第一章 二十三話 紅白戦⑨―一回裏― 「扇の要」
『野球は筋書きのないドラマである。』――この言葉がいつ、誰が残したのか私は知らない。けれど野球の名試合、名場面なんかを語るときに良く聞く言葉。そんな言葉を思い起こしながら、私は人生も一緒だなぁ……なんてまるで他人事みたいに、目の前の光景を見てそんなことを思った。
「……さぁ、後アウト一つ締まっていこう!!」
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『それに久遠さんの球はまだ死んでないよ。………それを証明してあげるよ。』
扇さんは自信たっぷりにそう言い放った。けど……。
「あ、あの、扇さん証明って……?」
どうやって?そう続けようとした私の言葉を遮るように沢井さんと上原君が治療を終え、戻って来た。
「先輩、一応手当はしておきました。……ただ、試合どうします?マネージャーとしてはせっかく来てもらったお客さんに無理させられないんですけど。」
「ああ、ありがとう。……上原君、多分大丈夫だとは思うんだけど、この後家に帰っても腫れが引かない様だったらちゃんと病院で見てもらってね。」
「は、はい。分かりました。じゃあ試合は……。」
上原君の左手を見ると湿布とそれが剝がれないように巻かれた包帯が痛々しく映る。
「申し訳ないけど、これ以上続けさせられないかな。突き指も癖付いたら厄介だからね。」
「扇さん、でもうちには捕手出来る他のメンバーが……。」
「ああ、それなら大丈夫。僕が行くから。」
「「っ!?」」
事も無さげに言い放った言葉に私と上原君がフリーズする中、沢井さんだけが「始まった……」と言わんばかりの表情で天を仰いだ。
「……一応言っておきますけど先輩、それだと今日の試合の趣旨が変わってきません?」
「まぁ、見たかったものは見れたし、この終わり方も微妙すぎるでしょ。過程がどうであれ、始まったものはきっちり終わらせないと消化不良になっても困るし……ね?」
「……まぁそっちのチームの皆さんが良ければうちは良いですけどね。」
「ってことだけど、久遠さん的にはどう?」
私の意思はさっき扇さんに伝えた通り、揺るがない。この試合が最終的にどういう形に終わろうとも最後まで勝負したい。だって野球は最終回の3アウトまで終わらないから。でも……。
「私はまだ負けてないです。ただ……皆がどう思っているのかは聞きたいです。」
「分かった。じゃあ集合掛けて、手短に決めよう。」
正直、私の心は折れかけていた。けれど扇さんとのやり取りで気づかされ、繋ぐことが出来た。けれど、れな達はきっと違うと思う。
マウンドには隠れる場所が無く、野球は投手が動かなければ始まらないスポーツ。……ならばその投手が一人で崩れた時背後を守る野手たちには為す術がない。野手の役割は基本的に飛んできた打球を捌くことだけれど、自分のところに打球が来なくとも不測の事態に備え、カバーリングを行う。今の試合を野手目線から見るとアウトが取れない状態で延々と打球を追い続け、カバーリングを黙々と行うそんな状況。運動量はきっと私よりも多いだろう。
「………………『過程がどうであれ、始まったものはきっちり終わらせないと』、ねぇ。……それは先輩も同じじゃないですか……。」
「……?」
扇さんが捕手用の防具の準備でベンチに向かう中、沢井さんのぼそりとした呟きが初秋特有の涼やかな風に乗って消えた。
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「――ってことなんだけど皆はどう思う?」
内野陣、外野陣含めうちのチーム全員をマウンド上に集めことの次第を掻い摘んで説明した。上原君の怪我のこと。代わりの捕手として扇さんが手を挙げてくれていること。
「……そりゃあ、終わらせられるのなら終わらせたいけど………ねぇ。」
そう口にしたのは溝脇君。
「正直言って、あと一人とは言え、この回がどこまで続くか分からないし、力不足がはっきりしたところで終わるって選択肢もなくはないと思うんだよね。……今の状態だと元々の試合経験を養うって目的も意味があるのか微妙だし。……実質コールドみたいなものでしょ。」
額に滲む汗を拭いながら寺原君が続けざまに打切り試合に言及するとマウンド上に沈黙が広がる。
野球の公式戦では良く試合の試合途中での打切り条件が設定されている。代表的なものだと一定以上の点差、天候、日没が挙げられる。今、寺原君が言ったコールドは点差が開きすぎたことについて言っているのだろう。
……私が想像していた以上に皆心が折れている。今まで一度も試合で勝てたことはない。だから負ける毎に少しずつ心は折れていった。それをどうにかしたい一心で扇さんにコーチの打診をした。それが皆の微かな希望になったのか、昨日の河川敷の練習はいつも以上に引き締まってイイ感じに練習出来ていた。そして今日、過去一番の格上を前にそんな微かな希望すら消し飛んだ。
