1話 王子様との出会い
「……血吸い花だ。それに触ったら、爛れるぞ」
「え?」
国中の貴族の子女が集うファラ・ルビア学園、その裏庭で。黒い鈴が連なったような不思議な花を見つけたシャリーナは、思わずそれに触れようとして、斜め後ろからかけられた声に驚いて顔を上げた。
「見えないけど茎に棘……いや、針がある。何も知らずに触った者の指に打ち込んで血を吸うんだ。一緒に麻痺毒も流し込むから、刺された瞬間は痛くも痒くもないが後で腫れて爛れる」
顔の殆どを覆い隠す、肩につくかつかないくらいまで伸びた黒髪。髪と髪の間から辛うじて見える、暗い緑色の目。ボソボソとした低い声から男性だと分かるが、背はシャリーナより少し高い程度で、お世辞にも男らしい体格とは言えない。両腕に抱えているぶ厚い本が随分重たそうに見える。
「騎士科の上級生がこの前魔の森に実技演習に行ったから、その誰かの服に種がついてたんだろう。教師に報告して駆除してもらうから、絶対触るなよ」
言うだけ言ってくるりと踵を返した少年を目で追って、シャリーナは衝撃で動けないでいた。
彼の見た目を端的に言うなら、地味で冴えない根暗なガリ勉——というのが最も当てはまるだろう。華やか煌びやかな貴族子女達が集まる学園では、とても珍しい。
「あ、あ、あの、お、お名前は!」
少年が校舎の角を曲がる直前、ようやく我に返ったシャリーナがその細い背中に向かって叫ぶ。ざあっと吹いた風が、少年の黒い髪を揺らした。
「…………リオル」
ともすれば風に吹き飛ばされそうな程小さな声を、それでもしっかりと聞き取り心に刻む。
これが、シャリーナとリオルの出会いだった。
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昔から男性にときめくということがなかった。幼い頃に母親が読み聞かせてくれたお姫様を救う王子様の絵本も、特に心に響かなかった。妹や友人がこの国の王子の絵姿を見て格好良いと騒いでいても、全然共感できなかった。
自分は男性に興味が無いのかと、シャリーナは十五になる年まで思っていた。
「リオル様!サンドイッチを作ってきたんです、一緒に食べませんか?」
「……君が?君の家のシェフじゃなくて?」
だが違った。ときめかなかったのは男性に興味が無かったからではない。真に格好良い人にまだ出会ってなかったからである。
鬱陶しそうな重たい黒髪に、隈に縁取られた暗い目元。凹凸の少ない控えめな顔立ち。男にしては頼りない身体つきで片時も本を離さない程勉強熱心な、このリオルという少年に。
「シェフにレシピを送ってはもらいましたが、寮のキッチンで私が作りました。さあ、是非」
「……」
数日前の昼休み。気紛れで学園が経営するカフェテリアではなく裏庭に足を運んだシャリーナは、その日から毎日そこに通い詰めていた。
「……田舎の男爵家三男に、ただの礼とはいえクレイディア伯爵家の長女が手ずからサンドイッチを作るなんてどうかしてる」
「クッキーもあります!サンドイッチだけじゃありません!」
「余計駄目だろ」
数日かけて聞き出したリオルの情報。王都から遠く離れたグレン男爵家の三男で、貧乏故学園に入学する程の余裕はなかったとのこと。しかし入学試験で筆記部門トップを取り、特待生として授業料免除を勝ち取りここにいる。なのに本人は「実技はてんで駄目の落ちこぼれだ。君が構う価値のある人間じゃない」とまるで自慢する様子がない。格好良いにも程がある。
「これなら本を読みながら食べられます、ご迷惑でなければ」
特待生であることを明かしてくれた時だって、成績自慢ではなく授業料免除がなければ学園に通えない程貧乏であることを伝えたかっただけのようで。
ちなみに同じ学年なのに入学から一カ月以上、全く接点がなかったのは、リオルが魔術研究科でシャリーナが魔導師科であり科が違ったからである。
「少しでも昼食を取られた方が午後の授業も集中できると思います」
「……もらう」
リオルがカフェテリアも学園周辺の店も高価過ぎて昼食を抜いてることを知ったシャリーナは、血吸い花から救ってくれた礼と称して連日リオルの分の昼食を持参していた。
「明日も持ってきますね。リオル様の好きな具は何ですか?」
「いや、いい。これじゃあ貰い過ぎだ。血吸い花を触るのを止めた程度で、こんなに貰ったら釣り合わない」
「いいえ!リオル様は私の恩人です!どうかもっともっと恩返しさせてください!」
男を落とすにはまず胃袋から。サンドイッチを口に含み「……美味い」とごくごく小さな声で呟いたリオルに、シャリーナは目を輝かせ内心飛び上がって喜んだ。
