20話 決闘
軟禁生活のおそらく最後になるであろう夜は、様々な思惑が錯綜してか、誰も訪れず、不気味な程静かに時が過ぎていった。
そしてついに、その次の日。
目を開けてまず視界に飛び込んでくるピンク色。ベッドを覆う花柄のレースの天蓋。
「趣味の悪い天井ね……」
一週間変わらぬ感想を今日も呟き、シャリーナはうんざりとベッドから身を起こした。
花は好きだ。しかしこんなデカデカと主張の激しい花柄では全く癒されない。単純にダサい。
ピンクも好きだ。しかしこうもピンク尽くしでは目が疲れる。純粋にダサい。
同じくピンクの花柄のカーテンの隙間から、上ったばかりの太陽の光が差し込む。
まだ夜明けとも言える時間帯、活動時刻までまだまだある。しかし二度寝する気にはなれなかった。
「……おはようございます、リオル」
届くわけないと知りながら、目を閉じて言う。
いつも当たり前のように言っていた朝の挨拶が今や懐かしい。たった一週間会えなかっただけなのに。
軟禁生活八日目。
決闘の日、当日である。
「殿下の勝利は揺るぎないのはわかってますが……っそれがあの女の妃の座に繋がると思うと……っ」
「しっ、声が大きいですわ。いくら不条理でも、殿下が望まれた以上致し方ないこと」
「それだってっ!身の程知らずにも殿下に近づき、殿下の優しさにつけ込んだあの女が悪いのではありませんか!」
普段は魔導師科や騎士科の演習、年に一度の闘技大会のため使われるファラ・ルビア学園闘技場。
その闘技場が、全授業が中止となった今日、朝から全校生徒達でひしめき合っていた。そしてそこかしこで女子生徒達によるシャリーナへの嫉妬や忿怒の声が溢れている。
「あの、女狐……っ!」
悪口もあまりに的外れだと腹も立たないものだなと、用意された特等席に座りながらシャリーナがひとりごちる。
「あの特待生も馬鹿だよなぁ、殿下のお気に入りに手ぇ出すなんてよ」
「まっ、特待生つっても筆記と実技の『総合点』しか見ない制度の裏ついただけの、名ばかり特待生だからな。身の程知らずは最初からだろ」
「筆記の魔術研究科の中でも選りすぐりってことか。悪い意味でな、ハハッ」
リオルの悪口に興じる男子生徒達も多い。
的外れにも程がある。そいつらは末代まで呪おうと心に決め、シャリーナは奥歯を噛み締めた。もうお前を末代にしてやろうか。
——リーン……ゴーン……。
「正午だわ!」
校舎から微かに響いてきた鐘の音に誰かの声が重なった。その瞬間、あれだけ騒がしかった観客席が水を打ったように静まり返る。
聞こえるのは闘技場内を吹き抜ける風の音だけ。
「……っ、リオル……!」
観客席の下。中央に位置する広い大理石のステージを、静かに上っていく少年。少しだけ大きい制服を着て、分厚く大きい本を片腕に抱えた、いつもと変わらない愛しい人の姿。
「どうか、無事で……」
胸元で両手を握り締め、シャリーナがぎゅっと目を閉じる。
リオルなら大丈夫。リオルなら勝てる。そう信じてはいるが、相手はあの魔力だけは国一番である王子だ。怪我も無く勝てると思う程楽天的にはなれない。
「——それではッ!ただ今より決闘を執り行う!」
おそるおそる目を開ければ、両者揃ったステージの上で、一人の教師が声を張り上げているのが見えた。
手に持つ台には例の魔道具、裁きの天秤が鎮座している。
「両者共、前へ!天秤に、血を!」
それぞれの皿に、リオルとレオナルドが小瓶に入った血を垂らす。
直後天秤から黒い霧が溢れ出しそして消えた。それが発動の合図だろう。
教師が下がり、ステージの二人が各々が上ってきた端と端に戻って行く。二人が再び向かい合った時、砂埃が静かに風に舞った。
「では——始めッ!」
