断捨離アンジェリカ 中編
『そんなのっ……貴女、彼の顔と身分しか見てないってことじゃない!』
季節の花々が咲き誇る、トロピカルン学園自慢の中庭。
そのガゼボ内にある丸テーブルの席に座っていたクランベリカは、しかしその美しい花々を愛でる余裕などまるでなかった。
『そうですね……まだ釣書しか拝見していませんので、お姿とこの国の第一王子であることくらいしか知りません』
テーブルの反対側で、たった今怒りを向けられた少女が首を傾げる。優雅に縦にロールしたストロベリーブロンドに、ぱっちりと大きなチェリーブラウンの瞳。
『ああ、お名前も知ってます。レモネード・フーレシュ・スカーシュ・フルタリア王子』
『馬鹿にしないでっ!』
まるでその肩書さえあればあとはどうでもいいかのように、何の感情もなく紡がれた愛しい人の名。
クランベリカは更なる怒りを燃え上がらせ、目の前に座る少女……隣国の第四王女ラズベリーナ・マカロルン・ストロベリルをキッと睨みつけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「なんか……ラズベリーナってリオルくんと出会う前のシャリーに似てるかも……」
ベッドに寝転がってパラパラと本のページをめくりながら、アンジェリカがぽつりと呟く。手にしているのはかつての愛読書、『ドキドキッ!意地悪なアイツは王子様!~おてんば男爵令嬢クランベリカの甘酸っぱい恋の果実~』の三巻である。
一巻で結ばれ、二巻で更に絆を深めたクランベリカとレモネードの前に現れる新たな敵。クランベリカを快く思わないフルタリア国上層部がレモネードの見合い相手として招いた、隣国ストロベリルの第四王女ラズベリーナ。
今までレモネードの地位や身分、容姿ばかりに群がる令嬢達は数多くいたが、このラズベリーナはそれらとは一段違った曲者であった。
『お見合いとは、そういうものではないですか?身分が釣り合っていて、顔と名前さえわかっていれば問題ないかと』
レモネードが今までいかに王子という表面ばかりに囚われる女達に辟易してきたか、いかに自分自身を見てもらえないことに苦しめられてきたか、そう訴えるクランベリカに、ラズベリーナが言い放った台詞である。
本当の意味で身分と容姿しか見ていない。釣り合うか否かの判断のために身分を。他者と区別するためだけに顔と名前を。それ以外は、余程特殊な事実でもない限り政略結婚には関係ないと。
『理想の結婚相手?珍しい名前で何かしら特徴のある顔の人がいいわ。親族付き合いの時に、旦那様とそれ以外で見分けがつかなかったら大変だもの』
これは幼い頃運命の相手について夢を語ったアンジェリカに、親友のシャリーナが言い放った台詞である。
今でこそ信じられないが、リオルと出会う前のシャリーナは恋愛というものに全く興味を持ってなかったのだ……いやそれにしたって『旦那様とそれ以外』って何だ。
「クールってわけじゃなくて……ほんとに興味ない、わからないって感じだったよねぇ」
だからこそ、そんな親友の過去の姿に似てるラズベリーナは強敵であった。レモネードがいくらクランベリカを特別扱いし愛を注ごうと、ラズベリーナは一切傷つかないのだ。
今までの女のように泣いて逃げたりクランベリカを排除しようと悪事に手を染めたりしない。
二つの国がどんどん進めようとする結婚話に大人しく身を任せるだけ。愛のない結婚で構わない。王子とクランベリカが愛し合ってると言うのなら、クランベリカとも結婚すればいい。王族は一夫多妻が当たり前なのだからと。
「えっと、それでどうなったんだっけ……」
最初にこれを読んだ時は、ラズベリーナの恋愛結婚に対するあまりの無関心さに戦慄したものだった。
そんなことをぼんやり思い出しながら、アンジェリカは次のページをめくった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『運命の赤い糸は、一本しか無いの!好きな人が他の人とも結婚するのを側で見ることが、どれだけ辛いことかわからないの!?』
『私の国も王族は一夫多妻制なので……お母様は側室ですが、私もお母様もみじめに思ったことはありません』
今まで何度も持たれた話し合いの場。中庭のガゼボ内で向き合う二人の間に、冷たい風が吹き抜ける。
