24話 王の過ち
「ブライアン!ブライアン……っ!」
汚れ一つなく磨き上げられた城内の壁に、エルガシア国王妃、ユリシア・スカーレット・ウェインアース・エルガシアの叫び声が反響する。
重いドレスを引きずり歩く彼女の視線の先にいるのは、今しがた褒美の式典を終えたばかりのエルガシア国王。ブライアン・シュガール・ハイドレイン・エルガシア。
ほんの数日前まで死の淵を彷徨っていたその男は、今はとても病人とは思えないほどの力強い足取りで、謁見の間から続く廊下をまっすぐに歩いていた。
「どういうつもりです、いくら多少の失言をしてしまったとはいえ、ロランドをあんな目にあわせるなんて!せっかく学園に通えるまで回復していたのに!」
どれだけ叫ぼうと彼が振り返りすらしないことを悟るや、ユリシアは殆ど走るような早歩きで彼の前に回り込み、無理矢理その歩みを止めさせて叫ぶ。
たった数分前に騎士達に取り押さえられ、罪人のように引きずられていったロランド。我が子へのあまりに無残な仕打ちをただ見ていることしか出来なかったユリシアは、ありったけの怒りと衝動を今目の前にいる夫にぶつけた。
「何が多少の失言だ。この国の未来に多大な貢献をもたらすだろう優秀な学者に……余の命の恩人達に対しあのような暴言を吐き、謝罪も訂正もしないなど。許すわけにはいかんだろうが」
しかし国王は足こそ止めたものの、返す言葉には取り付く島もない。
無理もない、ロランドは公の場で、貴族たちの面前でこれ以上ないほどの醜態をさらしてしまった。本人が一切の反省を見せないなら、せめて厳しく咎めて見せなくては示しがつかない。
ユリシアとてそれくらいわからないはずはないのだ。ただ認めることができないだけで。
「ロランドは次期国王になるのですよ!あの子以上にこの国の未来に貢献する者は居ません!あの子がまた心を閉ざして閉じこもってしまったら……その間にあの二人が婚約してしまって、『あの伯爵令嬢が第二王子を慕って婚約を願い出たというのは嘘だったのではないか』と疑う者が出たらどうするつもりなのです!」
それでもユリシアは諦め悪く、国王の胸に掴みかからん勢いで訴えかけた。髪を振り乱し目を血走らせたその顔には憎悪と疲弊の感情が色濃く滲み、かつて白百合の如きと讃えられたその美貌に影を落としている。
ほんの数ヶ月かそこらで、彼女はすっかり老け込んでしまった。日に日に厚さを増す化粧で誤魔化してはいるが、その顔色は下手をすれば、不治の病に侵されていた頃の国王よりもかさついて青白い。
しかし瑞々しさを失いかけた顔の中心で、歪んだまま吊り上がった眼だけが以前よりずっと、らんらんとぎらついている。
「どうするも何も、事実なのだから甘んじて受け入れる他無かろう。余が言えたことではないだろうが……あんなにも一途に、真に互いを想い合う二人を我が子の尻拭いのために引き裂くなど。あまりにも惨い、恥ずべきことだと思わんのか……」
「……っ!あ、あなたまで、あの娘に騙されてっ……!何が真に想い合う、ですか!あんな、所詮は欲と保身のために男を弄び乗り換える女っ……あのまま何もなければすぐに図々しく正妃の座を狙うようになっていたに決まってます!今回のことだってどうせ……どうせ……」
夫に、国王に窘められるも、ユリシアは更に激高するばかり。この場ではないどこか虚空に視線を彷徨わせながら、その場にいないかの少女への怨嗟を延々と口から垂れ流し続ける。
その憎悪に身を落とした姿はもはや悪鬼か何かに取りつかれたかのようで。
かつて賢妃と讃えられ、王の隣に凛として並び立っていた頃の面影はどこにもない。
「いい加減にしろ、ユリシア!」
「……っ!」
変わり果てた正妃の姿に、国王はついに声を荒げ、正装の襟を握りしめていた細い指をはたくように振り払った。確かな怒気を孕むその声に、ユリシアは虚をつかれたようによろめき、初めて言葉を詰まらせる。
「保身しか考えていない女が、誰も成し遂げたことのない方法で、余の魔物病を治すなどという賭けに出られるか。何か一つでも間違いがあれば、反逆罪にすら問われかねない状況だったのだぞ」
振り上げた手をきつく握りしめながら、国王は言葉を続けた。
怒鳴られた衝撃から我に返ったユリシアが慌てて言い返そうとするも、己を射抜くような視線に再びたじろぎ、足を竦ませる。
「欲に溺れる女が、金も地位も権力も欲しいままの妃の座を投げ出して、男爵家の男のもとへ戻りたがると思うか。余が与えた膨大な褒美をあっさりと手放したことにさえ、少しの不満も動揺も見せることもなく」