砂と共に舞い上がった一枚の枯れ葉がくるくると回りながらステージの外に落ちる。
審判を務める教師が、震えの残る声で叫んだ。
「フッ、逃げずに来たことだけは評価しよう。だが……その見栄、いつまで続くか」
生まれて初めて見る決闘。
教科書でしか見たことがない古代の魔道具。
今更ながらこれが命がけの闘いであることを理解し、開始前の喧騒が嘘のように、観客席の生徒達は皆固唾を飲んでステージを見つめていた。
「くらえ!」
何百もの瞳が一斉に向けられる中、レオナルドが颯爽と右手を前に突き出した。
「はっ……やはりな。此の期に及んでその程度の子供騙し。貴様にはそれしかない!」
リオルの足元に浮かび上がった大きな魔法陣が、ほんの少し制服を靡かせる程度の風を作っただけで崩れるようにかき消える。リオルが陣に護符をかざしたのだ。
「なっ!?い、今あいつ、あれを防いだのか!?」
「そ、そういえば先週も、あの劣特生の足元で魔法陣が消えてたような……見間違いかと思ってたけどまさか」
途端観客席がざわつき始める。
シャリーナにとっては見慣れた光景であるそれも、他の皆にとっては信じられない出来事だったらしい。
「だがッ!それは貴様の実力ではない!その嘘で彼女を騙せても、この俺まで騙せると思うな!」
しかし魔法を防がれたレオナルドはそれでも勝ち誇ったように胸を張っていた。
効力を失い真っ二つに裂かれた札がステージ上を滑っていく。
「何を……?」
高らかに響き渡るレオナルドの勝ち誇った台詞に、シャリーナが眉を顰めた。
四日前アレが窓の外に浮かびながら言っていたことを思い出す。『あの黒鼠は嘘をついている』と。
「貴様の見栄は長くは続くまい。何故なら……そのお手製だという魔法陣破壊の護符は、ただ王都の魔導専門店で購入したもの。その高額な値と貴様の乏しい財力を考えれば、残り何枚も無いだろうからだ!」
またもや魔法陣が現れる。同じくリオルがかき消す。しかしレオナルドは余裕そうに肩を竦めただけ。
「何故バレたか、心外そうな顔だな。フッ、愚かな奴め」
大袈裟に両腕を広げたレオナルドがさも見下したように首を振り、続ける。
「単純なことだ。一つの魔法陣を破壊する程の護符には、それ相応の魔力を込めねばならない。王族であるこの俺の渾身の魔法陣すら破壊出来る程強力な護符を、初級魔法すら危うい貴様に、作れるはずがないのだ!」
観客席に広がっていた動揺の波も、レオナルドの言葉が浸透するにつれ嘲笑の波に移り変わっていく。
「はー?なんだよ、だっせー」
「まあまあ、名ばかり特待生の名には恥じないだろ?」
「ははっ、言えてるわ」
やはり万が一にもレオナルドの勝ちは揺るがないと、会場中の空気が物語っている。
「え……?」
食い入るようにステージを見つめていたシャリーナも思わずポカンとして目を瞬かせた。
店で購入したもの?リオルに作れるはずがない?そんなわけない。だって、あの護符は。
「……陣は器。魔力は水。魔法は器が水で満たされて発動する」
その時。ほんの少しだけ風に揺られた黒髪が、何事もなかったようにまた元の状態へと戻り。
それまで一言も声を発してなかったリオルが、静かに口を開いた。
「はっ、今更何を言う?言い訳をする気か?見苦しいぞ!」
「確かに魔法を発動前に止めるには、水が溜まることがないよう器を壊さなければならない。けど……」
魔法陣が浮かび上がる。魔法の風が舞う。ただしその風が凶器となる前に陣が崩れ去る。
「発動した後。器をひっくり返すだけなら、簡単だ」
「なに……?」
