2話 トビアス・ガーディナーという男
トビアス・ガーディナーは悩んでいた。
「ちょっこれ詰んだんじゃね」
由緒正しき騎士の家系、ガーディナー公爵家に生まれて早十七年。人生最大のピンチであった。
「空が青いぜ……」
眼下に広がる青空。もう一度言おう、眼下である。頭上じゃない。
「にゃあああん、にゃあああ」
遥か遠い地上から先程助けたばかりの猫の声が聞こえてくる。ガーディナー家の男は代々耳がいいのだ……とか言ってる場合じゃない。ものの数分にして立場逆転である。
巨木の長く伸びた枝の先で降りられなくなっている猫を見つけ、得意の土魔法で猫用の階段を作り、助けようとしたのはほんの数分前のこと。
「ふにゃぁああああ」
「いや泣きたいのは俺の方だっつの!」
しかし枝のすぐ下に作ったそれには目もくれず、猫が枝にしがみついて離れなかったため、わざわざ己も木に登り、長い枝を渡り、猫を抱き上げて階段に乗せてやったのだ。
そしてようやく地上へ降りて行く猫を見送った後、戻ろうと方向転換しようとしたところでうっかり足を滑らせ、逆さに宙吊りになって今に至る。両足で枝を挟んで持ち堪えてる状態だ。
「短い人生だった……」
何故学園の裏庭にこんなアホみたいにデカイ木があるのかはさておき。
足で抱えた枝がミシミシと音を立てている。他に飛び移れそうな枝も無い。いくら身体能力に自信のあるトビアスでも、この高さで真っ逆さまに落ちて無事でいられるとは思えない。
「ふんぬぅっ!」
最期の悪あがきに、腹筋で上体を持ち上げ両腕で枝を掴み、豚の丸焼き状態になってみたものの。まあ背中から落ちても助からんなと悟っただけである。
「にゃあああぁああ」
猫のために作った階段でトビアスも一緒に降りられれば良かったが、高さを優先したため強度がなかった。数キロの猫の重さには耐えられても、数十キロの人間の重さには耐えきれるものではない。間の悪いことに、今日の午前の授業が実戦形式で、人間用の階段を作る魔力が残ってなかったのだ。
「おわっとぉ!」
両足が滑り落ち、今度は両腕で枝にぶら下がる体勢になった。まあ足から落ちても助からんなとまたもや悟る。
「はは、万事休すか……じっちゃん、俺も今行くよ……最期まで家訓は守ったぜ……」
ガーディナー家の家訓。
騎士が死ぬ時は、誰かを生かす時。
『強い奴を倒すのが騎士じゃない。弱い者を守るのが騎士だ』
十年前に亡くなった祖父がいつも言っていた言葉。それが走馬灯のように頭を駆け巡る。
トビアス・ガーディナー、十七歳。終えるには余りに短い一生であった。
『フフッ……僕に言わせれば、エルガシア国からの報せはおかしいところばかりだ。あの兄上が想い合う恋人同士を引き裂こうとした悪魔?あり得ないね。醜い心を厚化粧で隠した魔女とその使い魔に、まんまと嵌められた哀れな道化って言うならわかるけど』
余計なものまで駆け巡ってしまった。 これはつい最近帰国する前に主である第二王子が言っていた言葉だ。
『どういう経緯で旅の劇団の手に渡ったかは知らないけど……あの劇の脚本は、報告書で知らされた兄上失脚の経緯に非常に酷似していた。まだ他国に知れ渡るには早いような細かいところまで……。明らかに、今回の出来事をそれなりに詳しく知れる立場にあった者にしか書けないだろう。ただし、虚構のベールに覆われた真実にまでは辿り着けなかった程度の……ね』
何だかよく分からない話し方をする第二王子の従者に任命されて四年、留学先にまでついて行かされて二年。今もなおよく分からない命令に従っていた途中だったことを思い出す。
『まあ、あの兄上を騙せたくらいだし?化粧の腕だけは認めてやらなきゃならないね。その面の上何十センチもある白粉を落とすのは一筋縄ではいかないかな』
『とにかく情報を集める必要がある……偽りの白粉で塗り固められた、その醜い素顔を暴くために……そして、魔女の真の狙いは何なのかも……』
『あの劇のとおりなら、魔女と使い魔は昼休みにひと気の無い裏庭で昼食を取っているはずだ。トビアス、命令だよ。裏庭に先回りして魔女の秘密を探ってこい』