ああ言えばこう言う。人を愛する心が理解できないラズベリーナに、クランベリカがいくら訴えても無駄であった。
『レモネード王子を、好きでも何でもないくせにっ!貴女に彼を幸せにできるわけないっ!』
『国王として彼を尊重し支えていく努力は致します。男女として愛し合う役目は、貴女にお任せできたら……』
『馬鹿なこと言わないで!!』
クランベリカがテーブルを叩きつければ、左右に置かれた紅茶のカップの水面と、同じ色のラズベリーナの瞳が揺れた。
『貴女はっ!誰かを本当に愛したことがないから、そんなことを言えるのよっ!』
『……私は……』
何故そんなに怒っているのかわからない。
言葉にせずともラズベリーナの瞳がそう物語っていた。
この愛を知らない王女様は、愛し合う恋人同士を引き裂くことがどれだけ酷いことかわかっていないのだ。
『……その通りです。貴女の言う、愛というものはよくわかりません。ただ、私にとってこの縁談が都合が良かったから受けました』
悪気があるわけではない。きっと悪人ではないのだろう。だがしかし、それでレモネード王子を譲れるかと言えばそれは別の話。
『上三人の姉が国内の三大公爵家にそれぞれ嫁いだので、均衡を保つために私は国外に嫁がねばならなくなりました。しかし我が国はしがない小国で、私は側室の第四王女なのでそう伝手もなく……そんな時にちょうど貴国の第一王子との縁談の話が来て、渡りに船だと』
都合が良いから結婚する。そこに愛はない。
『ふざけないで……』
『いえ、ふざけてなんて』
『ふざけてるわ!貴女の都合で!レモネード王子の将来を勝手に決めないで!』
置かれた二つのティーカップの水面が、再び虚しく揺れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ううーん……ラズベリーナも確かに空気読めないけど……レモネードがアレな時点でもうクランベリカにも共感できない……」
昔はクランベリカの台詞一つ一つに感動し、じっくりと読んでいたはずのシーンを今は無感動に流し読みしながら、アンジェリカが頬杖をつく。
それにしてもラズベリーナは手強い。レモネードに恋をし、クランベリカに攻撃する女達は実体を持って向かってくる分打ち返しようがあった。
しかし恋をしてるわけでもなく、攻撃の意思もないラズベリーナにはどんな反撃も沼に杭。
そう、まるで王子様と出会う理想のシチュエーションについてシャリーナとその妹のルーミと討論した時のよう。
『悪い人に拐われたり、魔物に襲われた時に白馬に乗って颯爽と助けてくれるの!それでそのまま二人乗りでお城に帰って~』
『ええ~?ルーミったら非現実的過ぎだよ。やっぱりさぁ、学園の入学初日に校門の前でぶつかって、言い争いしちゃうけど実は同じクラスで再会するとか……』
『ルーミ、魔物相手に白馬じゃ勝ち目は無いわ。あとアンジェ、ぶつかったなら言い争いの前に謝らなきゃ』
三人でラブロマンスの演劇を観に行った帰りの馬車での会話である。
ルーミとはお互いにプレゼンするうちに分かり合えたが、シャリーナには最後まで微妙に伝わらなかった。今更だが演劇もちゃんと楽しめていたかどうか微妙だ。
まあ、こんな親友だからこそ、当時多くの令嬢が憧れるレオナルドと運命的な出会いを果たしても全く響かなかったどころか、冷静に衛兵に突き出す算段を立てていたのだろうが……。
『シャリー、やっぱりこういうの興味ない?退屈?』
『いいえ。楽しそうなアンジェとルーミを見てたら、私も楽しいわ』
こんなに趣味が合わなくてそれでもどうして親友だったかと言ったら、シャリーナ自身が本当に良い子だったからだなと、アンジェリカが在りし日の会話を振り返る。
『アンジェとルーミが憧れてるレオナルド殿下の良さはよくわからないけれど……二人がこの方をとても好きなことはわかったわ』
『うん、本当に本当にかっこいいんだから!』
余計な記憶まで掘り出してしまった。とんだ黒歴史である。穴掘って埋めたい。
「やめやめ!過去は振り返らないの!さーて続き読もーっと!」
うっかり湧き出そうになった恥ずかしい記憶を振り切ってアンジェリカが叫ぶ。そして開いていた本のページに片手を当て、豪快にめくった。
「あ、めくり過ぎた」
