ローズ・ガーデンの憂鬱
シャリーナ達がギガントイーグルに乗って学園を発った日の、ローズ・ガーデンメンバー達による回想と話し合い。
「由々しき事態、ですわね……」
ほんの一口だけ口を付けた紅茶のティーカップを、左手に持ったソーサーにカチャリと置き。人形のように整った美しい顔を僅かに歪ませながら、ロザリンヌ・アーリアローゼがポツリと呟いた。
「私、未だに信じられませんわ。まさかレオナルド殿下が、あんな娘に寵愛を与えられるだなんて。あんな、貴族令嬢としてあまりにも非常識で、あまりにも無礼で、身の程知らずな娘に!」
ロザリンヌと同じテーブルを囲んでいたヴァイオレット・ロドリゲスが、溢れる苛立ちを抑えきれずに声を荒げる。
「仰る通りですわ、ヴァイオレット様。あのような娘が、未来の国母に相応しいわけがありませんのに……」
「ああ、本当に、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか……」
カーミラ・ギアリーとイメルダ・キャンベルも、同じ気持ちで頷いた。
今ロザリンヌ達がいるのは、ファラ・ルビア学園の屋上。代々この学園に通うエルガシア国の王太子と、ローズ・ガーデンのメンバーのみが入ることを許された温室である。
未来の王とその婚約者候補達が定期的に交流し仲を深める為、未来の王妃、側室を決める為に設けられた場所だが、そこに主役であるレオナルドの姿は無い。
……今頃はあの裏庭の木の下で、愛しの猫と仲良くランチタイムを過ごしているのだろう。あの娘が用意した、素人の手作りサンドイッチやクッキーなんかを食べながら。
ロザリンヌの脳裏に、つい先日起きたばかりの忌々しい出来事が鮮やかに蘇る。ソーサーに置いたティーカップを支える右手が、気付けば怒りで小刻みに震えていた。
◇◇◇
時は遡り、ファラ・ルビア学園の年間行事の一つ、新入生歓迎ダンスパーティが開かれた次の日の朝。
「おはようございます、レオナルド殿下。ご機嫌麗しゅう」
いつもよりずっと早い時間に登校したロザリンヌは、少々はしたないと思いながらも、教室の入り口を見渡せる廊下の角に身を潜め、レオナルドの姿を捉えた瞬間偶然を装い声をかけた。
昨日のダンスパーティで、レオナルドと共に会場を抜け出したシャリーナに忠告を与えはした。だが婚約者候補がいると知った上で平然と王太子に近づく女が、たったあれだけの忠告で素直に諦めるとは思えない。
だからせめて、シャリーナがレオナルドに近づくことをやめようとしないのなら、レオナルドの方からあの娘に近づくことだけでも防いでみせようと。レオナルドの関心と時間を少しでも己に向けさせようと、ロザリンヌは考えていたのだ。
「ふん。何がご機嫌麗しゅう、だ。朝から辛気臭い顔を見せるな。とっとと自分の教室へ戻れ」
「……っ!」
しかしレオナルドは、ロザリンヌの姿を目にした途端、嫌そうに顔を歪めそう吐き捨てた。
「そ、そのようなつれないこと、仰らないでくださいませ。今日は週に一度の、殿下と私達ローズ・ガーデンのメンバーが共に屋上の温室にて昼食を取る日ではないですか。そのお誘いをしに来ただけですわ」
レオナルドが猫と呼び愛でる女へと向ける、甘やかな声とは正反対な冷たい言葉に一瞬怖気付くも、すぐさま立ち直って話を続けた。己の愛しの王子様が婚約者候補達に冷たいのはいつものこと。今更傷つくことではない。
だが、そんな彼からいとも簡単に愛の言葉を引き出し、平然と受け取るあの女への腹ただしさは消えなかった。
「ふん、そんなもの、俺が参加する義理も価値もない。昼食などお前達だけで勝手に食っていればいいだろう」
「そんな、それでは意味がありませんわ。週に一度の昼食会は殿下と私達の親睦を深める為にと、国王陛下がお決めになられたことではありませんか」
全く引き下がる気配の無いロザリンヌに、レオナルドはウンザリとした顔を隠そうともしない。ロザリンヌも、いつもならここまでしつこく食い下がることはしてこなかったのだが、この状況ではそうも言ってられなかった。
今までは、レオナルドがどんなにローズ・ガーデンの婚約者候補達に冷たく当たろうと、他の女にも全く同じ態度で接し、誰も特別扱いしようとはしていなかったから、問題にはならなかった。
