直、よほどの工夫をしてこない限り安牌だろう。
(ただ……この人が受けるとなると話は違う。)
俺は自身の立つ左打席の土を均しながら横目に扇先輩の様子を伺う。マスクを被っている為、表情は伺い難いが視線は俯いていて本塁の一点に集中している。いつも俺が守る一塁からよく見ていた光景。
野球の基本は投手対打者だ。投手の投げる球の勢いや緩急にどう対応するか、それが基本路線……けれど良い捕手が居ると事情が変わる。こっちは投手に100%注力したいのに意識が捕手の思考を読むことに傾く。そうなると当然、打ち損じが起きやすくなる。
「……ま、だからそこ挑戦し甲斐があるんだけどなぁ……。」
扇先輩に聞こえない程度に思わず挑戦的な呟きが零れた。
この女投手が直球しかない以上、絶対的に取れる択は少ないはず。球の質からして十中八九、勝負球は高めの釣り球で来る。しかも一打席目に単純な高めの釣り球は攻略してるからコースは内角高め。……あとは勝負球――つまり追い込むまでのカウント球をどう読むか。…………扇先輩の配球の最大の特徴は内角の使い方。使うタイミングに神がかり的な上手さがある。ただ一方で、扇先輩の配球は無茶な様で根底は基本に忠実だ。勝負所では内角を予想もしないくらい執拗に要求したりもするけど基本は外角低め中心。
……初球の入りを見るのも有りか。
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『――初球、ど真ん中要求するけど表情に出さないようにね。』
『ど、ど真ん中ですか。』
マウンドには私と扇さんだけ。サイン交換の確認の為にさっきまでチーム皆で集まっていた円陣は少し前に解散し、二人だけを残していた。
『……まぁ最悪ストライクならどこのコースでも良い。一番やりたくないのはボールカウントを増やす事だから……あ、もしかしてど真ん中構えられると投げ難かったりする?』
自分が言うのもなんだけど投手という生き物は繊細だと思う。今は申告敬遠が出来るから見ることはなくなったけれど、打者を敬遠する為に捕手が立った状態で構えるとまともに投げられず、暴投してしまう。なんて光景を少し前まで良く目にしていた。
要はいつもと少しでも違う状況になるとリズムが崩れやすい、扇さんはそれを危惧しているのだろう。
『い、いえ、そういったことは別にないんですけど、何でわざわざど真ん中なんですか?』
『あ、口隠してね。……竜朗は多分一球見てくるからさ。』
扇さんはミットで口元を覆いながら悪戯っ子がネタ晴らしをするように笑いながら言った。
『なんで……。』
正直、前の打席の結果があるから初球の入り方は大事にセオリー通り外角低めだと私は思っていただけに扇さんの言葉には驚きがあった。なんでそう思うのか。そう続けようと思う私を尻目に扇さんは話を続けた。
『まぁ、今日が初見の久遠さん達じゃ知らない竜朗の性格とか打席傾向とかの読みもあるけど、一番は直球しかない上に崩れかけの投手とこの試合展開、そこに出てきた『いかにも』何かやりそうな捕手、そんな状況で読みを張るタイプの竜朗ならまず見てくる。後はこの投手ならいつでも打てるっていう少しの驕り。』
『……それに一球待ってそれがど真ん中だったら………滅茶苦茶ムカつくでしょ。まぁ大穴で、『良いコースだから咄嗟に手が出て振り遅れのファール』もあるかもしれないけど。』
――さっきの作戦会議中そう言われなかったら絶対にサイン交換の時に表情に出ていたと思う。出されたサインは予定通りど真ん中の直球。
やってはいけないことは力んでコースを外す事。だから私は肩の力を抜くことを心掛ける。イメージはあの日バッティングセンターでしたキャッチボール。投手にとって一番怖いボール。それがど真ん中直球。普段は如何にそこへの失投をしないようにするか、それに注力しているのに今やっていることはそれの逆。
『――僕は今一時的に区立板東二中野球部のチームメイトだ。』
でもそんな風に怖気づく私の心に思い起こされるのは扇さんの言葉だった。その言葉は思い返すだけで振り上げた脚を踏み出す力になってくれた。
「――――どっっっ真ん中ぁ!!」
大きく吸った息を一気に吐き出し、吠えるように腕を振るう。投じた白球が指先から離れ、一直線の白線となり扇さんの構えたミットに向かう。打席上の四番打者がバットを引きスイングの始動を見せる。あ、やばい。打たれる。打者のその始動を見た瞬間、脳裏をよぎったのは一打席目の放物線。
だけど。
「――ッチ!!」
指から伸びた白線は途中で切れることなく、これまで聞いたことのないような破裂音と主に扇さんの真っ黒なミットに収まった。
「み、見逃した……。」
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マスク越しに映るこの光景が好きだ。防具を着けているから夏は馬鹿みたいに熱いし、マスクのせいで息はし辛い。けれど球場のどこよりも良く野球が見える場所。投手の指先からボールが離れ、最初は小さく見えていたボールが徐々に大きくなる。そして感じるミットへの衝撃。遅れてくる手のひらから感じるジンジンとした痛み。
何より、僕が思い描いたとおりに打者が翻弄され、悔しがる様子が一番近くで見れるこの場所は最高だ。
「――よし、イケる。」そう思ったのは久遠さんの指先から球が離れてから約コンマ数秒のことだ。
打者と同じように捕手も投手の球筋をある程度の距離で予測する。全部の球がミットを構えたところに来ることはあり得ない。時に構えた場所と反対方向――すなわち逆球になり、時に本塁手前でワンバウンドしたり、投球に合わせ対応していく必要がある。
何千球も球を受けていると経験則によるものなのか、その投球が良い結果になるのか悪い結果になるのか直感することがある。そしてその直感の答え合わせをするかのようにミットに収まる直前、打席に立つ竜朗から舌を打つ音が聞こえた。
ど真ん中ストライク、と言いたいところだけど、若干内角寄りにズレた。けれど、打者からすれば絶好球と言えるコースだった。
「OK!!ナイスボール!!」
僕の言おうとしていた台詞を先取りするように僕の正面、だけど50m程離れた中堅から新山さんの声がグラウンドに響いた。
「――……初球から打ちに行くとは思わなかったンすか。」
「ん~。僕が出てきた時点で竜朗は勘ぐるでしょ?……あといつでも打てるくらいに思ってるんじゃないの?」
打席上では竜朗が久遠さんへ視線を向けたまま、けれどはっきりと僕に向かって話しかけてきた。それに対して僕は久遠さんへ返球しながら応じた。
「……あんまりこっちばっかり見てると久遠さんに足下掬われるよ。」
「あのへぼPにはもう勝ったからいい。……俺はあんたに勝ちたい。」
「……」
竜朗はかなり前から僕に対して変なライバル意識を持っているのは知ってたけど、引退してもそこは変わっていないみたいだ。一、二打席の内容だけで久遠さんを攻略した、そう言っている。何が竜朗の琴線に触れて僕を買ってくれるのか分からない。けれど、今の竜朗の言葉は僕には受け入れられなかった。何故だか言葉に出来ないけれど。
野球は一球一球が生き物みたいに変化する。その試合調子の悪かった選手が、調子の悪かった打線がある一球を契機に激変することが起こる。
――それを証明してやる。
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