19話 囚われの姫
『裁きの天秤。
遥か昔、まだ魔法が各属性にも分かれていなかった頃。全ての人々が当たり前のように魔法を使ってた時代に作られた魔道具。
一対一の闘いの公正な審判と勝者の敗者への支配権を保証するもの。
戦士達が天秤の二つの皿に各々の血を垂らすと、皿と血の持ち主が連動する。一方が戦闘不能に陥れば一方の皿が地に着き、敗者と判定される。そして、敗者となった者は、勝者の出した条件に従わなければ死ぬ呪いにかけられる』
「ふーむ……」
軟禁生活四日目。
相変わらずピンクにまみれた趣味の悪い部屋にて。右足を大きく一歩前に踏み出した状態でゆっくりと腰を落としながら、シャリーナは背筋と両腕をピンと伸ばして教科書を読んでいた。
何をしているかというと、下半身トレーニング兼歴史の復習である。
『かつては、戦争での将同士の一騎討ちや、王位継承争いにて用いられていた。
しかし次第に時の王が自身に批判的な貴族を力ずくで支配するために使うようになり、暴君が生まれ、恐怖政治が敷かれ、国が荒れていった。
最後にこの天秤を用いて当時の独裁者から王位を奪した二十代目国王は、これをその後一切使わず宝物庫に封印し、以後暗黙の了解で現在に至るまでこの魔道具が日の目を見ることはなく』
右足が終わったので次は左足を大きく前に出し、またゆっくりと腰を落とす。これを繰り返すことで腰から太ももにかけて鍛えられ、力強い蹴りを生み出すことができるのだ。
いつの日かあのナルシストに飛び蹴りを決める機会があれば、その機会を存分に活かせるように。
『このように古代の魔道具の中には、現代の理から外れ、その強力さ故に危険性の高いものが多く、この他にも——』
また、流石に授業を休み過ぎて単位が不安なので、唯一持ち込めた通学鞄に入っていた教科書を繰り返し読み込んでいる。
「ふう……」
ふと疲れて窓を見れば、空が夕陽でオレンジに染まっていた。
いつだったか、リオルと二人で王都のカフェに行った時に窓から見た空と同じ。その時のことを思い出し、シャリーナは懐かしげに目を細めた。
「……調子はどうだ?猫よ」
しかし次の瞬間その心地よい回想がブチ壊され眉を顰めた。
窓の外、すぐ下から聞きたくもない声が入ってくる。
一応この部屋は地面よりは遥か上に位置してるはずだが、まあ、上級の風魔法が使える者からしたらそんなの関係ないのだろう。
先程まで綺麗な夕空を映していた窓が、いずれこの国を背負うとかいう男の背中で埋められる。
「まだ食欲が戻らないと聞いたぞ。フッ、俺を心配してくれるのは悪い気はしないが……それで俺を心配させては元も子もないのではないか?」
背を向けて浮かんだまま、相変わらず聞いてもいないことを喋ってくるこの国の第一王子。
「いえ……」
「シッ、静かに。俺がここに来てることは内緒なのでな」
ということは不慮の事故で転落しても発見は遅くなる……が、その場合シャリーナも無事では済まない。完全犯罪には程遠い。
「ああ、窓から身を乗り出したりするんじゃないぞ?けじめの為、顔を合わせないという誓いは破るつもりはないのでな」
心配されずとも今部屋の広さの許す限り窓から遠ざかってるところである。いや、別に飛び蹴りの為の助走の距離を稼いでるわけではなく。
「はは、拗ねるな拗ねるな。今日は一つ、お前の不安を取り除いてやろうと思ってこうして来てやったんだ」
とーんとーんとーん、とシャリーナがその場で静かにジャンプをした。別にこれはただの足の運動であって、飛び蹴りの為の準備体操をしてるわけではない。
「あの黒鼠との決闘。万が一にも俺が負けることなどないが……厳然たる実力の差の他に、もう一つ理由がある」
両開きの、外側に開くタイプの窓だ。鍵もかけていない。内側から思い切り蹴りつければ、万が一外に人がいた場合無事では済まない。
だがしかし、そんな万が一なんて誰が想定するだろうか?ちょっと偶然トレーニングの一環で窓に飛び蹴りをしたらすぐそこに人が居たなんて、誰も想定できまい。
もしそんな事が起きたとして、それは不幸な事故である。いくらなんでも死にはしないだろうし。
「あの黒鼠は……嘘をついている」
ちょっとした考え事の末、とある決意をしたシャリーナが足を踏み出し駆け出したその時。