言ってることの九割が理解できなかったが、要するに化粧上手の女の子からそのテクを教えてもらってこいということらしい。多分。おそらく。当たらずと言えども遠からず……だと思う。今時は男も化粧をすると聞く。
「まっ、おかげであの猫を助けられたと思えば、このわけわかんねぇ命令も役に立ったってことかもな……」
そんなわけのわからない命令の途中で命を落とすと思うと死んでも死にきれないが。弱き者を助けるために命を賭したと思えば。
「下敷きにはなってくれるなよ、猫ちゃん」
今更ながら最初に逆さに枝にぶら下がった時にすぐさま起き上がり、全速力で幹に向かっていたら助かったかもしれない。
しかしもう時間がない。今の体勢では幹が背後にあるので枝の根元は見えないが、音から察するにあと十数秒も持たないだろう。
トビアスが覚悟を決めて歯をくいしばったその時。
「——水よ、万物の源よ、形無き流れよ、柱となり天を貫け。アクア・コムルナ——!」
遥か遠くの地上から、凛とした少女の声が響いた。
「へ?」
次の瞬間眼下の地面に現れた大量の水。聞こえた呪文から察するに水柱のはずだが、それにしては大きい。小さな池と言っていい程の直径の水柱がどんどん迫り上がってくる。
「飛び込め!」
「!」
続いて聞こえた男の声。
すぐさま意図を理解し、トビアスは大きく息を吸い込み枝から両手を離した。
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「た、助かった……」
ゲホゴホと咳き込みながら、地面にへたり込み額に張り付いた髪を拭う大柄な男子生徒。
「大丈夫ですか?足りないでしょうが、せめてこれで顔だけでも拭いてください」
ようやく男の呼吸が落ち着いたところで、シャリーナはそっとハンカチを差し出した。
「あ、ああ、ありがとう」
体格も顔つきもかなり特徴的であるのに見覚えがないということは、おそらく上級生だろう。
「あんなに高いところで、一体何をしていたのですか?」
夏休みが明けてから一週間。平日は毎日リオルに会えることを喜びつつ、週末に会えなかったことを嘆きつつ、迎えた週明け。
いつものように昼休みに裏庭に来たら、いつもの木が先週とは比べ物にならない程大きく成長していて、根元では猫が上を見上げて必死で鳴き続けていて、上空の枝の先に誰かがぶら下がってたのだ。情報量が多過ぎてまずどれから驚けばいいのか一瞬わからなかった。
「はは、猫が降りられなくなってたから、助けようと思ってな……てか驚いたのは俺もだぜ。あんなにデカイ水柱の魔法、よく出来るな。積み上げてくだけの土と勢いつければ勝手に上に登る火と違って、柱の魔法は水が一番難しいのに」
「え?ああ、いえ、さっきの魔法は私の力ではないのです」
「はっ?」
その一瞬で状況を把握して動いたのはリオルである。すぐさま上着から取り出した護符を投げつけ、水柱の魔法を使うよう指示を出したリオル。
「俺の力でもないぞ」
「いいえ!この新しい護符を作ったのもそれを的確に使ったのもリオルです!」
なのにその一番の功労者を振り返っても、謙虚過ぎる彼はあっさり首を振るだけ。
「肝心な最初の魔法の力は君だし魔力供給源はあの花だ。手柄を奪う気はないさ」
「では間を取って夫婦二人初めての共同作業ということで……」
「どの間から湧き出たか分からない単語が混ざったぞ今」
今までに作った護符も、この新しい護符も、とてもとても凄いものなのに。いつだってこの人は自身の力を過小評価してばかりだ。
「ブーケトスのブーケは血吸い花にしましょう」
「未婚女性達が蜘蛛の子散らすように逃げるブーケトスになるなぁ」
ついでにこれもいつものことだが、さりげないアプローチが軽く躱されてしまった。無念。
「あの〜、何の話?」
「あ、すみません。どうかお気になさらず」
振り向けば先程まで地面に座っていた男がいつの間にか立ち上がってこちらを見ている。いけない、ついうっかり忘れていた。
