満身創痍な彼の手を拒めるはずはないから
ユイは今一度指を鳴らす。加速して、空を飛ぶ。気持ちがいいとか、空が近いとか、そんな情緒はまるで気にならなかった。ただユイが見つめるのは、前だけ。
ユイの髪を風が梳かす。サラサラと流れる黒い軌跡が、灰色の空から落ちていく。
風圧で少ししか開かないユイの目が捉えたのは、見たこともないくらいに傷だらけの彼の姿だった。
「ルキノ――‼」
彼は全身血だらけで、辛うじてメグに支えられているから立っていられる状態のようだ。虚ろな眼差しだったが、その瞳がユイを捉えた瞬間に生気が宿る。
「君は何をやっているんだっ⁉」
そして、ユイはいきなり怒られた。
ルキノは支えてくれていたメグを押しのけて、ユイに向かって両手を伸ばす。
そんな彼がどんどん近くなって、ユイは気が付いた。
――減速忘れてた!
その結果、ユイは頭からルキノの胸に飛び込むことになる。
「うぐぐっ」
彼らしからぬ鈍い声をあげて、ルキノが尻餅を付いた。ユイもそのまま顔を彼の胸に埋めつつ、地面に正座する形で止まる。
「あーやばかった。今回はさすがにやらかしたと思ったわ」
「君は……いつも、やらかしてるんだよ」
頭の上から降って来る声は、とても疲れ切っていた。
ユイが顔を上げると、ルキノの顔がボロボロだった。瞼の上を切ったのだろうか、目に血が入り、まともに目を開けていられないらしい。陶器のような肌も、土や砂汚れだけではなく、生傷が絶えないようだ。戦闘服も半ば布切れと化している部分もあり、右腕は特に酷い。骨もやられているのだろう、ダラリと下がった血塗れの腕がおかしな方向に曲がっている。
「……あんた、よく生きてるわね」
「あぁ。君のおかげで景気よく肋骨も折れたみたいだね。けどその分、君が元気そうで何よりだよ」
「こんな時まで嫌味言うなんて、ご苦労なことね」
ユイが膝を払って立ち上がると、ルキノが真顔で、辛うじて無事な左手を差し出して来る。
――まさか、また手を繋いで私をからかおう……なんてことないわよね?
一瞬そんな考えがよぎるものの、ユイは素直に彼を引き上げた。
彼の髪はいつものように輝いていない。金髪も汚れすぎて砂色同然だった。錆びた彼にはいつもの綺羅びやかさも、爽やかさも感じない。
だけど、その険しい眼差しにユイは射竦められる。初めて見る彼の姿を簡単述べれば、とても格好いい。
『話の骨を折ってすまないが』
決して反省の色が見えないその声の発信源は、ユイの背中側。
ユイが振り返ると、そこには巨大な戦車があった。白光する戦車の先端には、長い発射口が搭載されている。その奥に僅かな光の燻ぶりが見えるのは、攻撃準備をしているからか。
その戦車に乗るのは、操縦者一名。車体の上に三名。皆、攻殻機兵鎧を装着しており、そのうち一人が立体映像投影機を持っている。
そこに映し出されている紳士の姿に見覚えがあるユイは、わざとらしく驚く素振りをする。
「あら、メグのお父さんじゃないですか。何してるんです?」
『おや、ユイさん。いつの間にやって来たんだい? こんな危ない所に戻ってきちゃダメじゃないか。ほら、メグと一緒に早くこっちに来なさい』
そう手招きする赤髪のブライアン氏の映像に、ユイは思わず口角を上げた。
「私だけ? 他のクラスメイトは? それに、娘の彼氏は守ってあげなくていいんですかね?」
『あぁ、やっぱりそこにメグの彼氏もいるんだね。もしかして、そのスラム出身の金髪の彼かな? だとしたら、暴徒の一味だから尚の事しっかりと駆除しておかないといけないね』
「ユイ、僕は――」
背中からのルキノが弁明しようとしている声をあえて無視して、ユイは「ハッ」と笑い飛ばす。
「オジサマ。オヤジギャグだとしても、面白くないですよ?」
