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夜。ベッドの上で転がりながら、シエナは大きくため息をこぼした。
レニエ侯爵家の別荘から帰ってから、ずっとこうだ。落ち着かなくて、胸元がむずむずする。そのたびにイライアスの顔が思い浮かんで動揺してしまうのだ。
そして、馬に乗せられたときの力強かったところだとか、抱き着いていたとき見た目よりもずっとがっしりしていたなとかを思い出して、顔から火が出そうになる。
それでも。
彼がチョコレートケーキを食べるときの笑顔や、意外と子どもっぽく拗ねるところを思い出して、くすりとしてしまうこともあった。
とにかく、ことあるごとにイライアスのことが思い浮かんでしまう。そのため、別荘で過ごした時間はとても楽しかったが、同時にドキドキが止まらないスリリングな時間でもあった。
それでも、取り繕うことは得意だったので、いつも通りにふるまえていたと思う。少なくとも、セレスティアもイライアスもシエナの様子の違いを指摘することはなかった。
そうして帰ってきた今、強く寂しさを感じていて。同時に、自身の感情に向き合うことができたように思う。
(これが、恋)
恋なのだと、シエナは強く感じた。
だって、まさか自分がここまでイライアスのことが気になるなんて、思ってもみなかったからだ。彼はシエナにとって弟のような存在だったし、恋愛対象になり得ないと思っていた。
しかし、恋はシエナの予想をはるかに上回り、勝手に動き出す。
本などを読んで知識として知ってはいたが、ここまで自分の感情が制御できなくなるとは思わなかった。やはり実体験に勝るものはないなと改めて実感する。
問題は、この気持ちとどう折り合いをつけるか、だ。
(正直、今の関係を壊したくない)
別荘で二人も言っていた、三人一緒がいいのだと。それはシエナも同じだ。
そしてもしシエナがイライアスに告白してしまったら、返答がどうであれきっとそれは崩れてしまう。彼は自分に恋愛感情を向けてくる人間を避けているようだったから。
(……この気持ちを伝えるよりも、私は三人で過ごす時間のほうが大事だわ)
これから、シエナたちはどんどん大人になっていく。そして家の繋がりで結婚相手が決められていくのだ。
シエナの両親は紆余曲折あり恋愛結婚をした仲だが、シエナは特に恋愛に対してこだわりがなかった。三人兄妹の末っ子だからだろうか?
何より、恋愛よりも友情のほうがいいと思ってしまう。
(だって恋愛はそのときだけだけれど、友情は一生ものだから)
そしてシエナにとっての気の置ける友人は、セレスティアとイライアスだけだった。そのため、その分重さが違う。
ぎゅうっと、シエナは枕を抱き締める。
(だから。この想いだけは絶対に、誰にも気づかれないようにしなきゃ)
*
しかしそんなシエナを嘲笑うかのように。とある茶会で、それは起きた。
――その日参加したガーデンパーティーは、とある子爵夫人が主催する令嬢たちだけのものだった。
またセレスティアはそろそろ母親が出産するということもあり、不参加。それもあり、シエナはあまり気乗りしない状態でガーデンパーティーに参加していた。
(本当なら、家でレース編みでもしていたかったのに)
シエナが最近、レース編みにご執心だった。元からコツコツ行なう作業が好きだったのもあるが、レース編みはその上綺麗な模様が描けるので、特に気に入ったからだ。なので主催者の子爵夫人が母と付き合いのある人でなかったら、きっと今頃部屋にこもっていたことだろう。
また、社交の場は元からそんなに好きではなかった。遠巻きに見られるからだ。
赤髪に、オレンジ色の吊り目。そしてこの顔が、そんなにも威圧感を与えるのか。
昔は気にしていたが、セレスティアとイライアスがいる今となってはそれもどうでもよかった。
(最初から、私の見た目とお姉様の噂ばかりを気にして怖がったり、意味もなく嫌ってくる人なんて、こっちから願い下げよ)
それでも、最低限の付き合いはあったほうがいいという母親の言うことも分かるし、シエナも同感だった。何かあったときに頼りになる人がいたほうが、楽に決まっているのだから。
それもあり、乗り気ではないものの参加したのだが。
「あーら! ガルシア嬢じゃありませんの!」
開始早々、一番会いたくない人に出会ってしまい、シエナはげんなりした。
しかしそれをおくびも出さず、シエナは扇子で口元を隠しつつ微笑む。
「……ごきげんよう、キャンベル嬢」
金髪の巻き毛に緑の吊り目をした彼女は、ヴィヴィアンヌ・キャンベル。キャンベル公爵家の一人娘であり、シエナとセレスティアに敵対心をあらわにしている令嬢だった。
歳はセレスティアとイライアスと同じ。
そしてシエナを毛嫌いするのは、彼女の兄がシエナの姉を口説こうと近づき、こてんぱんにされたうちの一人だからだ。
そして、姉の悪口を広めた挙句、妹まで性格が悪いと陰口を叩いていて広めたのは、ヴィヴィアンヌである。
それなのに社交の場ではこうして取り巻きを連れて声をかけてくるのだから、何を考えているのかさっぱり分からない。
そう思っていたのだが、彼女はシエナのそばを見回して「今日はレニエ嬢はいらっしゃらないのね?」と言ってくる。
セレスティアを気にした言葉に、シエナはスッと目を細めた。
「彼女は本日、欠席しているわ。それが何か?」
「へーえ。……なら、悪いことは言わないわ。あんな子とはすぐにでも別れたほうがいいわよ」
(……は?)
