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何を聞いたのか、まったく分からなかった。
それなのに、兄のザッカリーの声だけが鮮明に響く。
――曰く、セレスティアは彼女に恋をしていたとある子爵令息に殺されたらしい。彼はセレスティアと同行の趣味を持つ者たちが集まるサロンを通じて顔を合わせたことがある程度の関係だったそうだ。
セレスティアの美しさと彼女の気さくさに惚れた令息は、しかしその想いを口にすることはなかった。セレスティアは既にイライアスの婚約者だったからだ。
それでも、想いは募っていく。
そんなとき、彼は街中でデートをしていたセレスティアとイライアスに出会い、ひどい憎しみと嫉妬に駆られ、そしてイライアスを刺し、セレスティアと無理心中をしようとした――
「犯人は……自殺した。……イライアスは重症で……セレスティア嬢は……何回も刺されて……それで……」
ザッカリーが言いにくそうにしているが、今はそれを気にしている場合ではなかった。だって。
(セレスティアが、死んで。イライアスが、重症……? そして、よりにもよって殺したのが……セレスティアに横恋慕していた、ししゃく、れい、そく、……?)
吐き気がした。
耐え切れなくなり、シエナは洗面所に駆け込む。兄が名を呼ぶ声もどこか遠かった。
そして、胃がひっくり返るまで吐いた。
赤い。視界が、真っ赤だ。
(……まただわ。また、恋)
醜い、醜い。汚らわしい。
恋如きが大切な親友を殺し、愛する人に怪我を負わせ、そして二人の人生を台無しにした。
そのすべてが恋だ。
(恋の何が、そんなにも素晴らしいの……?)
これは呪いだ。他人の人生を狂わせているものが綺麗なものであるわけがない。それなのに、恋愛はいいものだと人々は口をそろえて言う。
何より憎らしいのは、自身がそんな低俗な感情を、よりにもよって親友に抱いていることだった。
(……私が、イライアスに恋をしてしまったから。だから、セレスティアが死んだ)
やっぱりウェディングヴェールなんて、作るべきではなかったのだ――
吐くものを吐きつくしたシエナは、一晩中声を殺して泣いて。それから数日間熱を出して寝込んだ。
*
セレスティアの葬儀は、それから一週間後に行なわれた。
喪服に身を包んだシエナは、半分夢見心地なまま式に参加する。
(……セレスティア)
セレスティアの遺体は、ひどいものだったらしい。かろうじて顔は綺麗だったが、体がずたずただったため、葬儀の席で棺の蓋が開かれることはなかった。
だからなのか、彼女が死んだという実感が、まったく湧かない。
「……お悔やみ申し上げます」
そう、憔悴しきったレニナ侯爵と夫人、セレスティアの弟であるトレイシーに告げたときも、涙が出なかった。
誰かが「親友の死なのに涙の一つも流さないなんて……」と言っているのが聞こえたが、気にならなかった。というより、構っている余裕がなかった。
心に大きな穴が空いていて、何も感じられなかったから。
(心が、無くなってしまったみたい)
犯人が自殺して、その実家が責任を取らされて没落したところで、セレスティアは帰ってこない。
(セレスティア)
――シエナ!
(セレスティ、ア)
――見て見て! シエナに見せたくて描いたの! きれいでしょ?
(……セレスティ、ア、)
――シエナ! 大好き!