一ページをめくったつもりが、百ページくらい後ろにくっついてきた。二つの紙の山の均衡が一気に崩れる。勢いをつけ過ぎて最終章あたりまで飛ばしてしまった。
「まあいっか、大体は覚えてるし」
最終章までの流れはこうだ。
クランベリカの一途な愛に触れ続け、少しずつ変わっていったラズベリーナ。
思えば初対面の頃は人形のようであったのに、中盤、クランベリカがレモネードへの想いとラズベリーナへの怒りをぶつけた中庭のガゼボのシーンでは、しばしその瞳が揺れていた。
そしてクランベリカも、自国の貴族には嫁げず、他国に嫁ごうにも側室の第四王女という微妙な地位ゆえ売り出しにくい、ラズベリーナの複雑な事情を理解し歩み寄っていく。
『貴女の言う、恋や愛はやっぱりわかりませんが……貴女の悲しむ顔は見たくないと思いました』
そうして友情を築いた二人。
友人を傷つけてまで縁談を受けようとは思えないと、身を引く決意をするラズベリーナ。
国に帰ってしまう前に、中庭の花畑を二人で一緒に散歩しようと、クランベリカがラズベリーナを誘って――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『ここの花をちゃんと見るのは、思えばこれが初めてです。とても綺麗ですね』
『あはは、前はそれどころじゃなかったものね』
放課後の誰もいない中庭の小道を、二人の少女が花を愛でながら歩む。
『同じ色の花でも、濃い種類と薄い種類で分けて植えられてるのが面白いです』
『グラデーションになってていいでしょ?歩きながら見るならぴったりだわ』
かつてレモネード王子を巡って対立していた二人の少女。クランベリカとラズベリーナ。何度も衝突した二人だが、今はわかり合い、穏やかな笑みを浮かべている。
『あっ、あの花、レモネード王子の色だわ!』
『……貴女には、この世の金と青が全てレモネード王子の色に見えるんですね』
最後まで恋する気持ちそのものは分からなかったラズベリーナだが、クランベリカの想いはわかった。
己がレモネードとの縁談を受けることが、友人を深く傷つけることになるのも。
『あら?見てください、クランベリカ。あの花壇、あまり花が咲いてませんね』
『え?どこ?』
そんなとりとめもない話をしながら歩いていると、ふとラズベリーナが少し遠くのとある一点に目を留めた。
『ここです、ほら』
その視線の先をクランベリカが見つける前に、ラズベリーナが足を早める。そして小道を逸れ、しばらく歩いて一つの小さな花壇の前で足を止めた。
『ほんとだ。花の数は他の花壇と変わらないけど……つぼみが多いわ。なんでかな?』
ラズベリーナが示した花壇の花。グリーンリリーという特に何の変哲も無い花だが、何故かその花壇での開花具合だけ悪かった。
『隣の薄い色のグリーンリリーはちゃんと咲いてるのに、変ね。ここだけ日当たりが悪かったとか?』
『こんな局所的にですか?』
不思議そうに首を傾げたラズベリーナが、硬く閉じられたグリーンリリーに手を伸ばしたその時。
『――待て!』
突然現れた何者かがそれを阻んだ。いつの間にか二人の背後にいた誰かが、ラズベリーナの手首を掴んで止めたのだ。
『人食いリリーだ、グリーンリリーに擬態してる、業者が間違って仕入れたんだろう……危ないから、絶対触るな』
ぜぇぜぇと息を切らしながら、途切れ途切れに言う少年。よっぽど急いで走って来たのだろう、肩で息をするとはまさにこのこと。
『え?ライムじゃない、どうしてここに?』
『校舎の窓から中庭を見てたら、咲いてないグリーンリリーの花壇が見えて……まさかと思ったところで君達が、よりによってそれに、近づいてくのが、見えたから』
誰かと思えば、クランベリカの幼馴染、ライムであった。
『あ……あの……』
『あっ……申し訳ございませんストロベリルの姫。急ぐあまりとんだご無礼を。この花に触れては指に怪我を負ってしまう危険があったもので』
『そんなに畏まらなくて大丈夫よライム。ラズベリーナは私の友達よ?この程度で怒るわけ……えっ、怪我?どういうこと?』
膝をついて謝罪したライムを安心させようとして声をかけたクランベリカが、しかしその聞き捨てならない言葉に顔をしかめる。
『人食いリリーだって言っただろ。ほら』
その疑問に答えるように、ライムが懐から昼食の残りであろうサンドイッチを取り出し、パンを千切って放り投げた。