「何はともあれ助かった。俺はトビアス・ガーディナー。騎士科の三年だけど、一年の夏に留学してついこの前帰ってきたばかりだから、転入生みてーなもんだ」
握手のため片手を差し出そうとしてびしょ濡れなことに気づき、決まり悪げに頰をかくトビアス・ガーディナー。
「二人は俺の命の恩人だ。どうか名前を教えてくれ、俺のことは気軽にトビアスと」
ガーディナーと言えば、シャリーナでも知っている有名な公爵家である。このエルガシア国の騎士団長を代々勤めている騎士の家系。
「魔導師科一年、シャリーナ・クレイディアと申します」
「魔術研究科一年、リオル・グレンです」
身分も学年も上の相手から『気軽に』と言われた時の対応は気をつけなければならない。一応学園の方針では『同じ生徒同士身分の上下はない』とあるが、所詮は建前。
相手が本当にそのつもりで言ってるのか、「いえいえそんなわけにはいきません貴方様のような高貴な方に」待ちなのか。前者か後者かの見極めが必要だ。
「シャリーナちゃんとリオルでいいか?本当にありがとな!」
前者で確定した。
「そうだ、どうやって助けてくれたのか教えてくれよ!二人の力ってどういうことだ?連携魔法か?呪文はシャリーナちゃんの声しか聞こえなかったけど」
「ええ実はリオルの力とはこの護符のことでしてあっ勿論護符だけじゃなくてその膨大な知識と頭の回転の早さと優れた判断力と」
「一言目から脱線するなよ」
これは多少ハメを外していいと判断しリオルの凄さを語ろうとするも、当の本人に止められてしまった。
脱線した覚えは無いのに。紛うことなき本筋を進んでいたはずなのに。むしろこれからが本番だったのに。
「人以外の物から魔力を吸い取って魔法を強化する護符を使ったんです。まだ試作の段階で不安定で、陣が魔力の供給源の方に移動してしまう欠点もあるのですが……」
「そんな護符があんのか!?すっげぇな!って試作ってことはリオルが作ったのか!すげぇ!天才かよ!」
シャリーナに代わり、今回使った護符についてリオルが簡単に説明する。
「ちょうど貴方が掴まっていた木の枝の真下に血吸い花の花畑ができていたので、そこから魔力をもらいました」
「あ〜あの刺されるとめちゃくちゃ腫れていてーやつ?あれ、でももうそんな花畑ねーぞ」
「全て散ったようです。魔植物系は魔力がなくなると枯れますから」
「成る程本当に魔力を吸い取れるんだな……すげぇ、マジすげぇ」
目を輝かせてリオルの説明を聞き、褒め讃えるトビアス・ガーディナー。めちゃくちゃ話の分かる男である。お互い自己紹介した時も、リオルが魔術研究科と聞いて馬鹿にする様子は微塵もなかった。
「今回はその血吸い花にも助けられたってわけか。感謝しねーと」
「いえ、あの木があれ程巨大になったのはおそらく血吸い花の魔力に充てられたせいなので、どちらかと言うと血吸い花が元凶ですね」
「そんなことまで分かるのか!すげぇなリオル!」
そこに気づくとは大した男である。その通り、リオルは凄いのだ。
シャリーナの中でトビアスの株がどんどん上昇していく。
「ん?待てよ……リオル……?護符……?」
しかし。それまで興奮気味に話を聞いていたトビアスが、不意に何かに引っかかったようで口元に手を当てた。
「そうだ、黒髪だ……肩にかかるかかからないかくらいの」
そして急に距離を詰めて来たかと思うとリオルの長い前髪に手を差し込み、かきあげて顕になった顔を覗き込んだ。
「目の色も深緑!合ってる!」
「え、ええと、何を……?」
「あ、悪い」
何の確認作業かわからないそれを終え、続いてシャリーナの方へパッと振り返ってきて一言。
「もしかしてシャリーナちゃんって、伯爵家?」
「え?ええ、その通りですが」
質問の意図がわからず、シャリーナが少し困惑しながら答えると。
「ってことは、二人のことだったのか!レオポルト王子に引き裂かれそうになった、男爵家のルリオと伯爵家のリシャーナってのは!」
まるで何もかもが繋がった!とでも言うように、トビアスがポンと手のひらを拳で叩いた。
「……はい?」
今度は少しどころではなく困惑し、シャリーナはきょとんと首を傾げたのだった。