セレスティアの声が、笑顔が、彼女の描いた絵が、彼女との思い出が。こんなにも、こんなにも鮮明に思い出せるのに。
なぜ。
(セレスティアが死んだの……? 死ぬなら、私が死ねばいいのに)
なぜ。
(イライアスが重症を負って苦しんでいるの? 私が苦しめばよかったのに)
なぜなのだろう。
なぜ、その場にシエナがいなかったのだろう。そしたら、きっと。盾くらいにはなれた、はずなのに。
そんな現実味のないことばかりが脳裏によぎって、そして色褪せていく。
そうして家に辿り着いたシエナは、そのまま気を失うように眠りについた。
しかし。
それから一週間しないうちに貴族の間で、「セレスティアは男をたぶらかすふしだらな女だった」といううわさが流れたのだ。
出どころはキャンベル公爵令嬢、ヴィヴィアンヌだ。
「あの女、なんていうことを……!」
生前からセレスティアのことを目の敵にしていたが、故人をこのような形で辱めるなど、正気の沙汰ではない。
同時に、ヴィヴィアンヌが未だにイライアスに対して想いを募らせていることがありありと分かり、シエナはぎりっと歯を噛み締めた。
暴力などまったく好きではないが、彼女に関しては一度殴っておかなければ気が済まない。いや、それよりも。
(この話がイライアスの、そしてレニエ侯爵家家の方々の耳に入ったら……)
そう考えて、ぞっとした。
ここまで多くの人間を傷つけて、何がしたいのだろう。恋している本人まで傷つけて、彼女はいったい誰の、なんのためにこんなことをしているのだろう。理解ができない。
しかしシエナにできることがないということも事実だった。そのため、悔しい思いを募らせながらことの成り行きを見守っていたのだが。
それから三日後に、シエナの元に手紙が届く。
差出人は、クルーニー伯爵夫人だった。
*
「ごめんなさいね、シエナさん……お呼び立てしてしまって」
そう頭を下げたクルーニー伯爵夫人であるエヴァンナは、憔悴しきった顔をしていた。セレスティアの葬儀の際にも顔を合わせていたが、そのときよりもひどい。悪い予感が募っていく。
「いえ……それで、どういったご用件でしょうか?」
「その……イライアスが、私室から出てこなくなってしまって……」
どくんと、心臓が大きく脈打つのが分かる。
「……それはもしかして、セレスティアの噂が原因でしょうか?」
「……おそらくは。怪我をしたときから、口数が少なかったのだけれど。セレスティアさんの件を聞いてから、誰も入れないようになってしまって、それで……」
きっとエヴァンナはすがるような思いで、シエナに手紙を送ったのだろう。唯一の後継者であり子どもであるイライアスが大怪我をしたというだけでも新郎は相当なものだったろうに、その上噂のせいで出てこなくなったとなれば、それも仕方がないと思う。
そのため、シエナはこくりと頷いた。
「分かりました、やってみます」
そうしてシエナは、イライアスの私室の前にやってきた。
ノックをして、名前を呼ぶ。
「イライアス? 私よ、シエナ。お見舞いに来たのだけれど、開けてもいいかしら?」
返答はない。
それでもなんだか胸騒ぎがして、シエナはもう一度口を開いた。
「イライアス?……入るわよ?」
試しに、ドアノブを回してみる。
鍵は、かかっていなかった。
――嫌な予感が、した。
シエナは扉を開ける。
瞬間、視界に入ってきたのは、今にもバルコニーから飛び降りようとしているイライアスの姿だった。
人生でここまで全力で駆けたことは、今日が初めてだ。
そして、こんなにも全力で男性を引きずりおろしたのも。
しかし自身の腕の中に確かな温かさを感じ、シエナはようやく現実に帰ってこられた。
息が、荒い。全身が痛くて、悲鳴を上げている。
それでも、イライアスが生きている。
そのことに対する安堵で気が抜けていると、腕の中のイライアスがすすり泣く。
「頼む、シエナ……死なせてくれ……」
「……イライ、アス」
「セレスティアを守れなかったのは、おれだ……彼女が死んだのも、おれの、おれの、せい、で……なのに、なのにどうして、かのじょのあんなうわさが、」
「……イライアス、それは違うわ」
「ちがわない、ちがわないんだ……全部、ぜん、ぶ、俺のせい、で……おれはいったいなんのために、いままで、けんじゅつを、」
――おれが死ねばよかったのに。
その言葉を聞いて、シエナはぎゅっと唇を噛み締めた。
(そう……セレスティアを助けられなくて一番後悔しているのは、イライアスよ)
彼の苦しみを、痛みを。シエナは分かってあげられない。共感することはできても、それは彼の痛みには遠く及ばないからだ。
しかも、今の彼は頭に包帯をして、腹部から血を流している。きっと傷が開いたのだろう、直ぐにでも人を呼ばなければならない。そう考える一方で、シエナの思考は高速で動いていた。
(でも、このままイライアスと別れたら?)
彼はこれから、どうするのだろう。そう想像して、直ぐに思い浮かぶ。
きっとまた、何度でも同じことを繰り返す。繰り返し、死のうとする。
だってこの世界に、希望なんてないから。
自分のせいで、大切な人が悪く言われて。そして彼女を守ることすらできなかったから。
(……イライアスは、心と体が完全に回復するまで、貴族社会から離れる必要があるわ)
この世界は、悪意で満ち満ちているから。だからこのまま王都にいても、きっとイライアスは傷つくだけ傷ついて、そして壊れてしまう。
そしてそうなったとき、シエナは。
そう想像しただけで、足元が崩れていくような感覚があった。
こんなの、まったく淑女らしくない。そして介入するにしても、度を越している。けれど、でも、だって――イライアスが、死んでしまう。
セレスティアだけでなくイライアスまで喪ったら、シエナはもう生きていけない。生きていく意味を見出せない。だったら。
「……イライアス、大丈夫よ」
私が必ず、貴方を守るから。
未だにすすり泣き、殺してくれと頼んでくる親友を、シエナはそっと抱き締めた。