張り上げられた声は次第に、静かに、諭すようなものに変わっていく。最後は振り絞るような、弱々しいとさえ言えるような声で、王は語りかけた。
その途中ユリシアは何度か反論しかけようとしたが、結局言葉にならずただパクパクと口を開いては閉じることしか出来ず、唇を噛み締める。
「お前があの二人の婚約を結ばせぬよう根回ししていたことも、クレイディア嬢の発言を誘導し無理矢理言質を取ったことも、全て聞いている。お前にこんなことをさせてしまったのは、すべて余が不甲斐なかったせいだ。病に侵されていたとはいえ……あの状況でお前一人を取り残し、背負わせ、追い詰めてしまったことを申し訳なく思う。……だがもう、これ以上は、誰のためにもならないと……いや、誰のために、何を犠牲にしようとしているか、お前も本当はわかっているはずだろう……?」
王として無能というわけではないがどこか気が弱く、決断力に欠けたブライアン。そんな彼をユリシアはいつも陰から支え、導き、引っ張っていた。
優柔不断な彼の代わりに冷徹な判断を下したり裏で手を回すことも己の役目だと思っていたし、事実そうしてきた。
たとえ二人の意見が割れたときも、最終的にはいつも国王がユリシアの意思を汲んでくれたし、このように己の言動を咎められ、全面的に否定されるなんてことは一度として無かったのに。
「どうして、どうして貴方までそんなにもあの娘の肩を持つのですか……!ロランドが、息子達が可哀想だとは思わないの……!」
溢れ出したそれはもう、何の言い訳にもなっていない、王族としてあるまじき感情論でしかない。そうわかっていてもユリシアは黙ることは出来なかった。
シャリーナ・クレイディアは保身のため、欲のために簡単に男を乗り換える蝙蝠のような女なのだと、報告書を読んだときから思っていた。そう思おうとしていた。
ロランドとの婚約をことさら拒絶したのも、レオナルドと違いシャリーナを敵視する彼に本性を暴かれる可能性を危惧したのだろうと。
だからロランドには後々清濁を併せのむ必要を教え、態度を軟化させてやれば、あの女はいずれ安心して金や権力に溺れこの地位を享受するようになるんだと、何度も自分に言い聞かせそう思い込んでいた。
だって、そうでなければ、そうでなければ。
「私達の、やっと産まれた私の子供達が、どうなってもいいと言うの……!?」
「ユリシア……」
ユリシアとブライアンは、結婚後七年以上子宝に恵まれなかった。決してブライアンが正妃より側室の方を優遇したというわけではなかったが、授かりものである以上個人の努力だけでは限界がある。
当時並み居る婚約者候補達の中からユリシアが正妃として選ばれたのは、彼女の類まれなる魔力を子に受け継がせることを期待した、今は亡き前王の後押しがあったからという事情もあり、世継ぎを産めないことに対する風当たりは年々強くなっていた。
しかし結婚八年目にしてユリシアはついに第一子であるレオナルドを授かり、その翌年には続けて第二子のロランドを出産。
側室の産んだ子が三人続けて女児だったこともあり、二子続けて男児かつユリシアの強大な魔力や美貌を最大限に受け継いだ王子達の誕生に、周囲は瞬く間に手のひらを返したのだ。
「ロランドが、私達の子がいずれこの国を背負うのです!レオナルドだってあんな呪いさえなければ……あの娘さえいなければ……私の完璧な子が、間違いを犯すわけがないのにっ……!」
王の子を産むこと。そしてその子らを世継ぎとして育て上げること。それがユリシアの義務であり使命であり、己が正妃として選ばれ、その椅子に座り続ける正当性の証明。
レオナルドが、ロランドが、「ユリシアを正妃にと推したのは間違いであった」と囁かれ続けた七年間からユリシアを救ってくれた。
彼らを少しでも否定するような輩は、ユリシアにとってはまるで己をあの頃の地獄へ引き戻そうとする使者のように見えた。だから必死で跳ね除けて遠ざけて、そうしてここまで来てしまった。
「あの娘が現れてから、すべておかしくなったんです!なら全部あの娘のせいでしょう!その責任を取らせて何が悪いの……!」
もはや自分でも自分を止められない。引き返せない。今更引っ込みの付かないユリシアが、さらに声を張り上げようとして。
「母上……どういうことですか……?」
すぐ隣から聞こえて来た愛しい我が子の絶望的な声に、ヒュッと息を飲んだ。
◇◇◇