レオナルドの心が誰にも向けられないなら、最終的には家の序列に従って妃を決めるしかなくなる。王家に次ぐ権力を持つアーリアローゼ公爵家の長女たるロザリンヌが正妃となることは、ほぼ確定していた。
だからこそローズ・ガーデンが結成して以来、初めて現れた自分達の地位を脅かそうとする女に、ロザリンヌもなりふり構っていられないのだ。
「ああ言えばこう言う。なんて煩い女だ。二度は言わん、さっさと失せろ。俺はもう戻るからな。勿論、お前達の無価値な昼食会などにも行くつもりは無い」
ロザリンヌを追い返すことを諦め、完全に無視することに決めたらしいレオナルドが、シッシッと手を払いながら背を向けようとした。
「お待ちになってください、殿下!価値がないなんてことはありませんわ。今日の昼食会は、殿下が必ず気にいるに違いないものを、しっかりと用意致しましたもの!」
焦ったロザリンヌが後ろを向きかけたレオナルドの前に一歩回り込み、必死に追い縋る。このまま教室に入られてはもう呼び出しに応えてくれることはないだろう。少しでも気を引きたいという一心で叫んでしまったが、口から出任せというわけでもなかった。
「……はあ。一体何だと言うんだ。言ってみろ。下らないものだったら承知しないからな」
鬼気迫る様子のロザリンヌに、このまま無視して騒がれる方が面倒だと悟ったのであろう。レオナルドは仕方なく足を止め、ロザリンヌを睨みつけながらそう吐き捨てた。
「さっ……サンドイッチを、用意致しましたの。ハンバーグと、サニーレタスと卵を挟んだボリュームたっぷりなものを。デザートには抹茶という、茶葉を発酵させずに蒸して粉にした、珍しい緑色のお茶を練り込んだクッキーもありますわ」
胸の前で両手を組み、愛しの王子様をまっすぐ見つめながら、切なげな声で訴えかける。氷の女神と讃えられるその令嬢の健気で情熱的な姿は、並大抵の男ならコロリと恋に落ちてしまうほど魅力的なものだった。
「くっ……はは、ははははは!何だ、そんなものか。よくもまぁ自信満々に言えたものだな。ロザリンヌ・アーリアローゼ」
目の前の婚約者様には、まるで通用しなかったが。
「そっ……そんな、こと、仰らずに。きっとお気に召して頂けますわ。サンドイッチも、クッキーも、どれも最高級の食材を使用しておりま」
「くどい。俺と猫とのことをどうやって調べたかは知らんが、そんな表面的な部分だけを真似られても気色が悪いだけだ。ロザリンヌ・アーリアローゼ、お前は大事なことがわかってないようだな」
チッチッチ、と舌打ちのような音を鳴らし、レオナルドが突き立てた人差し指を振る。シャリーナがここに居たら「わかってないのはお前だ」と飛び蹴りを喰らわせたことだろう。
「この俺が、ちょっと珍しい材料を使っただけのクッキー、肉や卵でボリュームを増やしただけのサンドイッチに、本気で釣られるとでも思ったのか。その気になれば国内どころか海外のどんな稀少な美味も珍味も、ドラゴンの丸焼きだって用意させることの出来る、エルガシアという大国の王太子たるこの俺が!」
先程までの不快そうな顔から一点、急に機嫌良く笑みを浮かべ、大袈裟な身振り手振りを交えながら語り始めるレオナルド。しかしその笑みは、まるで嫌いな人間を甚振ることを楽しむかのような酷薄なものだった。
「俺が惹かれるのは、珍しい食材や肉の塊そのものではない。食べる相手を喜ばせたいというその行動、その過程、その真心こそ好ましいと感じるのだ。地位や身分などといった、表面的なものに囚われるお前達には、わかるはずもないがな……」
やれやれと頭を振りながら、呆れたように溜め息を吐く。シャリーナがレオナルドを喜ばせる為に行動することなど過去現在未来永劫一生あり得ることはないのだが、そんなことレオナルドにわかるはずもない。
「そんなっ……!殿下を喜ばせたいという気持ちなら、私達があの娘に負けるはずがありません。クッキーもサンドイッチも、まさにその一心で用意して……」
「『用意して』ではない。『用意させて』、だろう?」
馬鹿にしたように投げつけられた言葉に、今度こそロザリンヌは黙るしかなかった。材料も調理法も全てあの娘と同じくするように指示したが、『手料理』という部分だけは真似出来なかったのは事実だ。本当は、それこそがレオナルドが一番惹かれている理由だとわかってはいたのに。
