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56.海神の溜め息

「ここで驚くのは早いよニンゲンー! こっちこっち!」


 あたりに見とれていると、いつの間にかまたリエルとは距離ができていた。急いでそちらに向かおうとするがどうにも上手くいかない。


「え、待って待って」


 まず、歩こうにもそもそも地面に足が着かない。なんとか地面に着地できても今度は歩くことが困難だ。浮いてしまって上手く踏みしめることができず、不格好に手足をバタバタさせるだけ。


「あーそっか。リエルちょっと待ってくれ。イエナは泳いだことがないんだ」


「えっマジィ!? あーでもそっか。人間って基本歩くもんね……で、なんでカナタは泳げてるのよ」


 イエナが必死にもがいている間も、カナタは手足を器用に使って水中で動けている。勿論陸の上と同じくらいスムーズとはいかないけれど、それでもその場でジタバタしているイエナとは雲泥の差だ。


「義務教育ってのがあってな」


「「ナニソレ?」」


 女子2人の声がキレイにハモる。

 思わず目を見合わせて笑ってしまった。


「まぁ習ってたって感じで。ともかく、すぐに泳ぐのは難しいだろうからゆっくり手を引いてやってくれないか?」


「ハイハイ。アタシのトップスピード味わったらイエナ目ぇまわしちゃいそうだもんね」


「ううう、なんか悔しい」


「いんじゃね? 今度アタシが泳ぎ方教えたげるよ。つってもイエナ、ヒレないからムズイかも?」


 そんな会話がありつつ、イエナはリエルに手を引っ張られて水中を進んでいく。

 想像したこともない海の中の景色は、思わず口が開けっ放しになってしまうくらい物珍しかった。まず、陸と違って視界がユラユラと揺れて一定しない。これはリエルに手を引かれて進んでいるせいだけではないはずだ。

 その揺れる視界の中で、様々な生き物が動いているのが見える。イエナは海の生き物に詳しくないのもあり、どれが普通の魚介類でどれが魔物かサッパリわからない。

 他にも、ユラユラと水に揺られる草のようなものとか、チラチラと瞬くように光っている何か(遠くて見えなかった)だとか。

 見たことがない生物は、とても興味深かった。



(自由に泳げるようになったら見学いきたーい! あ、でも私みたいなのがウロウロしても大丈夫かなぁ。もし魔物に出遭っちゃったら……)


「おーい、初めて見る海の底に見とれてるー? 嬉しいけどね、海の住民としちゃ。とりあえず、アンタたちの泊まるスペースついたよー」


「へ? 泊まる?」


「あれ? 言わなかったっけ? まぁいいや、ここでーっす」


 思いもかけず案内されたのは、イエナたちの身長を優に超えるほどの巨大な空気のドームのような場所だった。光の加減なのか、中の様子は良く見えない。なんだろうとイエナが疑問を口にするより先に、カナタがリエルに問いかけた。


「ここ、もしかして空気があるのか?」


「そそ。『海神の溜め息』って言われるとこで、なんでか空気がそこに留まってるのよね。ここだけじゃなく、いろんなとこにあるよ。アンタたちの場合こういうとこのが安心するでしょ?」


「そりゃ確かに。いくら泳げるって言ってもずっと水中に浮いてるのはちょっとな」


 泳げるカナタでもそう感じるらしい。リエルに頼らないと身動きもままならないイエナは言わずもがなだ。

 だが、泊まる、とは。


「えっと、ここが村?」


「ううん。違う違う。村はあっちの、ちょっと光ってるとこわかる? あの辺から村。明日の朝にババ様こっちくるからそんときに詳しいこと聞いて。アタシも実はよくわかってないんだなーこれが」


「なにそれ?」


「どういうことだ?」


 海の底に2人分の疑問が響く。

 リエルの説明がどうにも要領を得ず、矢継ぎ早に質問を投げかけることに。人魚のしきたりなど、人間の2人には理解しがたい文化の違いもあって、質疑応答は結構難航した。そこからどうにか推察した結果、明日の朝に転生者を見極められる人魚が来てくれるのでここで待機、ということらしい。

 リエルも明日そのババ様なる人物に同行するため、本日は早めに帰って寝るとのことだ。


「じゃ、また明日ねー。おやすみー!」


 ヒラヒラと手を振ってから村の方へ戻るリエルを見送りながら、イエナは思わず呟いた。


「リエルって結構行き当たりバッタリなのかな? それとも人魚全体?」


「う、うーん。ノーコメントで。まぁ、海中に一泊ってのも面白い経験だからいいんじゃないか。それじゃ、中に入ってみようか」


 カナタが上手く言及を避けて、別の話題へもっていく。まぁ、彼の言いたいことはとてもよくわかる。この海の底で、個の気質かはたまた種族の気質かを論じたところで、結論なんてでない。何より、それどころではないのだ。

 いくら呼吸が続くとは言え、いつまでもプカプカ海中に漂っているわけにはいくまい。それはもう人間として。


「……そうね。入りましょうか」


 一夜の宿として指定された『海神の溜め息』とやらに近寄ってみる。

 触れるほど近くまで来ても、やはり中の様子は見えない。なんだか得体が知れないからか、ドームの周囲に魚はとても少なかった。


「この空気の膜みたいなの、触っても破れない、のかな?」


 見た目がまるでシャボン玉のようで、触れるのにちょっと躊躇してしまう。パチンと弾けて折角留まっている空気が逃げ出してしまわないだろうか。


「うーん、あっちではぶつかっても割れなかったんだけど今試すのちょっと怖いよな。たぶん割れないとは思うんだけど……あ、やっぱりあった。イエナ、こっちだ」


 周囲を泳ぎ回って観察していたカナタだったが、何かを見つけたようでイエナを呼ぶ。もたもたと声の方へ行こうともがいていると、サッと伸びてきた腕に肩を抱かれて引き寄せられた。


(ひぇっ……いや、うん、私泳げないし! カナタは人魚じゃなく人間だから密着しないと難しいもんね、そうだね!)


 突然のことに驚いて心拍数が上昇しているイエナをよそに、カナタはドームの方を指さした。


「ここ。水の流れがグルグルしてるのわかる?」


 イキマモリのお陰で息苦しさは全くないのだが、ひとまず大きく深呼吸をする。それから、カナタが示した箇所に目を向けた。確かにその部分だけが激しく泡立っている。


「ほんとだ! ……なんで?」


「それは……なんでだろ? まぁファンタジーだからってことで。多分、ここから出入りできるはず」


 言うが早いかカナタはその部分に近づく。すると、その姿がするりと吸い込まれてしまった。瞬間移動のように、『海神の溜め息』内に入ることができたようだ。


「おおお、すごーい!」


 それまでのいきさつも忘れて、思わず感嘆の声をあげるイエナ。恐らくドームの向こうにカナタがいるのだが、これだけ近づいてもよくわからない。おそらく「おいで」とジェスチャーしているっぽい、くらいの。口も動いているように見えるが聞こえないので、どうやら『海神の溜め息』の中と外では音も伝わりにくいらしい。

 見よう見まねでイエナも回転する出入口に近づく。

 すると、思い切り引き込まれるような感覚がして、ズシッと体が重くなった。


「おっも……あ、そっか。服が濡れてるのか……」


「空気があるところに来るとこの水の重さを実感するな。っていっても、絞らなきゃいけないほどではないみたいだ。あそこの出入り口である程度脱水されてるのかも」


 『海神の溜め息』内は、感覚としては陸上とそこまで変わらないように思えた。歩けるし、普通に呼吸ができる。

 ただ、濡れて張り付く衣服が不快だった。

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