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かりそめの妻でよかったはず、なのに  作者: しきみ彰


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 シエナ・クルーニーが初めてこの別荘にやってきたのは、雨が降り風が強く吹きすさぶ秋の日だった。

がたがたと震える窓の音と、舗装が行き届いておらず妙に揺れる馬車の中、毛布にくるまる彼の体を撫でさすっていたときの光景がまるで昨日の出来事のように思い出せる。


そのときは平静を装っていたけれど、今にもはかなんでしまいそうなほど弱っていた彼を見ているのはとてもつらかったし、恐ろしかった。

それでも、取り繕うことには慣れていたから、いつも通りでいられたと思う。


そうして辿り着いた別荘の庭は、荒れ果てていた。

屋敷自体は管理されていたのかきれいに掃除されていたが、枯れた花々はまるで今の彼そのもので、胸が締め付けられるような気持ちだったから。


 ――しかしそれから五年目の春。庭には美しい花が咲き乱れている。

 シエナが一から土を作り、整えた庭で丹精込めて育てた花たちだ。色とりどりのチューリップ、クロッカス、フリージア、ムスカリ。アーチにはクレマチスが蔓を絡ませながら花を咲かせている。


 自然豊かなところなので、少し離れた場所には青いネモフィラが野原いっぱいに咲いている頃だろう。そこでピクニックをするのが、この時季の楽しみの一つだった。

 ただそんな美しい庭にも、植えていない花がある。

 それはラベンダーだった。


(セレスティアが……私の親友が大好きだった花)


 でも、セレスティアはもうこの世にいない。

 ……五年と少し前に、事故に遭ってなくなってしまったから。

 そしてその花を見ると、彼がセレスティアを思い出して不安定になってしまうのだ。だからラベンダーだけは植えなかった。


「シエナ」


 そんなふうに物思いにふけりながら、日暮れでオレンジ色に染まる庭を見つめていると、名を呼ばれる。


 イライアス・クルーニー。

 クルーニー伯爵家の次期当主であり、シエナの夫だった。

 濡れ羽色の髪に涼やかな青い瞳をした美しい彼の顔を見ると、否が応でも心臓が跳ねてしまう。そしてそれを取り繕うのはもう慣れていた。だって十三年間、ずっと続けてきたものなのだから。


 そう思いながら、シエナは微笑む。


「どうしたの、イライアス」

「いや……お礼を言えていないと思って。今まで俺のことを支えてくれて、本当にありがとう」

「……何言っているの。私たち、親友じゃない。そんなの当たり前でしょ」

「そうか……でも、俺が王都に戻れるくらいに回復したのは間違いなく君のおかげだ。それが分からないほど俺は愚かではないさ」

「そう。それはよかったわ」


 それは、揺るぎない本音だった。だってシエナはそんな彼の姿を見たいがために、今まで尽くしてきたのだから。


 ――夫婦になってから、イライアスの療養のためにこの屋敷に越してきた。そしてそれは、セレスティアの死が原因だった。

 しかしそれから無事に立ち直ったことは、とても喜ばしいことだ。荷造りも終わり、明日には二人揃って王都に戻るための馬車に乗ることになる。


 そして戻ればきっと、忙しさでそれどころではなくなるだろう。だから話をするのなら、今日しかなかった。

 そう思ったシエナは、口を開く。


「ならイライアス、私から一つ提案があるの。聞いてくださる?」

「提案? なんだ?」

「私たち、離婚するべきだと思うの」


 瞬間、音がなくなった。

 そう錯覚するほど、二人の間に沈黙が走った。

 肝心のイライアスは、何を言われたのか分からなかったのか、目を大きく見開いてほうけている。

 一方のシエナは、ただそれを見つめた。


(……だって私は、彼を立ち直らせるためだけに夫婦になったんですもの)


 そう。たとえ初恋の相手がイライアスだったとしても。

 もう十三年も片想いをしていたとしても。それは変わらない。


(だって彼は、セレスティアの……元婚約者だから)


 だから今、イライアスのとなりにシエナがいるのは、間違っているのだ。

 あんな事件がなければ、二人はとてもお似合いの夫婦になっていたはずなのだから――

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