「次はクッキーも受け取ってもらえれば……!」
中庭からの帰り道。昼休みも勉強時間であるリオルにとって、他人があまり長居しては気が散って邪魔だろう。そう考えたシャリーナは、リオルが昼食を食べ終わればすぐ引き下がるようにしていた。食後のクッキーは固辞されてしまったので大人しく持って帰る。無理矢理押し付けても意味がない。
「フン、どこからか甘ったるい匂いがすると思ったら、お前が原因か」
「はい?」
サンドイッチを全部食べて貰えただけ及第点だろう——とスキップせんばかりに上機嫌だったシャリーナは、突然木陰から現れた人物に驚いて足を止めた。
「やれやれ、女共のきつい香水の匂いから逃げてここまで来たってのに、今度は菓子か。揃いも揃って甘ったるくて吐き気がする」
「はあ……」
自分から近づいて来といていきなり被害者ぶる変な男。甘い匂いが苦手なのかは知らないが、こちらには全く関係ない話である。
「だが、美味そうだな。一つもらおうか」
「はあ?」
シャリーナは今度こそ眉を顰めた。直前まで難癖をつけておいて今度は寄越せ?新手の強請りか頭が沸いてるのか。いずれにせよ危ない男であることに変わりはない。
「お断りします。名乗りもせず失礼なことを言う人に差し上げるクッキーはありません」
「……ほう?」
何が「ほう?」なのだろうか。阿呆の間違いではないか。
「お前、俺を知らないのか」
「残念ながら、出会い頭に人の菓子を強請るような知り合いはおりません」
いよいよ男の頭がおかしい説が濃厚になってきた。警戒を深めたシャリーナが一歩後ずさる。
「フッ……お前、面白いな」
頭がおかしい説が確定した。
「俺の名はレオナルド。仮にも貴族令嬢を名乗るなら、俺の顔くらい覚えておけ、女」
「きゃっ!?」
頭のおかしい男が名乗るや否や、クッキーの袋のすぐ下に魔法陣が現れ、小さな竜巻が起きた。掴み直そうとするも間に合わず、クッキー袋が宙に舞い上がる。
「本当なら不敬罪になるところだが。これで手打ちにしてやる」
「ちょ、ちょっと!」
舞い上がったクッキー袋が、男の手の中に収まった。
「では、な」
「何がではですか!返してください!」
そのまま立ち去ろうとする男を追いかけ、取り返そうと手を伸ばすも、身長差故に簡単に躱されてしまう。
「フッ、キーキー煩い女だな。まるで躾のなってない野良猫だ。だが……媚びの滲んだ猫撫で声で擦り寄る女共よりは、よほどマシかもしれんな……」
「何を意味のわからないことを……きゃああっ!?」
しばらく押し問答を続けたのち。
男が指をパチンと鳴らすと、今度はその男を中心に巨大な竜巻が発生した。
「あまり遊んでる時間はないのでな。それでは、今度こそさらばだ」
強風に巻き上げられた大量の砂埃が顔面に直撃し、シャリーナが堪らず両腕で顔を覆う。
「な、何を……っ」
次にシャリーナが目を開けた時には、男はうざったらしい金色の長髪を靡かせ、クッキーの小袋を片手に悠々と飛び去っていくところだった。
「えっ、あっど、泥棒ー!!」
リオルのために、好きな人のために何度も練習して作ったクッキーを。故郷の苦いお茶が好きらしいリオルのために、苦味の強い茶葉を練り込んで甘味とのバランスを追求した渾身のクッキーを。
「なんて奴なの!」
初対面で難癖をつけてくる当たり屋のような言動。白昼堂々と盗みを働くその精神。とんでもない生徒がいたものだと戦慄したシャリーナは、怒りのあまり拳を握りしめた。クッキー一つくらいなら泣き寝入りするだろうと思ったのだろうか、相手は堂々と名乗っていった。教師に報告して然るべき処置を。
「……っ、シャリーナ!」
「へっ?」
たかがクッキー程度でと笑われても構わない。アレはただのクッキーじゃなくて特別な……と考えたところで、まさに今思い浮かべたばかりの少年が現れた。いつも抱えている本も無く、珍しく息を切らせている。
「リオル様!どうかされましたか?」
途端に不届き者への怒りが吹っ飛んだシャリーナがリオルへと駆け寄る。
「どうかしたのは君の方だろう……!今、君が帰った方向から、すごい風の音が聞こえて」
「リ、リオル様……!」
つまり、己を心配して駆けつけてくれたのか。あの重そうな本を投げ捨てて。シャリーナは感動のあまり涙が出そうになった。
「何があった?怪我はないか?誰か竜巻でも起こしたのか、何のために?」
「不審者にクッキーを盗まれただけです。そんなことより、リオル様」
「不審者!?学園に!?え、クッキー??」
走ったせいか前髪が乱れて、いつもよりその両目がはっきり見える。声を張り上げてるのも新鮮で格好いい。それに何より。