「ふん、やはりな。誰がお前達のお抱えシェフが用意した味気ないサンドイッチを食う為に、堅苦しい昼食会になど行くものか。そんなものより余程価値のある手料理を用意した彼女が、あの裏庭の木の下で今日も俺を待っているのだからな」
シャリーナが用意する手料理は間違ってもこの男の口に入れる為のものではないし、こんなナルシストーカーのことなど全くお呼びでないし待ってもいないのだが、そんな悲しい事実を指摘するものは残念ながらここには居らず。現実を知らないナルシストは「ダンスパーティの前は、しばらく会いに行けずに寂しい思いをさせてしまったからな……」と一人悦に入っている。
「さあ、もういいだろう。つまらんことでこれ以上俺の貴重な時間を浪費させるな」
俯くロザリンヌを一瞥し、勝ち誇るように鼻を鳴らしたレオナルドは、今度こそ振り返ることなく自身の教室へと戻って行ったのであった。
そして、一人廊下に取り残されたロザリンヌは。
「あの、身の程知らずの、小娘……!」
レオナルドの姿が完全に見えなくなった後。憎々しげに呟きながら顔を上げる。その真冬の深海のように青い瞳には、絶対零度の氷すら溶かしてしまいそうなほどの激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「このままではいけませんわ……っ」
やはりあの女は忠告を聞き入れる気などなかったのだ。
ふわふわのストロベリーブロンドに潤んだ水色の瞳。レオナルドが猫と呼び愛でるその少女は確かに可愛らしく、庇護欲を掻き立てる見目をしている。
だがしかし、中身は婚約者を持つ男性にも見境なく媚を売るただの泥棒猫である。
こうしてはいられない。これ以上あの女の好きなようにさせるわけにはいかない。婚約者候補たる自分達を差し置いてあの女が約束してるという今日の裏庭での昼食会。せめてそれだけでも阻止しなければと、ロザリンヌは協力者を求め早足で駆け抜けた。
◇◇◇
そんな、かの日の出来事を思い出しながら。
「私達はあの時、何一つ間違ったことは言ってませんでしたわ。ええ、何一つとして!」
震える手で紅茶のカップをテーブルに置き直したロザリンヌ・アーリアローゼが、己を囲むローズ・ガーデンのメンバーを見渡し、凛とした声でそう宣言した。
あの時とは勿論、パーティでの忠告を無視してレオナルドとランチデートをしようと企んでいたシャリーナ・クレイディアに、他のローズ・ガーデンメンバーと共に再度忠告をしに行ったときのことである。
「そうですわそうですわ!それなのにあの女は、卑怯にも殿下の前で被害者ぶって!」
すかさず同意するヴァイオレット・ロドリゲス。
「殿下も殿下ですわ!あんな女の肩を持って……そもそも元はと言えば、私達という婚約者候補がありながら、殿下が他の女に現を抜かすのがいけないのでは……」
と、カーミラ・ギアリーが怒りのあまりうっかり真理に辿り着きかけるも。
「しっ!滅多なことを言うものではありませんわよ、カーミラ様。あのシャリーナ・クレイディアという名の伯爵令嬢が、身の程も弁えずに殿下を惑わそうとしたことが全ての原因なのです。被害者でもある殿下に責任を転嫁してはいけませんわ」
イメルダ・キャンベルがピシャリと叱り付けて引き戻した。
「落ち着いてください、皆さん。これ以上、過ぎたことについて話しても何にもなりませんわ。今話し合うべきことは、これからどうするかについてでしょう?」
しかし更に燃え上がりかけるメンバーを、ロザリンヌ・アーリアローゼが諭した。彼女とて少し前まで怒りに声と手を震わせていたものの、皆より早く落ち着きを取り戻していたのだ。
「これから……とは?勿論、あの身の程知らずの伯爵令嬢には、これからも指導が必要だと思いますが…」
次に冷静になったヴァイオレットが首を傾げながら訪ねる。
「それは勿論ですが、もっと具体的な危機に関して、ですわ。……再来週の、殿下の成人を祝う生誕記念パーティの招待状が、シャリーナ・クレイディア伯爵令嬢の実家に送られたと。私の義弟であるエドワードからの報告がありました」
「なっ……この時期になって、そんな急に。何を企んでると言うの!」