「お前は純粋だからな。黒鼠の姑息で稚拙な嘘に騙されて、あんな奴を強いと思い込まされてたのだろう。だからこの勝ちが決まった決闘で、そんなにもこの俺の心配をしている……」
ピタリとシャリーナの足が止まった。
「案ずるな。猫よ。決闘の場では最早誤魔化しは効かない。あの卑怯な黒鼠の嘘を白日の下に晒し、完膚無きまでに叩きのめしてみせると約束しよう」
リオルが嘘をついて自分を強く見せてるとは、これまた酷い言いがかりである。
とりあえずそんな馬鹿な勘違いをした根拠だけは聞いておこうと思い、とある目的のため上げかけていた足を止めたのだが。
「では……さらばだ、俺の猫。よい夢を」
このお騒がせ野郎はそれだけ言って満足したらしく、さっさと更に上空へ飛んで行ってしまった。ハエのように。
「え、あ、ちょっ、え?」
またもや飛び蹴りの機会を逃してしまった。ほんの少し躊躇したばっかりに。
言いようのない苛立ちを抱え、シャリーナは不完全燃焼となった足を下ろした。
軟禁生活五日目。
「……殿下と会っているようだな。どんな手を使ったのか、小賢しいことだ。けじめをつけるまで会わないという殿下の誓いを蔑ろにして、自身の欲望を優先させるか。今からそのようでは先が思いやられる」
「ええ、仰る通りです。誓いを蔑ろにされないよう、どうぞ殿下にご進言なさってください」
「くっ、どこまでも姑息な……!」
この日の夜は、何故か侍女ではなくエドワードが夕食を運んできた。厨房でどんな交渉があったかは知らないが、シャリーナが調子に乗らないよう嫌味を言う為に来たのだろう。
「いいか。今日の夜からは殿下はいらっしゃらない」
朗報である。
「殿下はご多忙なのだ。これ以上我儘を言って殿下を煩わせることのないように!」
ただ何故従者が一応隠れて行ってるはずの王子の来訪を知ってるかだが。
大方あの思わせぶりナルシストが、「そういえば俺の猫が昨夜……おっと、これは内緒だったな」とか何とか自分から言ったのだろう。吐き気がする程簡単に想像できる。
「全く、殿下もどうしてこんな女に騙されて……っ!」
憎々しげにこちらを睨みつけながら、エドワードがドンッと夕食を運んできた台を叩きつけた。
何が何でもシャリーナを正妃にさせない為に、この従者もなりふり構っていられないらしい。
「このまま何事もなく正妃の座に収まれると思ったら大間違いだぞ!平穏に暮らしたければ側室に下がれ!いや、側室ですらその身に余ると何故わからない!」
とことん威圧し、萎縮させ、早くシャリーナが辞退をするようにと。
「仰る通りです。私は正妃にも側室にもなる気はありません」
「はっ、口では何とでも言える!そうやってしおらしく見せながら腹の中では笑ってることくらい簡単にわかるのだぞ!」
しかし如何せんエドワードの中でシャリーナが金と権力に群がる女の一人であるという大前提がある故に、シャリーナが何を言おうと悪くしか取れないのだ。
「覚えておけ。殿下は聡明な方だ。たとえ今だけは上手く騙せようと、それもいっときのこと。私からしたらわざとらしいにも程がある。殿下に告げ口しても無駄だぞ。殿下がお前の言うことをいつまでも信じるわけないのだからな!」
決め台詞のつもりだったのか、再びドンッと台を叩きつけ、エドワードが部屋を去って行った。ドアをバンッ!と叩きつけるように閉めることも忘れない。
シャリーナを正妃にさせないためとはいえ。エドワードのこの言動はあまりにやり過ぎだ。もしシャリーナが想像通りの悪女だったとして、レオナルドに告げ口したら一発アウトなレベルである。
「……わざとらしいのはどっちよ」
おそらくシャリーナに告げ口させたいのだろう。シャリーナがレオナルドに盛大に盛って告げ口したところで、エドワードがしれっと否定する。
そうしてシャリーナに嘘つき女というレッテルを貼り、正妃の座から引きずり降ろす、そんな筋書き。
あんまりにも告げ口への誘導がわかりやすく、裏があることくらい簡単に想像がつくのだ。
リオルだったらこんな時どう考えるだろうと想像すれば、このくらい。
「でも、上手くいくとは思えないのよね……」
シャリーナとしては嘘つき女のレッテルを貼られてでも、正妃から逃れられるなら一考の余地があると思うが。多分この策は上手くいかないだろうということもわかる。
だってあのレオナルシストのことだ。『自分が悪女に騙されていた』など死んでも認めないだろう。それに。