初めてシャリーナがリオルに護符で助けてもらった時。まだ授業で習ってもいないのにそんな強力な護符を作れるなんて凄いと、興奮して褒め称えたことがある。その時に「授業で習う方の護符じゃないから」と、まるで何でもないことのように説明してくれた。
「何を訳の分からないことを言っている!フン、わかったぞ。ただの時間稼ぎか。貴様の護符はもうあと2、3枚も無いはずだからな!」
壊そうと思うから過大な力が必要になる。
例えばこれが木の器なら、割ろうと思って大の男が力んでも中々できない。しかしひっくり返すだけなら赤ん坊でもできる。
更に、魔法陣とはもともと古代の魔法を現代に引き出す為に作られたものであり……古代と現代の境目、とても不安定な場所に位置すると。
「護符が尽きた時が、貴様の命運が尽きる時だ!天高く放り上げ、叩き落として見せよう!」
魔法陣が現れる。少しの風が舞う。護符がかざされる。陣が崩れ去る。その繰り返し。繰り返し。繰り返し。
「……貴様……さては借金でもしたか?それとも金を盗んだか?フン、どこまでも鼠らしい」
残り数枚もないと思っていた護符が二十を超えても尽きないのだ。それまで余裕たっぷりだったレオナルドに、初めて動揺の色が浮かんだ。
「俺が自分で作ったものだ。いくらでもある」
「戯言を!その嘘は通じないと言ったはずだ!」
まだ護符は尽きない。尽きる様子がない。
「12の頃から試作品を含めてずっと作り続けて、もう数えきれないくらいある」
「フンッ……嘘に嘘を重ねるか。見苦しいことよ」
口では余裕そうに言いながら、レオナルドの息が乱れてきた。
対してリオルは眉一つ動かさない。効力を失った護符が一枚、二枚と何枚も風に舞っていくのに、数える様子すら見せず。
「はっ、もう三十は超えたぞ!貴様の見栄も長くは続くまい!」
「さっきも同じこと言ってたけどな」
いくら王族の魔力が桁違いだとしても、無限ではない。人一人を吹き飛ばす程の魔法を何十回も連続で発動すれば疲れも見えてくる。おそらくリオルが逃げ切れないようにするためか、毎度毎度過剰なくらい大きな魔法陣を作っているのだから尚更。
護符はまだ尽きない。
「くっ……いくらなんでも、こんなに買える、わけが……」
ついにレオナルドが膝をつきかけた。魔力が少なくなってきたのだ。魔力が多い者程魔力切れによる負荷は大きい。
しかしレオナルドには魔法以外の手段はない。素手で殴りかかり、リオルの隠し持つ護符を無理矢理奪うことは可能といえば可能だ。だが魔導師同士の決闘で、それは『魔導師としては敵わない』と認めると同義。あまりに無様で嘲笑される行為である。そんな手段を取れるわけがない。
「もう、何枚も、ない、はず……」
観客席にも、動揺の波が走った。
「だから、いくらでもあると言ってる」
そう言ったリオルが、片腕に抱えていた本を開いた。
「実技の魔導師科、実戦の騎士科と並んで……“筆記”の魔術研究科と言っても、これだけ書くのは大変だったけど」
「なっ……!?」
そして本の背に指をかけ引き剥がし、支えを失った紙が何百枚もステージ上を散らばる。
その全てに、複雑な術式が書き込まれていた。
「わ……わかったぞ、それはただ護符の術式を模しただけの、何の力もない紙だ。いくらなんでもこの枚数の護符を買えるはずがない。俺を怯ませるために用意したものだろう!」
「そう思うなら魔法を使ってみたらいい。降参するなら今のうちだ」
「馬鹿が!戯れ言を!!」
レオナルドが唾を吐きちらし叫ぶと、リオルの足元に魔法陣が現れた。今までで一番大きい、風の魔法陣。
そして今までと同じように、風が強力になる前に。
「フハハハハハ!やはりな!これで終わりだ!」
消えなかった。