……虚勢でも良い。何か、何か皆を上向かせる言葉を……。
――そう思った矢先。
「ごめん!!!!」
飛び出した謝罪の言葉。
「あたし、心が負けてた!!……夏波が一生懸命投げてるのにボール、呼ばなかった。完全にただのボール拾いになってた。」
「れな……。」
「相手が上手なんていつものことだし、それをどうにかして勝とうって思うなら『諦める』は絶対にやっちゃダメだった。」
「……うん。……そうだよね。夏波、ごめん。私も途中から声掛けに行かなくなっちゃってた。間、少しでも取れば楽になったかもしれないのに。」
れなが滴る汗を拭いそう後悔を口にすれば、その言葉にえりが唇を噛みしめ同調する。
「それにさ!!甲子園出場校から1点は取れたじゃん!!それ考えたらワンチャンスあると思わない?」
「ま、まぁそれはそうだけど……。」
「寺原、ネガティブ禁止ね。」
「ぼ、暴君……。」
「なんか言った?」
「い、言ってません……。」
状況は何も変わっていない。けれど、れなの一言をきっかけに雰囲気が和らいだのを感じる。こういう底抜けの明るさが彼女の尊敬出来るところだ。少なくとも私はこういう引っ張り方は出来ない。
「それなら………。」
「うん。続行しようよ。」
「まぁここまで来ればあと何点取られようが変わらないか。」
「あはは……抑えられるように頑張るね。」
「……その感じだと意見はまとめられたみたいだね。」
ゆっくりマウンドへ歩みよりながら声を掛けてきたのは捕手用防具に身を包んだ扇さんだ。その姿は今年の夏の甲子園で『都立高校の逆襲』の立役者として注目を集めた姿そのもので、防具を身に着けたことでその身に纏う雰囲気すら一変している。
「はい。試合、続けさせてください。」
「了解。」
「じゃあせっかく皆集まっているからちょっと作戦会議しようか。――あ、上原君もちょっと来てもらえる?」
扇さんはマウンド上に集まった区立板東二中7名を見渡し、そう話を切り出した。
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「先輩、ちょっと良いですか?」
マウンド上での作戦会議を終え、グラウンド上に区立板東二中の面々が散ろうかと言うタイミングで沢井さんが扇さんを呼び止める。
「ん?」
「あー……なんていうかうちのメンバーからちょっと注文というか要望が出まして。」
「要望?」
「……扇先輩、俺と勝負……して貰えませんか。」
「……竜朗……。」
あの人……四番の人だ。1打席目に3ランホームラン打たれたから否が応でも顔は覚えた。相手の打順的に次の打者は一番からのはずだけど。
「こんな感じで神場からの希望でして、うちのチーム内での了承は取れたので先輩たちが良ければこのタイム明けは四番からにさせて貰えませんか?」
「僕は良いけど……皆はどうだろう?」
「……うちは扇さんに急遽出て貰っちゃったのでそれで帳尻合わせが出来るのなら全然大丈夫です。」
私が代表してそう答えると、皆もそれ続いて頷き同意する。
「扇先輩とは卒業までに一回でも対戦してみたかったからなぁ。ちょうどいい機会になった。……まぁ投手がしょぼいのが残念だけどな。」
「……っ。」
「ちょっと神場、夏波ちゃんに失礼でしょ!!」
相手の四番――神場さんがそう言うと沢井さんが咄嗟に私を庇ってくれる。鼻で笑うような言い回しに流石に思うところはあるけれど、1打席目の結果で見れば私が完敗だから言い返すことも出来ない。
「……竜朗、一つ忠告。上っ面だけ見て、転ばないようにね。」
「はっ……。」
扇さんの言葉を一笑に付し、神場さんはゆっくり打席へと向かった。
「竜朗は相変わらずだなぁ。」
「……ですね。相変わらずの捻くれっぷり。まぁ、あいつなりに先輩が引退して寂しがってるんですよ。……夏波ちゃんもごめんね。」
「い、いえ、事実なので。」
沢井さんはそう言い残すとベンチへ下がっていった。
「久遠さんも皆も多少状況は変わったけどやることはさっき伝えた通り。あと一人サクッと抑えてベンチへ帰ろう。」
「「はい!!」」
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「……さぁ、後アウト一つ締まっていこう!!」
「「「「「「おう!!」」」」」」
選手交代とタイム明けによる軽い投球練習後、扇さんの低くけれどはっきりとした口調でグラウンドに響く号令。そしてその後に私の後ろから跳ね返るレスポンス。
上原君の怪我の治療によるタイムを挟んだだけで点差は変わらない。それどころか走者を2塁へ置いて迎えるは四番打者。けれど、グラウンドには明らかにそれまでと違う雰囲気が漂っている。
甲子園出場校――都立板東高等学校、正捕手、扇 賢吾が目の前に居る。決してレベルが高いとは言えない投手陣をリードし甲子園出場へ導いた『都立高校の逆襲』の中心人物。彼が立つ場所はまさしく扇の要。