そんなレッテルを貼られることを良しとしては、今まで己の立場が悪くならないようにと苦心してくれたリオルに申し訳が立たない。
やはりこの稚拙な策に乗るわけにはいかないと、シャリーナは決意を新たにしたのだった。
軟禁生活六日目。
「今日からよろしくお願い致します。シャリーナ・クレイディア……様」
「はい?」
今日は朝から急に「面会がある」とメイドから告げられていた。
もしかしてようやくシャリーナが正妃になることに反対な上層部の誰かが来たのかと。しかしそうだとしてその人物も話を聞いてくれるか否かはわからないので、期待し過ぎないようにして促されるまま王宮内のどこかの一室まで来たのだが。
「シャリーナ様が動揺されるのも致し方ないことですわ。しかし、これは殿下がお決めになられたこと。私は己の職務を全うするのみ。どうかお気を悪くされませんよう」
期待とは裏腹に。
そこにいたのは、己に対して頭を下げるロザリンヌ・アーリアローゼという、二重の意味で予想外な人物であった。
「あの、仰ってる意味が……」
「未来の妃であるシャリーナ様に無礼を働いた罪を償う場として、殿下に与えられました。これから、シャリーナ様の妃教育の教師を務めさせていただきます」
言ってることも予想外であった。
「私共が十数年懸けて受けた教育を、これから数年で全て完了させねばならないのです。使える者は全て使うという、殿下のご判断ですわ」
馬鹿だ阿呆だと思っていたが、筋金入りの馬鹿だと改めて思う。どこの世界に元婚約者に新しい婚約者の世話をさせようと考える馬鹿がいるのか。
「ご安心を。私が何か少しでもシャリーナ様に粗相をすれば、すぐさま罰を与えると殿下のお言葉です」
世界で一番安心できない言葉である。
「……顔を上げてください、ロザリンヌ様。私は妃教育を受ける気はありません。何故なら私は」
「っ、そういうわけにはっ!いかないのですわっ!私達は、私は、今まで血の滲むような努力をしてきました……っ殿下の隣に立つ為にはっ!愛だけでは通用しないことをっ貴女は何もわかっていないっ!」
顔を上げ、キッ!とこちらを睨みつけたロザリンヌが、嗚咽を交えながら、拳を握り締めシャリーナの言葉を遮って吐き捨てる。
その瞳にはマグマのような怒りと、元妃候補としての誇りがたたえられていた。いやその誇りには『妃として民の声に耳を傾ける』とかは含まれてないのだろうか。毎度のことだけども。
「愛だけで、愛されているというだけで正妃が務まるというような甘い考えは、今すぐお捨てくださいませっ!」
国中の女の誰もが王子を愛するというようなおぞましい考えは、今すぐお捨ていただきたい。
「お願いですから聞いてください、私は」
「そんなこともわからないようなら、貴女は到底妃には相応しくなっ……くっ、いえ、失礼しました。少々、感情的になり過ぎたようです。……今日のことを殿下にどう告げられるかはシャリーナ様の自由です。どのような罰も、甘んじて受けましょう。本格的な妃教育は明後日からとなります。それでは」
結局最後まできっちりとシャリーナの言葉を遮り、ロザリンヌが背を向けた。
今日のところは顔合わせのみだったようで、足早に部屋の出口に向かって行く。
「ロザリンヌ様」
そのピンと伸ばされた背中に向かって、シャリーナが問いかけた。
「もし、私が……私が愛しているのは、殿下ではないと。私が愛しているのは、同じ学年の、殿下の決闘の相手の、魔術研究科のリオル・グレンだと言ったら、信じていただけますか」
今しかない。こちらの言葉を遮られないようにするには、ロザリンヌが背を向けて、かつドアが開けられるまで立ち止まっている今しかなかった。
「……それは」
メイドによりドアが開けられ、部屋を出ようとしていたロザリンヌの足が止まる。
「そのように、他の殿方に気があるフリをして気を惹く手法は、正妃として褒められたものではございません。以後、二度となさらないように!」
振り返り、キッ!とこちらを睨みつけるロザリンヌ。
言い終わるや否や、バタンと閉じられる扉。
「……はあ」
本気で言えば、しっかりと説明すれば、わかってくれるのではという甘い考えは、いい加減に捨てよう。
天井を仰ぎ見て、シャリーナは額の汗を拭った。
決闘の日まで、残り二日。