「どういうことですか……今の話ではまるで……まるで、母上が嫌がるクレイディア嬢を無理矢理僕の妃候補に仕立て上げていたかのような……」
国王と王妃のすぐ隣の空間が歪み、この国の現第一王位継承者——ロランド・ルイス・ユリシア・エルガシアが現れる。
騎士達に引き摺られ自室に連れ戻される途中、例のブローチ型魔道具を使って姿を眩まし逃げ出していたのだ。そして式典を終え謁見の間を出ていく王達を見つけ、追いかけるうちに二人の言い合いが始まり、今に至る。
「嘘ですよね……?あの魔女は、一介の伯爵令嬢に王妃自ら謝罪の場を設けたというだけでも恐れ多いというのに、図々しくも僕を慕っているなどと嘯き、母上の力でダリア・ガーデンに自身を捻じ込ませることを願った!そうですよね母上!」
魔女がダリア・ガーデンを辞退したのは、厳しい王妃教育の果てにある偉大なる富、妥協して手に入る愛妾としてのそれなりの富、今すぐ楽して手に入る褒賞金を比べ、一番都合の良いものを選んだだけ。
だから辞退した途端リオル・グレンがそれらを手放してしまって魔女は内心大いに焦っているはず。そんな魔女の醜い本性をどうにか訴え、自身の正当性をわかってもらおうとロランドは思っていた。
しかし醜い魔女に騙されていたはずの己の母、ユリシアと国王の会話は、ロランドにとって到底信じられるものではなく。
信じていた仮説が根本から崩れていく気配に耐えられず、ロランドはユリシアに掴みかかり、揺さぶる勢いで問い詰めた。
「この期に及んで、口をつく言葉がそれか、ロランド……」
虚な目で狼狽える王妃を片腕で制し、ロランドの前に立ち塞がった国王が応えた。
「王たるもの、過ちを犯すことなどあってはいけない……とは言わん。だが、過ちを過ちと認めず、誰の言葉も聞き入れぬとなったら……国はいずれ、お前と心中することになるのだぞ」
「ち、父上……」
いつにない厳しい父の視線に射すくめられたロランドが思わず数歩後ずさる。
「お前の、お前達の表面上の優秀さに安心し、ユリシアと衝突することを恐れ、こんなことになるまで我が子の現状に気付けなかった……。これは、王たる私の、最大の過ちだ……」
「父上、何を……?」
ロランドを静かに見つめる王の二つの瞳には、怒りと後悔と……悲しみの色がありありと滲んでいた。
「……謹慎を命ずる。頭を冷やすまで、学園にも通わなくていい。もしお前がこのまま何も変わらないなら、そのときは……お前も兄と同じ道を辿ると思え」
「ブ、ブライアンっ!」
「そ、そんな……そんな……」
レオナルドと同じ道。それはロランドを絶望の淵に叩き落すには十分過ぎる宣告だった。
「う、うわあああああああああっ!」
「ロランド!待って……」
ユリシアの悲鳴じみた制止の声も耳に入らず、ロランドは受け入れられない現実から逃げるように、廊下の向こうへ走り去っていった。
◆◆◆◇◆◆◆◇◆◆◆◇◆◆◆
「リオル!」
授与式が無事、とはとても言えない状況ではあったがとりあえず終わり、全員が退場した後。
「シャリーナ?どうして」
「陛下が、一分一秒でも早く研究に取り組むためにもリオルと一緒に帰るようにって!」
王宮から出て馬車へ向かおうとするリオルの元へ、シャリーナがドレスを翻して駆けつけていた。
「一緒に帰りましょう、リオル!」
「ああ……でも、陛下がそんなことを……」
ちなみに馬車の近くではあるが、まだ王宮の敷地内である。宮殿から城門までが気軽に歩ける距離でないくらいに遠いので、送迎の馬車も宮殿を出てすぐの場所に待機してくれているのだ。
「まあいいか、あんな大きい馬車一人で乗るのは勿体ない」
意外そうに目を瞬かせたリオルがしかしすぐに嬉しそうに頷き、手を差し出してくれる。シャリーナも喜んでその手を取り、馬車が止められている方へと足を踏み出そうとしたところ。
「……シャリーナ」
「はい!なんですか?」
ピタリとリオルが足を止めた。何か忘れ物を思い出したように。
「どうしましたか、リオ……」
「俺と結婚してください」
「っ!?」
次の瞬間その場に片膝をつき、シャリーナを見上げてリオルが言う。
「俺が意気地なしでズルズル伸ばしてた結果がこれだ。もう一秒だって先延ばしにしていられないと思って」
「リ、リオル……っ」
その芯の通った声から、深緑の目に宿った真剣な光から、繋いだ手の力強さから、痛いくらいに本気が伝わってくる。正真正銘のプロポーズ。
答えなんて、出会った時からずっと決まってる。