『……なんだい、そのオヤジギャグというのは?』
「古代にあった、紳士たちが若い女性を口説くために用いた礼節のことなんですけどね」
髪を掻き上げる。どこから吹く風に乗って、その真っ直ぐで真っ黒な髪が、いつもより大きく広がった。
「ルキノはとても嫌味な独裁者みたいなヤツだけど、私の敵に回ったことはないわ。人のことおちょくって遊ぶことはあっても、私が本当に困っている時には、必ず手を差し伸べてくれるのよ!」
『それは過去のことだろう? 人間、自分の利にならないと判断すれば簡単に切り捨てるものだよ』
彼は、告白したユイを振った。そして、親友であった女の子と付き合った。
それは、ユイにとってはとても嫌な事だったけれど。
とても、悲しい事だったけれど。
それでも、ルキノはいつでもユイを助けようとしてくれた。
学園でテロリストに殺されそうになった時も。
デートを尾行していた際、チンピラに襲われた時も。
列車で性犯罪に遭いそうになった時も、迷子になった時も。
涼しい顔をして――時々必死な顔で――いつも手を差し伸ばしてくれるのだ。
だからこそ、ユイは胸を張って言い切る。
「この十年間、誰よりも見てきた私が言うんだから間違いない! ポッと出のオッサンにとやかく言われる筋合いはないわ‼」
そして、ユイは右手を掲げ、パチンと指を鳴らした。
ブライアン氏が赤い炎に包まれる。それだけではなく、戦車ごと、そこにいた軍人ごと、炎上する。立ち昇る煙は、ユイの髪の如く黒い。
断末魔と呼ぶべき悲鳴が響く。
その中で、不鮮明なブライアン氏だけが、何が起こったのかわからないとばかりに困惑していた。
ユイは低い声で言い捨てる。
「魔女に喧嘩を売ったこと、じきに後悔させてやる」
そして、轟音と共に、戦車は爆発。
「おっと」
その爆風に、ユイの身体が簡単に浮いた。
吹き飛ばされそうになった瞬間、背中からルキノが身体ごとユイを押さえようとする。しかし、足に力が入らないのか、ルキノごと飛ばされそうになって。
「一人で気取ってんじゃねェークソ野郎がアアアアアアアア‼」
二人をタカバがガシッと抱え込む。メグもその傍ら、腰を落として半分を受け持っていた。
反射的に止まっていた呼吸を再開する。そして、ユイはいつの間にか閉じていた目を開ける。
ここまでの爆発は、ユイの意としたものではなかった。だけど、エンジン部分に引火したことによる爆破であろうから、ユイがやったということには変わりない。
範囲の大小はあるとはいえ、そこにまた一つ、クレーターが出来上がっていた。ガラクタのような黒く焦げた鉄くずが、その中央に佇んでいる。
その跡を見て、ユイは苦笑した。
――やってること、こいつらと変わらないわね。
結果として、この戦車に乗っていた人を殺した。その骨がどこにあるのか、探すつもりはない。
ユイが小さく息を吐いた時だ。
「ユイ……とりあえず、怪我は?」
耳にかかる甘い声に、ユイは肩をすくめる。振り返ると同時に、ユイはブンブンと首を横に振った。
すると、ルキノはため息混じりに「そっか」と頷いて、
「それなら訊くけど……君は今、何をしたんだ?」
「……何って?」
眉をしかめて問い返すユイに、ルキノは訝しげな顔を返す。
「なんで今、戦車がいきなり炎上した? それ以前に、なんで君は空から降って来たんだ?」
「後者は簡単。ナナシ――先生に、マナ施設の上から蹴り落とされたのよ」
「ふーん……」
ルキノは半眼で頷いて、雨降る元凶の塔を真っ赤な手で指差す。
「蹴り落とされたって、あそこからここまで、かなりの高さと距離があるよね? ここまで飛ばされるくらいに蹴られたのだとしたら、普通死んでいてもおかしくないと思うんだけど?」
問われるユイは、元気に自分の足で立っている。タカバとメグに支えられたままのルキノのほうが、よほど重症である。