「初めてシャリーナと呼んでくださいましたね……!」
「え、あっ」
何度言ってもクレイディア家の長女としか呼んでくれなかった彼が、ついに。
「いや待て、今のは咄嗟に、忘れてくれ、君が様付けなのに男爵家の俺が伯爵家のご令嬢を呼び捨てにするなんて烏滸がまし」
「それでは私も呼び捨てにします!だからまたシャリーナと呼んでください、リオル」
愛しい人が初めて自分を名前で呼んでくれた。そんな記念すべき日を、クッキー泥棒への制裁で汚してしまっては勿体ない。
「あ、えっと……」
「シャリーナです、リオル。さあもう一度、シャリーナと!」
教師への報告は勘弁してやろう。命拾いしたな、クッキー泥棒め。
「…………シャリーナ」
「はい!」
心の中でクッキー泥棒への呪詛を吐きながら、しかしすぐにそんなことは片隅に追いやり、シャリーナは満面の笑みで愛しい人の手を取った。
「金髪に青い目の、無詠唱で風魔法を操るレオナルドって……それ、うちの国の第一王子じゃ」
「ああ、確かに同じ名前ですね。第四学年のレオナルド・ランドール・ユリシア・エルガシア殿下と」
「まあでも偽名を名乗った可能性もあるし。流石に王子なら君もわかるか」
「絵姿は妹の物を拝見したことはありますが。正直に言うと、同じ制服を着られては見分ける自信はありません」
「一国の王子を!?」
「だってまだこの学園に入学して一カ月半ですし、学年も違う王子と接する機会もないじゃないですか」
放課後。学園から女子寮までの帰り道を、シャリーナはリオルと共に歩いていた。
被害はクッキーだけとはいえ、何者かがいきなり襲ってきたことには変わりない。危ないから今日は寮まで送るとリオルが言ってくれたのである。シャリーナの中でクッキー泥棒がクッキー泥棒兼恋のキューピッドに昇華した。
「それに、王族や上位の貴族の方程皆同じ顔をしていらっしゃるし」
シャリーナにとって世間一般的なイケメンは皆同じような顔だった。悪くないことくらいはわかる、という程度の。
「金髪に青い目なんて貴族なら掃いて捨てるほどいますし。かくいう私もありきたりな金髪に青い目ですが」
「貴族を掃いて捨てるなよ……それに、君の髪は金髪の中でも珍しいストロベリーブロンドだし、目も青というより水色だ。全然ありきたりじゃない」
「え?あ、ありがとうございます!リオルに褒めてもらえるなんて!」
「あ、いや、ありきたりじゃあないってだけで、褒めたつもりは」
今日はなんていい日なのだろう。クッキーを奪われたのは悔しかったが、そのおかげでリオルに送ってもらえるなら余裕で金貨十枚くらいのお釣りがくる。クッキー泥棒様々である。
「……明日の朝は、何時に寮を出る?」
「え?授業開始時刻の三十分前には出るようにしてますが」
「じゃあ、その時間に寮の門の前で待ってる。……しばらくは一人で歩かない方がいい」
「そ、それって……!」
今日だけでなく明日からも、しばらく、登下校を一緒に。
「嬉しい、大好きです、リオル!」
「そ、そういうことは軽々しく言うな……っ」
シャリーナの中で、クッキー泥棒兼恋のキューピッドが、クッキー泥棒兼愛の大天使に格上げされた。
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一方その頃。
「……殿下。今日の昼休み、カフェテリアを抜け出してからどこへ行かれてたんですか?」
「フン、ただの散歩だ。どこでもいいだろう」
「令嬢達のフォローをするこちらの身にもなってください。殿下が予鈴が鳴るまで戻らなくて大変だったんですよ?」
「そう言うな。俺もアレらにはうんざりしてるんだ」
他の生徒の三倍は広い部屋で、どかりと椅子に腰掛ける金髪の男。隣には同学年の従者が佇んでいる。
「昼休みが終わるまで戻らなかったのは初めてでしょう。何をしてたんですか?」
「……フッ、珍しい毛色の猫に会ってな。つい構い過ぎてしまったんだ」
「猫?そんなもの……」
怪訝な顔をする従者に、金髪の男——レオナルド・ランドール・ユリシア・エルガシア第一王子が含み笑いをして懐から小さな袋を取り出した。
「迷惑料だ。お前にもやろう」
「はあ、クッキーですか。って緑色!?大丈夫なんですかこのクッキー!?」
「ああ、中々美味かったぞ。……流石毛色の違う猫だ、作るものもおかしな色だな」
「は?ちょ、ちょっと待ってください、こんな得体のしれないものを食べたんですか殿下!毒味もさせずに!?」
男子寮の最上階にて。シャリーナが見れば「お前のために作ったんじゃねぇ」と飛び蹴りしてしまいそうな茶番が繰り広げられていた。