何百枚もの護符で覆われていたというのに、魔法陣はまだ消えない。それどころかみるみる大きくなり、どんどん風の力が強くなっていき、護符が舞い上がる。こんなことは初めてだ。
「リオル——!!」
シャリーナが堪らず席を蹴りつけ立ち上がり、観客席から飛び降りかけたその時。
「え……?」
ごうごうと吹きつける風の中。振り返ったリオルが、薄っすらと笑ったように見えた。
「がっ……は……」
次の瞬間。全ての風が止まった。
「で、殿下!?レオナルド殿下あああ!」
誰かが焦りに染まった声でレオナルドの名を叫んだ。
見ればレオナルドが口から血を吐き、ステージに倒れ伏している。そしてそのままピクリとも動こうとしない。
「う、嘘、何が……」
「今何が起きたんだ!?何で殿下が倒れてる!?」
「あ、あいつは立ってる……まさかあいつがやったって言うのか!?」
一瞬の静寂のあと。観客席が爆発したように騒然となった。
王族の中でも抜きん出た魔力を持ち、学園始まって以来の天才、教師だって敵う者はいないと言われていたレオナルドが。
貴族の中でも最低辺、おそらく魔力は全生徒に劣るであろう、筆記だけの名ばかり特待生の前に倒れているのだ。
誰もその光景を信じられなくて。
「……陣は器。魔力は水。水が足りなければ魔法は発動しない。そういう契約なんだ、魔法陣と魔法は」
すっかり薄くなった本を放り投げ、リオルが倒れたレオナルドの背に向けて言う。
「だから発動した後に水が足りないとなれば、近くにいる者から無理矢理補給しようとする。それでも足りなければ、魔法は搔き消える」
親切にも何が起こったのか、何を起こしたのか説明するリオルの声は、未曾有の大混乱に陥る観客達には聞こえないだろう。
「俺の護符は一つじゃないんだよ。まあ、聞こえてないだろうけど」
光の速さで観客席を駆け下りステージに駆け寄った、たった一人を除いて。
「リオル!リオル!格好良かったです、リオル!」
「うわっ!」
「最後の護符はあの時のものと同じですね!アレに空に攫われた時に水の柱で助けてくれた、あの時の!」
ステージに立つリオルに抱きついて、シャリーナが感極まって言った。
「でもどうして魔法が途中で消えたんですか?確かあれは、魔法発動後に陣を勝手に大きくして、足りない魔力を無理矢理奪って再発動する護符では……」
「根こそぎ奪ってもまだ足りなかったからだ。これでもかってくらいに広げたからな。勝手に大きくなる魔法陣に、あいつが疑問を抱かないで自信満々だったのは謎だけど」
「あの男が謎の自信で溢れてるのはいつものことです」
「それもそうか」
風で乱れた髪を面倒くさそうに手櫛で直しながら、もう片方の腕で背中を支えてくれるリオル。格好良過ぎて眩暈がする。
「それにしても、魔力切れってそんなに辛いのか。俺はそういえば調子が悪いな、って思う程度なんだけど」
「うーん……例えるならもう一つの血液でしょうか?それありきで生きてるので、私も完全に切れれば辛いです。殿下なら文字通り桁違いの辛さでしょうね」
「成る程。その例えはわかりやすい」
目の前にリオルが側にいる。その手に触れられる。言葉を返してくれる。
やっといつもの日常が帰ってきたのだ。嬉しくなったシャリーナが、更に喋りかけようとしたところで。
「勝者……リオル・グレン……」
「え?」
リオルでもない。レオナルドでもない。大人の男の人の声が聞こえ、シャリーナがその方向を振り返ると。
「しょ、勝者!リオル・グレン!これで決闘は終了とする!だ、誰か、早く殿下に魔力回復薬を!」
片方の皿が地に着いた天秤の前で、審判役の教師が大慌てで叫んでいる。
「ああ、そうだ」
そういえばまだ勝利宣言してもらってなかったなと、リオルが何てことないように言った。




