【76】2月14日+①
――幼い頃。
初めて家族で行った遊園地。
うさぎさんが持ってた赤い風船が欲しくて、父さんにおねだりした。
しっかり持っていたはずなのに、ほんの一瞬気を許してしまったせいで、手の中を、すり抜けていく細い糸。
風船は、空に溶けてくように消えていく。
そこには、悲しさとか後悔とか、そんな感情は少しも胸を支配する事はなくて、青い空を仰ぐだけ。
心は、ただ空っぽのまま。
ちゃんと、言葉にすれば良かった。
誰より近くに居るのは、私だと安心しきってた。
メールも電話も面倒臭がらず、キチンとすれば良かった。
心は、ただ空っぽのまま。
どうする事も出来なくて、ひとりでめそめそ泣く?
行き場の無くなった気持ちを、光星に八つ当たりする?
こうなったら手当たり次第に、気の済むまでやけ食いする?
……冗談じゃない!!
この私が、何もせず白旗を挙げるとでも?
この私が、尻尾を巻いて逃げ出すとでも?
現場を押さえ、決定的な動かぬ証拠を得て、怒りの制裁を与えてやる。
冷え切った暗い世界に、小さな火が点った。
一瞬で、あっという間に火は燃え盛る炎となり、全てを焼き尽くす。
業火を身に纏い、正義の鉄槌を手にする。
(私の事、好きって言いながら、浮気は、絶対許さないっ!!!!)
朝から、つかさには「今日の千星さん、熱いわね。オーラがはっきり見えるわ。千星さんは、こうでなくてはね」と、微笑まれる。
殺気立っているのは、自分でも分かる。
とばっちりは遠慮するわ、という感じで、つかさは今日の私との間に微妙な距離を保っている。
五十鈴には「ごめんね、千星ちゃん。昨日、頑張ったんだけど出来上がらなくて……。明日、“遅れてごめんねチョコ”を持っていくからね~!!」と、伝えたい事だけ言って、それっきり。
明日は土曜日だ。
例え、逃げても無駄。地の果てまで逃げても、追いかけ捕まえてみせる。
昼休み。
昨日、決定的瞬間を見た校舎裏の片隅で張り込みをする。
予想通り、マコトと昨日とは別の女の子がやって来た。
女の子が頬を少し染めて両手の中には、リボンの掛かった赤い小さな箱。
差し出す姿は、一生懸命で何より愛くるしい。
女の子には悪いと思うけど、私だって想う気持ちは、誰にも負けはしない。
あいつは、私の可愛いわんこ。
私だけに懐いて、私だけを見て、私の事だけ想っていればいい。
受け取ろうとしたマコトの手を、瞬間移動でもしたのかという速さで、目の前に立ち、その手を払い落とす。
「っ?!――千星せん…ぱ…」
「きゃ」
マコトの驚いて顔を睨み付ける。
「何を受け取ろうとしてるのよっ!!!まさか、その気が有るって言うんじゃないでしょうね?絶対、許さないんだからっ!!!!!」
「え?え?は?は?」
こんな時にまでバカになるなんて、白々しいーーっ!!!
今度は、小さな悲鳴を上げた女の子に向かう。
あくまで、表情は優しく穏やかなものに変えて。
「ごめん、あなたの気持ちは分かるけど、マコトにはあげないで」
「………」
俯いて何も言わない女の子。泣いてるのかもしれない。
こういうのが、きっと本当の本当の女の子の姿だ。
自分と比べてしまう。私には、無いものだ。
微かに震える手の中には、行き先を失ったチョコレート
許されなくてもいい。平手ぐらいされても仕方ない。
「言いたい事があるなら、私に直接――」
「…そうですね。私が、間違ってました」
え?いや、間違ってるのはあなたではなく、私なんだけど。
告白現場にしゃしゃり出て、全てぶち壊しにしたんだけど。
寒風にも負けない瑞々しいぷるっとした唇に、艶やかな長い黒髪。
そして、私を見上げる女の子の瞳には、意志の強さが伺える。
「あ、謝るのは私――」
「受け取って下さい!!」
「え?え?は?は?」
「姫野なんかに頼まず、こういうのは自分でちゃんと渡さないとダメですよね」
「ちょっと?え?え?」
「私、1年4組の中谷もえって言います!」
「はぁ」
「私と、仲良くして下さい。千星お姉さま!!」
「え?仲良く?」
この状況を理解するのに、時間が掛かる。
中谷もえと名乗った女の子は、さも嬉しそうに軽くスキップして去っていく。
私の手の中には、行き先を失ったはずのチョコレート。
(――?なんで、私に?)
「男は阻止出来ても、女子までは無理でした…」
マコトの言葉に、我に戻る。
「一体、どういう事…?」
「千星先輩、モテ過ぎです!!オレ、バレンタインって、女子から男への告白の日だと思っていたのに…」
半ば呆れたように、脱力感を漂わせてマコトは話し続ける。
「男から女子へとか、女子から女子へって、いうのも有るんですね」
私の手の中に有るチョコに、視線を落としマコトは小さな溜め息を一つ。
「もしかして、このチョコ初めから私宛て?」
コクンと頷くマコトは、腕を伸ばし私をきゅっと抱き締めてくる。
「ちょ、ちょっと!!マコト!!ここ、学校!!!!」
いくら人気の無い場所だと言っても、誰が何処で見てるか分からない。
「中谷と仲良くしないって、言って下さい」
「はぁ?」
「仲良くするのは、オレだけって言って下さい」
「な、何、言って、相手は、女の子でしょう!!」
「う~~~~~!!」
「唸っても、ダメ!!」
丁度、昼休みが、終わった事を知らせるチャイムが鳴る。
しょんぼりと、仕方なさそうに私をその腕から解放し、お互いの教室に戻る事にする。
「千星先輩、今日、一緒に帰って下さい」
「わ、分かった。じゃあ、また、放課後に」
リボンの掛かった赤い箱。
今日までの過去を振り返ると、女の子から(五十鈴は抜きにして)チョコを貰った事は何度も有る。
さすがに高校に入ってからは、無くなったけど……。
まさか、マコトではなく、私にだったとは…。――という事は、昨日のアレも私にって事?
マコトは、私がモテるって言うけど、女の子からモテたって…――私は、そんな簡単に仲良くなんてなれないし。
それに、男の人から告白なんて一度もされた事ないし。
――男は、阻止?
あのマコトが?
どんな風に牽制して、阻止してるのか?
威嚇なんて出来るのか?
そんな姿を午後の授業中、先生の話を聞きながら想像してみる。
少し笑える。
ほんの数分前まで、カッカ、カッカ、と怒りの炎に身を任せいたのに、今はほわんとした空気を流れている。
HRが終わったらメールしようかな?
ううん、電話にしよう。
すぐに出なかったら、少し意地悪してやる。
早く授業、終わればいいのに。
黒板の上にある時計の針の進み方が、こんなに遅く感じた事はなかった。