「なんて、恥知らずな……!」
もたらされた情報に、カーミラとイメルダが怒りと驚愕を綯い交ぜ にしたような声を上げた。それもそのはず。再来週のレオナルドの成人祝いのパーティは、何ヶ月も前から招待客を選りすぐり準備を進めてきたもの。
間違っても田舎の伯爵令嬢が今になってひょいと参加できるものではないのである。
「一体、どんな手を使って!」
「わかりません。しかし、彼女がついに、決定的な何かを引き起こそうとしていることは事実ですわ。皆様は、どうかこのことを心に留めて再来週のパーティに臨んで頂きたく」
ロザリンヌの真剣な声ともたらされた危機的な情報に、ローズ・ガーデンメンバー達は改めて姿勢を正した。
……当のシャリーナ・クレイディアが、そのパーティに参加したくないが為にギガントイーグルのゴンドラに乗り、王都から遠く離れたグレン領へ向かって空の旅の途中であることは露知らずに。
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「リオル、もう少しで山頂に着きます!あと少し頑張ってください!」
「やべぇぜお嬢、坊ちゃんの顔が海と同じくらい青いでさぁ」
一方、ローズガーデンによる話し合いから二日程経った頃の、空の上のシャリーナ達は。
「すみません……うちに入る前に……ちょっと地に足つけて風に当たりたく……」
「了解でさぁ。山越えたら坊ちゃんの家の少し離れたとこに止めりゃーいいですね」
グレン領と他領の境になる険しい山脈を越えるため、今までの最高高度を飛行していた。
「酔いを覚ますためにはなるべく遠くを見れば……リオル、立てますか?私が支えましょうか?」
「……いやいい、今足に力が入らない」
もう少しでグレン領に着くはずの、空の旅最終日。ぐったりとゴンドラの隅にもたれかかるリオルは今日も変わらず乗り物酔い中であった。
アポロンやシャリーナは全く乗り物酔いをしないタイプだったので忘れがちであったが、普通は猛スピードで空を飛んで酔わない方がおかしいのである。
ただし、出発から数十分でまるで死の淵を彷徨うかのように酔い潰れるのはそれはそれで珍しいタイプではあるが。
「坊ちゃん!死んじゃ駄目ですぜ坊ちゃん!ああ、目の下にこんなにクマが……やっぱ昨日もあんまり眠れなく」
「アポロン!リオルは元々クマがあるのでもそれはただ眠れなかったからとか具合が悪いからじゃなくていつも夜遅くまで勉強しているからでつまり努力の証とも言」
「お嬢ストップ坊ちゃんの頭に響きやす」
滝のように語り始めようとしたシャリーナをアポロンが手で制して止める。
シャリーナが暴走しかけた時、リオルからストップがかからないのは珍しいことである。酔いが酷くてそれどころじゃないのだろう。
「新婚旅行では遠方は避けた方がいいかもですね」
「今言うことですかいお嬢」
「なんだ、これが新婚旅行のつもりじゃなかったのか……」
「えっ!?勿論内心そのつもりでしたけども!?」
せめて冗談を言って場を和ませようとしたシャリーナが、聞き捨てならないリオルの呟きに全力で飛びつく。冗談のつもりが完全に本音になってしまった。
「まさかリオルもそう思ってくれていたってことですかリオル!」
「……」
「あ、駄目ですお嬢気ぃ失ってらぁ」
「えっそんなリオルー!?」
どうやらさっきの一言は、朦朧とした意識の中の最後の一言だったらしい。
がくりと力が抜け重力が増したリオルの身体を支え、シャリーナは思わずその名を叫んだ。
「まぁこっから更に高度上げるんで気ぃ失ってた方が楽っちゃ楽でしょう。お嬢、今のうちに飛ばしますぜ!」
「わかったわ。リオルが目を覚ましたらすぐ言うわね」
アポロンが合図を送るや否や、羽ばたきによりがくんと揺れた後、一気に高度を増すゴンドラ。確かにリオルが起きていたら大変なことになっていただろう。
「新婚旅行……ふふ、やっぱりこれは新婚旅行と言って過言じゃなかったわ……!」
「どう考えても過言でっせ」
意識のないリオルの代わりにアポロンがツッコミを入れる。
ちなみに後日それとなくこの時のことを聞いたところ、リオルは全く記憶に残ってなかったらしくシャリーナはちょっとだけ落ち込んだ。
リオルは無意識だと結構デレます。