「はい!勿論!大好きですリオル、絶対に幸せにします!」
「そこは『幸せにしてください』じゃないのか」
「リオルさえいれば私はもう幸せなので!」
目に浮かぶ涙を拭うことも忘れ、シャリーナは繋いだ手を握り返して答えた。
◆◆◆◇◆◆◆◇◆◆◆◇◆◆◆
「嘘だ……嘘だ……!」
一方、その微笑ましいカップルの傍では。
光の魔道具で姿を消し、その様子を窺っていたロランドが地団駄を踏んでいた。
「何故だ……何が狙いだ……金も地位もない男と婚約して魔女に何のメリットがある……!?」
王から突きつけられた残酷な宣告に絶望し、その場を走り去った後もあてもなく王宮内を彷徨っていたロランドは、ちょうど通りかかった窓の向こうに、早足で駆けていくシャリーナの姿を見つけた。
そして今度こそその本性を暴いてやろうと衝動のまま風魔法で窓の外に飛び、透明化の魔道具を発動させて彼女の後を追いかけたのだ。
「あれも演技か……いや何のために……」
シャリーナをダリア・ガーデンに迎えたのはロランドの心と評判を守るために王妃が仕組んだこと。それ自体はもう否定しようがない事実。
しかしあの魔女だって内心ではほくそ笑んでいたのではないのか。王妃は騙されていたのではなく、その醜い性根を見抜いた上で利用したのだ。それしかない。
だからシャリーナがまっすぐリオル・グレンのもとへ駆け寄ろうとしていることに気付いたときはしめたと思った。
帰りの馬車などあとでいくらでも自分専用のものを用意させられるのに、荷物も何も持たずあんなにも急いで走っていくのは、何らかの緊急の用事があるということ。
その用事とは間違いなく、リオル・グレンがあの莫大な報奨金及びその他諸々の褒美を手放したことへの不満を伝え、今からでもそれらを取り戻すよう仕向けることだろうと。
「何故なんの文句も言わない……!何故……!」
そう思って見ていたのに、魔女は全く使い魔を責める様子もなくただただ共に帰れる事実を喜ぶ様子を見せるのみ。まるであんなに急いでいたのは、ただ一秒でも早くあの男のもとに戻りたかっただけだとでも言うように。
その上、金も地位も手放した愚かな男のプロポーズに一も二もなく頷き、この上なく幸せそうな顔でその手を取ってしまった。
「何故……!」
製造法ごと献上したかの護符の利益は、今後銅貨一枚足りともあの男の懐に入ることはない。過去に発明した護符もいくつかあるらしいが、量産出来ない何らかの理由があるのかそれらを商品化する兆しは無い。
この先また画期的な発明によって一財産を築く可能性はあるにしても、将来の富や権力なら王の妃や妾の方がずっと上回る。
ダリア・ガーデンを抜けてまでこの男を選ぶ利点など、あの女にとってはもう存在しないはずなのに。
いや、たとえどんな利点があったとしても、手に入るはずだった目の前の膨大な褒美をみすみす逃すこと自体がもうおかしい。あの女は金と権力に目がない魔女なのだから。そうでなくてはいけないのだから。
「何故って、本当にわからないんですか、殿下」
「っ、トビアス!?」
ギリギリと血が滲むくらいに唇を噛みしめ、苛立ちに任せて地面を蹴っていたロランドは、背後から聞こえた従者の声に驚いて振り返った。魔道具で姿を消しているはずなのに、従者であるトビアスは真っ直ぐにロランドを見据えている。
「シャリーナ・クレイディアはリオル・グレンを愛している。それ以外の理由がありますか」
「そんな!そんなわけは……!」
ない、と叫ぼうとして、もうどう足掻いたところでそれを否定できないことを悟る。シャリーナ・クレイディアが悪女であるなら、金と権力に目がない魔女であるなら、王妃の座を目前にして足蹴にし、貧乏男爵家三男の手を取るわけがないのだ。
「部屋にお戻りください殿下。魔道具で姿を消したところで、足音や気配は誤魔化せませんよ」
自分だけは全てお見通しだと思っていた。王子に見向きもせず真実の愛を掴んだとかいう、美談のフリして王族をコケにした醜悪な女の本性を暴いてやるつもりだった。まさか本当に王子でなく、爵位を継げるかも怪しい下位貴族を選ぶ女がいるわけがない。何か裏がある、そう思って。
「う、ううう……っ」
しかし、本性も何も、裏も何も、最初からなかったのだ。お見通しも何も、ずっと見当違いだったのだ。ただただ、あの少女はその少年を好きだった、それだけ。
「そん……な……」
もう目を逸らしようがない真実を突きつけられ、ついにロランドはその場に崩れ落ちた。
次回、最終回です!