その瞬間。
『きゃあっ!?』
硬く閉じられていたグリーンリリーのつぼみがガバッと開き、パンの欠片を一瞬で呑み込んだ。ちらりと見えた花弁の内側には、びっしりと歯のような刺が並んでいた。
『ごく稀にあるんだ。カラフルリリーと人食いリリーの球根の取り違え事故。花が咲くまでは見た目に殆ど違いはなくて、人食いは人食いでマニアに人気があるから同じ業者で取り扱ったりしてて……』
『なるほど、仕入れや出荷の時にうっかり入れ替わっちゃうこともあるってことね……ありがとうライム、助かったわ』
開花時期になっても咲かないこと。これが通常のリリーと人食いリリーの唯一の見分け方法である。
一輪二輪ならまだしも、花壇の殆どが咲いていないのはおかしいと思ったのだと語るライム。
『あの……』
と、その時。
それまでずっと黙っていたラズベリーナが口を開いた。随分と呆然としていたので、よっぽど人食いリリーが怖かったのだろうと思ってたのだが。
『お名前……ライム様というんですね……』
『え?あ、はい。ライム・グリーンと申します』
『素敵な名前……貴方の深く落ち着いた緑の髪と瞳に、とてもよく似合います……』
『はい?』
ラズベリーナの様子がおかしい。今まで見たことのないような、夢見るような表情で、上気した頬で。
『ええと……ストロベリルの姫』
『どうかラズベリーナとお呼びください!ライム様は命の恩人です!』
後ずさるライムの手を、ラズベリーナががしりと掴む。
『いや……人食いという名ですが、最悪指の肉が喰いちぎられるだけで命までは取られないので……命の恩人はさすがに大袈裟かと』
『その傷が元で出血多量で命を落としていた可能性もありました!どうかお礼をさせてください、明日のお昼は空いていますでしょうか是非ご一緒させてくださいライム様の分の昼食をご用意いたしますので』
『ラズベリーナ?どうしたのラズベリーナ?』
友人の変貌ぶりに戸惑うクランベリカ。
しかし、ライムの方はもっと困惑していた。
『好きな食べものは何ですか?好きな飲み物は何ですか?食後のフルーツは何が好きですか?我が国の特産品のベリーも是非ご賞味いただきたく!』
『あ、その、強いて言うなら片手で食べられるサンドイッチが……飲み物は眠気覚ましのコーヒーと、果物は……甘過ぎないものが好みですけど』
『サンドイッチとコーヒーと甘過ぎない果物ですね!覚えました!』
キラキラと両目を輝かせて迫るラズベリーナに、すっかりたじたじになっているライム。
『え、待って、ほんとにどうしたのラズベリーナ?』
恋を知らない、興味もない、政略結婚に何の疑問も不満も覚えていなかった隣国の王女ラズベリーナ。
彼女がライムに一目惚れしたのだと判明したのは、それからすぐのことであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「似てる……」
強い既視感を感じながら、アンジェリカが最終章を読み進める。
物語はクランベリカとレモネード王子、ラズベリーナとライムで囲んだ昼食の席で、ライムにあれやこれやと勧めるラズベリーナを、クランベリカ達がちょっと呆れつつ見守るというシーンで幕を閉じた。
「似てるなぁ……ラズベリーナとシャリー」
思い出した。二巻で登場と共に退場すると思われた地味な当て馬のライム・グリーンだが、三巻登場のラズベリーナと共に、その後もちょいちょい出番があった。
「てかライム君普通にかっこいいよね」
頭が良く、いつも冷静で、クランベリカ達のピンチを颯爽……とはとても言えないが救ったライム・グリーン。
何故クランベリカはこんなに良い幼馴染に好かれておきながらあんな俺様王子を選んだのか。
確かにかくいう自分も今読み返すまでライム・グリーンの良さに全く気づかず、ラズベリーナがライムに恋するオチも『新しい恋敵は強敵と思いきや男の趣味がめちゃくちゃズレてました~』的なギャグオチだと思っていた。というか作者の意図とてそうだろう。最後のシーンは思いっきりコミカルに描かれているのだから。
「リオルく……いや、ライム君が出るのって他にどの巻だっけ」
うっかり名前を間違えかけて言い直す。
読み終わった本を閉じ、アンジェリカは本の断捨離途中だったことも忘れ、その続きの巻に手を伸ばしたのだった。