わけが分からず、シエナは内心ぽかんとしてしまった。
すると、ヴィヴィアンヌはしたり顔で言う。
「だって貴女、彼女に利用されてるもの。可哀想だわ」
「……どういうことかしら」
「……あら、もしかして知らないの? 彼女とイライアス様は、結婚することが決まっている関係なのよ?」
どくりと、自身の心臓が嫌な音を立てた。
(……セレスティアとイライアスが、結婚する仲?)
ぐるぐると、視界が回る。それでもなんとか倒れまいと歯を食いしばっていたら、ヴィヴィアンヌは楽しそうに言う。
「もちろん、知ってるのはごくわずかだわ。まあわたくしはお父様のおかげで知ることができたのだけれど!」
「……それがいったいどうしたというの?」
「まだお分かりにならないの? あの二人が知り合ったのは、五歳のとき。そしてその後、貴女と友人になった。つまり二人の仲を邪推されないために、貴女は利用されたのよ! ああ、可哀想!」
ヴィヴィアンヌがそう言うと、周りの取り巻きたちも「可哀想」だと同情をあらわにする。
しかしそれを聞いてシエナは、自分の頭が冷静になるのを感じていた。
(……つまり二人は、そもそも結婚の話を知らない可能性が高い)
そして近しい関係の親同士が、子どもの未来を前もって決めておくこと自体は、別にないわけではなかった。
ただ、それをこうして子どもばかりとはいえ、れっきとした社交の場で話すヴィヴィアンヌは、あまりにも非常識だと言えるが。
その上で、シエナは気がついた。どうしてヴィヴィアンヌが、それを知っていたのか。どうしてセレスティアのことを目の敵にしていたのか。
そう思ったシエナは、そっとヴィヴィアンヌに耳打ちをした。
「……そう、キャンベル嬢は、イライアスのことが好きなのね」
「っ!?」
びくりと、ヴィヴィアンヌが大袈裟なくらい動揺してシエナから距離を取る。その顔が熟れたりんごのように耳まで真っ赤になるのを見たシエナは、自身の推測が正しかったことを確信した。
(キャンベル嬢は、イライアスのことが好き。だから父親に、彼と結婚したいと言ったんだわ)
そしてキャンベル公爵と言えば、娘に対して甘いことで有名だった。それもあり、きっとイライアスとの婚約をセッティングしようとしたのだろう。
しかしそれを断られ、理由を無理にでも聞いたのか。そして父親がそれをそのまま話したのだ。きっとそうでないとヴィヴィアンヌが納得しなかったではないだろうか。
そして今に至る。
つまりヴィヴィアンヌがセレスティアとシエナを目の敵にするのは――ただの嫉妬だ。
それが可愛らしいものであれば、どれだけよかっただろう。
しかし今回のことは、あまりにも身勝手で愚かな振る舞いである。
そう思ったシエナは、にこりと微笑んだ。
「……先ほどのお話は、クルーニー伯爵様とレニエ侯爵様にもよくお伝えしておくわね」
「え?」
「きっと、キャンベル公爵様に対して苦情が入ると思うけれど……それに、これをきっかけに二人の婚約発表もされてしまうかもしれないけれど……仕方がないわよね」
だって貴女が犯した過ちですもの。
そう言い放ち、シエナは子爵夫人に断りを入れてから颯爽とその場を後にした。
馬車に揺られながら、彼女はぎゅっと手を握り締める。
(……二人が、結婚)
しかし言われてみたら確かに、幼いとはいえ男女が友人関係を結ぶことは珍しかった。だからヴィヴィアンヌが言うことは、ある意味で正しいのかもしれない。
それでも。
(セレスティアとイライアスは、そんなこと絶対に思ってない)
それだけは確かだった。それを疑うことだけは、絶対にない。伝えてきた相手がヴィヴィアンヌならば尚更だ。だって彼女はシエナの姉もシエナ自身も悪く言っているのだから。
そう思っているのに。
ちくり。
心臓に棘が刺さったかのように、痛い。
初恋の甘さだとか、裏切られたような苦々しさだとか、言葉に言い表しようのない感情が濁流のようにこみ上げてきて、シエナの胸元で暴れ回った。
(それでも。私は、キャンベル嬢みたいになりたくない)
イライアスへの恋心を自覚した後だったからか、直ぐに分かった。ヴィヴィアンヌがイライアスに対して恋をしていることを。今回、セレスティアとイライアスの関係のことも、その想いが暴走した末の腹いせのようなものなのだろう。
同時に、心の底から思ったのだ。
(なんて……なんて醜い)
恋は盲目、なんて言うが、その様はあまりにも醜かった。それで他人の人生がいくら歪もうが、おかまいなしだ。そしてそれに巻き込まれたのがシエナが最も大切にしていた親友たちの未来だったこともあり、嫌悪感は頂点に達していた。
そして、自分がそれと同じ想いを抱いていることに絶望する。
(恋がこんなにも身勝手で醜いものだというなら……こんなもの、一生見せなくていいわ)
親友たちの幸せを願って。シエナは自身の心に強固な鍵をかけた。
それでも。なんだか悲しくて、つう、と一筋、涙が頬を伝う。
「……さようなら、私の初恋」
そうして、生まれたばかりのシエナの恋心は、ろくに温める暇もなく、脆く崩れ去っていったのだ。