――痛いところ突いてくるわね……。
それは、ユイが唇を噛みしめると同時だった。
「テメェはゴチャゴチャうるせェーんだよ!」
タカバが、ルキノの脳天にげんこつを下す。
「助かったんだから、なんでもいいじゃねェーか!」
「タカバ君っ、やりすぎ!」
悲鳴のようにメグがキャーキャー騒ぎつつ、うつ伏せに倒れるルキノを抱える。そして覗き込むように目を閉ざしてしまったルキノの顔を確認しては、まるで自分が悪戯をしたかのように小さく笑った。
「あらら。ルキノ君、気絶しちゃったみたいだよぉ」
「ケッ、ちょーどいいじゃねェーか。一番重症なんだから、とっとと休めってーんだ」
吐き捨てるようにそう言うタカバは、メグからルキノを奪うように抱える。背中と両ひざに腕を通して持ち上げた彼の姿に、メグは再びクスリと笑った。
「さすがルキノ君、お姫様だっこされるのも似合うねぇ」
「どーせなら、写真でも撮っといて後で見せてやるか? オイ、劣等種! いつもの小型通信機持ってねェーのかよ?」
「え? あー……」
急に楽しそうに喋り出す二人に呆気にとられながら、ユイはポケットを探る。いつも持ち歩いている小型通信機がないことに、今更気が付いたのだ。
「あー、盗まれたみたいね。人質に取られたんだから、そりゃそーか……」
「そうだよぉ! ユイ、暴徒たちに人質に取られてたんでしょ? 大した怪我もないみたいで、本当によかったよぉ」
テケテケとやってきては、メグがユイの腕にしがみついてくる。そんなメグが無邪気な顔で首を傾げた。
「ナナシ先生が、助けてくれたの?」
「うん……まぁ、そんな感じね……」
「ルキノ君の弟君は、先生と一緒?」
「そのはずだけど……」
「そっかぁ!」
メグはそれだけで満足そうに笑うと、ユイの腕を引っ張る。
「じゃあじゃあ、早く基地に帰ろう! 長居して残党が出て来ても、もうこれ以上戦えないよぉ?」
「だな。テメェらも大丈夫だろうなァ⁉」
タカバが背後に声を掛けると、ヨレヨレで覇気のないクラスメイトの「おう」という掛け声が聴こえる。幸いにも、ユイと同じ班だった生徒たちで命を落とした者はいないようである。
結果だけ見れば、大勝利だ。
全員がそれなりに負傷しており、自分で歩けない者もルキノを含めて何人かいる。ほとんど全員が病院の世話になることには間違いないだろうが、結果としては、暴徒は鎮圧。謎の軍団に襲われるという危機に陥ってもなお、その撃破に学生だけで成功したのだ。
だけど、ユイはスッキリしなかった。モヤモヤした違和感が煩わしい。
――あれかな……ルキノの質問に、ちゃんと答えられなかったからかな。
メグが追及してこないのは、自分の父や会社が絡んでいるからなのだろうか。
タカバが追及してこないのは、そこまで脳が足りてないからだろうか。
ルキノを抱えたタカバが振り返る。悲惨な惨状、鼻に突き刺さるような言い難い臭いに顔をしかめたと思った瞬間、口から吐瀉物を撒き散らした。
「ちょっ……タカバ⁉」
「うわぁ……ルキノ君モロにかかっちゃったねぇ……」
メグは半笑いを浮かべながら、慌てるユイの手を引いた。「逃げろ、逃げろ!」と楽しそうに走るメグに引っ張られて、転ばないように足を動かすのが精一杯である。
タカバは苦しそうに咳込みながらもルキノを置いたりはせず、恨めしそうな顔を上げた。
「オメェら……よくこんな光景前にして平気だよなァ……」
「女の子は強いんですよぉ!」
メグが振り返りながら、満面の笑みを浮かべていた。
マナの雨が止む。
造り物の曇天の合間から、少しだけ日差しが差し込み、七色の虹がうっすら描かれる。だけど、人造的な違和感に生まれた小さな奇跡を、意に止める者は誰もいなかった。




