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閑話69.5 遠い海

 少し重い瞼に自嘲の笑みを浮かべながら、長老と呼ばれる女、トオミはセイジュウロウがかつて暮らしていた小屋の中にいた。

 主人がいなくなってからも何故かフラリと帰ってくる気がして、定期的に足を運んでいたのだが、今日でそれも終わりにできそうだ。陸から訪れた2人組には感謝してもしきれない。

 昔と同じように、簡素なテーブルの上にはグラスが2つ。


「アンタは酒が好きだったねぇ。『波に揉まれたワインは特に良い』とか言っちゃってさ。あたしにゃあサッパリだったよ」


 そう言いながらも、先日流れ着いたワインをグラスにつぐ。

 トクトク、と開けたてのボトル独特の音が響いた。


「アンタ、文字書けなかったんだって? その癖、インテリぶって本なんか読んでるフリしちゃってさ」


 海には陸から様々な物が流れ着く。

 そんな漂着物の中から目を引いた物を持ち帰るのは、人魚にとってごく当たり前の行動である。用途もわからない物、海水で劣化した物、お構いなしだ。自分が気に入った、それだけが基準である。

 あとは家に飾ったり、宝物のように仕舞い込んだり。気が変わって仲間と物々交換も多々あることだった。

 その中で、セイジュウロウは比較的傷みの少ない本を欲しがったことがあった。

 陸の上でも書物の類いは高価であると聞いたことがある。だからその時は別段気にも留めなかったのだが。


「……もしかしたら、違うのかね。文字の参考にしたかった、とか?」


 セイジュウロウからの手紙は、文字を覚えたての子供が書いたみたいに乱雑だった。ただ妙に上手く書けている字もちらほら目に付く。陸の少女は言っていた、相方の文字は上手いものと下手なものとにかなりバラつきがある、と。

 それはもしかしたら異世界から来た人間の特徴と言えるのかもしれない。元々近しかった文字と、こちらに来てから練習した文字と。

 とはいえ、比較できるのは2人だけ。そのうち一人はもう海に還っているのでこれ以上比べようがない。


「『いちばんのイイオンナへ。しあわせになれよ』なんてさ。口で言えばいいじゃないか、この馬鹿たれが」


 女性の人魚を見れば今日も美人だの、べっぴんだのと誰にでも言う男。勿論例に漏れず自分にも言ってきたが、誰彼構わずのその言葉は完全に空回りしていた。

 だからこそ、あの宝箱の鍵となる女のことが知りたかった。

 自分に関する数字ではないと知ったあの日から、それだけが心残りだった。

 まさか、文化が違うことに気付かずに設定していたとは。いずれ、自分があの世に行ったら、たらふく文句を言ってやらねば気が済まない。


「なんだい、幸せになれって」


 セイジュウロウは、ミサの両親の最期をきちんと見届けていた。人間と人魚は寿命が違う。まして、ミサの父親はごく普通の人間の男で、儚くなるまでは早かった。

 人間が海の底でずっと生きていくのは難しい。人魚には最適な環境でも、人間にとっては色々足りなかったんだ、とセイジュウロウ自身が死ぬ間際に言っていた。


『それでも、陸の煩わしさよりは海の静寂の方がよっぽどいい。イイ女も傍にいてくれたことだしなぁ』


 元は鍛えた冒険者であっても、弱るときは一緒。それでもミサの父親よりはずっと小康状態を保っていたように思う。

 だからこそ、それまでの時間があったんだからさっさと言え、と思ってしまう。

 それは、セイジュウロウにも言いたいが、一番は自分自身にだった。


「あたしも同じくらい楽観的になれたら良かったんだがねぇ」


 人魚にしては慎重派だ、と周囲に言われて渡された長老の座。むしろ、押し付けられたと言っても過言ではない。

 そんな自分が人間と番っては示しがつかない、なんて若かりし頃は考えてしまったのだ。今ならばわかる。ただただ、考えすぎなだけだ、と。

 種族の違いも、寿命の違いも、なんなら立場だってかなぐり捨てて言えば良かったのだ。そうすれば、こんなにも囚われることはなかったはずだ。


「ま、今日で終わりにするけどね」


 トオミの指には、少し古ぼけた指輪が嵌っている。例の宝箱に入っていた小箱の中身が、この指輪だった。

 青く光る宝石が台座に収められている。これは大盗賊セイジュウロウが見つけた宝の中でも最も価値があるとされる『ブルードラゴンの涙』と呼ばれる宝石だ。ドラゴンの咆哮が響くダンジョンの奥深く、極稀に発見されるモノである。

 だが、トオミはその価値を知らない。別に知らなくてもいいと思っているし、なんならこの指輪の価値はソコじゃない。


「暗号みたいな模様だね、アンタの国の文字はさ」


 大振りの宝石が嵌められた台座の裏。そこには漢字でこう綴られていた。


――遠海


『おれのくにのもじにあてはめて、ほってみた。あんたにぴったりのいいなまえだとおもう』


 一緒に入っていた手紙には、下手糞に踊る文字でそう書かれていた。

 台座に彫られたこの文字が、トオミにとっては一番価値があるものだ。


「あの少年に、この文字の意味を聞いてみようかねぇ……けど、ちょいとこっぱずかしい気もするし……。はぁ、へったくそな文字でいいから解説も書いておけばいいものを。あの馬鹿たれ」


 ブチブチと文句を言いながら、ワインを干す。

 喉に流れていったアルコールは、セイジュウロウが好きそうな味だった。


「やらん後悔よりは、やる後悔ってのは身に染みてよぉくわかっちまってる。気は進まないが聞いてみるとするかね。幸い、あの子らはそろそろ別の場所へ旅立つみたいだし、気まずい思いも数日の辛抱ってとこだろ」


 そうして心の葛藤を乗り越えたトオミは、陸の2人組が旅立つ前に彫られた文字の意味を聞く決心を固めた。


『どこまでも遠く続いていく青い海みたいに、懐の広いイイ女だよ、アンタは』


 様々な恵みをもたらしてくれた2人(と2匹)がとうとう陸へ帰る日。

 見送りのため、久方ぶりに波の上に顔を出したトオミは、潮騒に紛れて囁くような彼の声を聞いた。――気がした。

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