希望の朝に現実味がない瞬間
◇ ◇ ◇
目の前には、まん丸の黒い水晶があった。『黒』のはずなのに奥からキラキラしている。
俺は、それを綺麗だと思った。
『黒』のはずなのに。
「あ、起きた!」
水晶が離れる。
整った顔をした少女が、嬉しそうに飛び跳ねていた。あの路地で、イジメられていた少女だ。俺を庇って大量に出血していたはずなのだが、彼女はケロッと元気そうである。桃色のスカートの裾がフワフワ広がった。
「き……君は?」
「私? 私はこの通り元気だよ。けど、男の子のほうが弱いってのは本当なのね。なんで大怪我した私より起きるのが遅いかなぁ……もう三日も経ったよ、三日も!」
彼女が首を捻ると、黒い髪がサラッと動く。
ボーッとした頭でそれを眺めていると、彼女が不機嫌そうに顔をしかめた。
「何? やっぱり、あんたもこの髪が変だとか言うの?」
「いや、そんなことはないよ。むしろ……」
「むしろ何よ?」
俺は言おうか言いまいか悩んで、結局言うことにした――そのことが正しかったのかは、今もわからないけれど。
「キレイだと思うよ、意外と」
「い……意外とって、妙に真実味あるわね……」
しかめっ面の彼女の顔が、ほんのり赤く染まる。それに、俺は思わず吹き出した。
「そして、思ってたより可愛いね」
「そそそ、そんなに褒めても、何にも出ないんだからねっ! そうだ、スープ持ってきてあげる! うちの母さんの野菜スープは美味しいんだから、ちょっと待ってなさい!」
そう言った彼女はクルリと身を翻して、そそくさと部屋を出て行った。長い黒髪がスッとなびいて遠ざかる。
漆黒――と呼ぶべき黒さだった。ほかに例えようのない黒。染まりようのない黒。故郷にも黒っぽい髪の人はいたものの、ここまで真っ黒の人は初めてだった。
それが、世の中で忌み嫌われているものだということは知っている。エクアが生誕したきっかけになった戦争で、エクアを追い込んだ敵人種の特徴だったらしい。その敵の色が黒。黒は敵の色。
黒を排除したからこそ、今のエクアがあるのだ。
だけど、初めて見た本当の黒は、思っていたよりも嫌ではなかった。
艶やかで、気高くて、美しい。
年上の少年に立ち向かう彼女に、ピッタリの色だと思ったのだ。
俺は自分の髪を掴んで、前に寄せる。
少なくとも、こんな金とも茶色とも言い難い、冴えない褐色よりはいい色だと思ったのだ。
扉がバンッと閉められた音が思ったよりも大きかった。なかなか女のコのくせに乱暴のようである。
反射的に視線が上がったので、周りが目に入って来た。
なかなか変わった家だな、そう思った。
実家の砂を押し固めたような家とはまた違う、木と同系色のレンガで造られたような家。
家具も科学硝子ではなく、ほとんどが木造のようだった。
壁の一部では、絵本で見たことがある暖炉というもの中で、炎が揺れ動いている。
火も、地味に初めて見る代物だった。
大昔は火を起こして料理をしたりしていたようだが、今の時代は電気加熱が当たり前。火事のいう災害で苦労をしたという文章も読んだことがあるが、そんな現象を俺は聞いたことがなかった。ごくまれに抗争の爆撃が可燃物に燃え広がるという話があるが、それもまた争いの一種。戦いが終われば、すぐさま特殊な粉が撒かれ、鎮火されているらしい。
スラムという土地柄、チンピラの小競り合いは頻繁にあるものの、そんな大きな戦いは報道でしか聞かない。
全てが絵本の中のような部屋をキョロキョロと見渡しながら、俺は暖炉のそばへと歩いてみる。あちこち痣はあるはずなのだが、どこも痛くはない。
暖炉のそばは、より一段と暖かかった。
炎は赤い。そんなイメージはあったが、実際は赤というよりも橙に近いらしい。パチパチと弾け、揺れるそれにつられるがまま手を伸ばす。
その時だ。
「馬鹿か、貴様は!」
叱責が聴こえたと思った瞬間、火が遠ざかって行く。どうやら襟首が掴まれ、持ち上げられたらしい。
手足をバタつかせながら振り向くと、そこには仏頂面の人形みたいな顔があった。
今、部屋を出て行った少女の父親である。
「あ……あの……」
俺が口をパクパクさせていると、その男は一段と顔を険しくさせた。
「子供が危ないことをしようとして、大人に止められた。その時、子供はなんて言うべきなのか貴様は親から習っとらんのか?」
「えーと……ごめんなさい?」
「語尾は上げるな!」
「ごめんなさい」
訂正すると、その男は「うむ」と納得したようだ。
金色の長髪がキラキラしている。同色の瞳も眩しかった。長身痩躯のやたら威圧感のある男だ。だけど同時に、とても美しい人だと思った。
――ちょっ……男に対してまで俺、何考えてるんだよ⁉
「なんだ? 私の美しさに見惚れていたか。まぁ、当然であろう。このエクアという世界の美を研究しまくった結果なのだからな」
「どういうこと?」
いきなり理解しがたい事を言われて、俺は眉をしかめる。
それに対して、この男は当然とばかりに言いのけた。
「この世界に飛び込んだ否や、私は恋をしてだな。好きなった女には、惚れてもらわねばならん。郷に入れば郷に従えと、この世界の美意識について勉強しまくり、それに沿うよう魔法を――いや何でもない、忘れろ」
「いやいやいや、そこまで言われて忘れろとか、無理だから! 何、今おっちゃん、魔法とか言った?」
「いや、言っておらん。貴様の空耳だ」
「絶対言ったよね? 俺、この耳でちゃんと聞いたもん。悪いけど、俺けっこう頭いいからね。スラムとはいえ、神童とか言われちゃってるからね? 誤魔化しても無駄だよ!」
俺が手足をバタバタさせながら追及すると、男はため息を吐きながら、俺を下す。
そして子供っぽく唇を尖らせながら、小さく呟いた。
「誰にも言ってはならんぞ?」
そして、男が指をパチンと鳴らした。
それは、まばたきした一瞬。
男の姿が靄にかかったかのように白けた直後、目に入ったのはピンクのレースだった。
ものすごいフリル満載のドレスの肩には、同色の縦ロールが鮮やかに艶めいている。
「なっ」
それを見て、俺は即座に顔を背ける。
見てはならなかった。この世の破滅を、そこに見たのだ。
「どうだ、絵本の中のお姫様みたいであろう?」
そんなお姫様の恰好をした長身の男の姿など、見てはならなかったのだ。
「魔法で変身したのだ、ほれ、もう一度見てみろ」
魔法。
子供心ながらにどうしても惹かれてしまう幻想世界の単語に、俺はもう一度横目で見やる。
そのリボンが巻かれたウエストはガッシリとしていた。
その白い腕には細いながらもしっかりとした筋肉の筋が浮き上がっていた。
鋭い金眼が冷たく自分を見下してきていた。
「うっ……」
こみ上げてくる何かを堪えて、俺は口を押える。
魔法で着ていた服や髪型が瞬く間に変わった事実など、どうでもよかった。
ただただ、目の前にいるこの超常的存在を認めたくなくて。
俺は、現実を否定するかのように気絶した。




