父編
晴れたつ空を小さな影が横切り、影に覆われた幼子の顔がパッと輝いた。
「おばあちゃん! まもりがみ様だ、まもりがみ様だよ!」
「今年は降りて来たんだねぇ、綺麗な竜だよぉ。」
家屋や小麦をサァっと風が撫でていき、村の外れにその姿を下ろした。滑らかな純白の竜鱗は陽の光を受けて煌めき、透き通るような体毛が首周りと背筋に柔らかく揺れている。
柔らかな草花に四脚を下ろし、翼を畳み背筋を逸らす。ぐ、と前脚を伸ばして、上にピンと持ち上げた尾を揺らしながら、後ろの木陰へと振り返った。
『だれ?』
「うわ、なんだ!? ……誰?」
『先に聞いたのはボクだよ、なんでキミが聞くの?』
「もしかして……君?」
不思議そうに首を傾げた竜に対し、驚いた顔を覗かせたのは少年だ。声というには、あまりにも透明で滑らかなその音は、目の前の生き物の発する物だとは思えなかったから。
口を開くこともなく、竜は再び少年に語りかけた。
『ねぇ、もう一度、聞いていい? キミは?』
「え、あ、ごめん。あっちの家に婆ちゃんと住んでて……護神様のこと、見た事無かったから、見に来ようって思って。すっごく綺麗だね。」
『キレイ? それってなに?』
「え? 何って言われても……なんていうか、楽しいとか嬉しいとか、そんな気持ちになるものだよ。」
『ボクが?』
「うん。」
『ふぅん……そうなんだ。それは、いいことだよね。もう少しいっぱいお出かけしようかな。』
背筋を伸ばして座り直し、体長の半分程もある尾でユラユラと花に触れる竜に、少年はキョトンとした後に吹き出した。
『わ、なに?』
「いや、君ってなんだか赤ちゃんみたいだ。護神様っていうもんだから、なんだか賢くて強くてって思ってたから、意外でさ。」
『ふぅん? でも、赤ちゃんの意味は知ってるよ。ボクはまだ200年も生きてない筈だから、そうかもしれないね。』
「200!? ひゃあ……護神様って長生きなんだねぇ。」
『そうかな? そういえば、人ってすぐに居なくなっちゃうね。言葉を覚えるのも、大変だったんだ。観察するにも、すぐに人が変わっちゃうから。』
くぁ、と欠伸をしながら、あまり困ってなさそうな顔で、後脚で首の毛を梳く。空を飛び、草原の中で煌めき、声を用いない会話を行う神聖な姿と、今のような生き物に添った姿。
その二面性に、少年の好奇心が疼く。
「ねぇ、ちょっと触ってもいい?」
『ボクに? 別に構わないけど、怪我はしないようにね。人の鱗は脆いから。』
「肌って言うんだよ、これ。」
『ふぅん、そっか。』
触れれば金属のように滑らかで冷たく、鋭く、穢れを寄せ付けないものがある。
伸縮の関係か、首の下や腹の鱗は少し質感が違い、丸く柔らかいようだ。胸部の下で心音が聞こえ、生き物が生きている、という温かさと重さが、命の質量が手の中にあると実感する。
『キレイ?』
「え?」
『笑ってるから、嬉しいってものなのかなって。』
「ん〜……そうかも。」
『そっか。人が嬉しいのは、ボクも嬉しいな。生き物って可愛くって好きだから。』
くすぐったくなったのか、身を捩って手から逃げるた竜が翼を広げる。飛膜が日を透かして七色に揺れ、羽ばたけば穏やかな風が少年の頬を撫でた。
「行っちゃうの?」
『またすぐ降りてくるよ。ボクは色んな事を知らないと行けないから。竜にとって、知識を得ることは大きな意味があるんだ。』
「それなら、いつか大きくなったら僕から君を迎えに行くよ! 一緒に旅をしよう。きっといっぱい、色んな経験が出来るよ。もう、友達だろう?」
『そう? それなら、楽しみにしているよ。ボクは約束は忘れないんだ、竜だからね。』
心底そう思っているのか、楽しそうに喉を鳴らす竜に、少年は指切りを教える。1人と1頭の小指が絡んだ。
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山の中、グルリと巻いた尾が首に止まる小鳥を優しく払い、寝息が茂みの葉を揺らした。木漏れ日に温度を感じる夢の中で、葉をふむ足音に目を覚ます。
竜が首を上げて視線を寄越せば、そこには二人の人間がいた。
「やぁ、ミルウァ。十七年ぶりだね。」
『ミルウァ?』
「君の名前。君が降りてこなくなってから調べたんだ、竜について。」
『ふぅん? ボクはそんなふうに呼ばれているんだ。』
ゆったりと頷いた竜は、視線を戻してゆっくりと立ち上がる。
『ところで、キミは?』
「ククーヤだよ。君は少し成長したね、前はあの頃の私の腰の高さに肩があったけど、今はこの子の胸と同じくらいに肩がある。」
『あ、思い出した。三つ目の村の少年だ、少し老けたね。その子は?』
「私の息子だよ。村が立ち行かなくなって、なけなしの貯蓄で旅に出て、久しぶりにここへ戻ってきたから、二十年前の約束を果たそうと思ってね。」
少し細過ぎるような男と、小柄な少年。確かに余裕のある生活では無さそうである。そんな中で、たった数刻しか話さなかった者との約束を覚えていてくれたらしい。
『人に約束を守ってもらったのは初めてかも。』
「そうなのか。息子も信じてくれなくて、困ってたんだよ。まさか誰にも信じてもらってなかったなんてね。」
『ごめん。』
「気にしてないよ。息子も緊張しているらしい、少しづつ慣れてくれると嬉しいな。」
ククーヤに背を叩かれ、少年が前に出て礼をする。
「クヴァ、です。」
『ミルウァ……っていうみたい。皆はボクを呼ぶ時、護神様って呼ぶことの方が多いと思うな。よろしくね。』
「ほ、ほんとに。まもりがみ様だ……とうさんと、友だちだって本当だったんだ。」
『ふぅん? そうだねぇ……確かにボクと二回もお話したのは、ククーヤが初めてだよ。一緒に遊んだり、触れたりしたのも。トモダチって言えるかもね。』
眠ってる間に凝り固まった身体を解し、上に積もった土と苔を振り落とす。森の中で、苔に埋もれたようになっていた白亜の大理石が、生きた彫刻としての美しさを取り戻す。
キラキラと目を輝かせている少年に、竜はかがみこんで背を差し出した。
「え?」
『人の子が歩くのが遅いのを、ボクは知ってるからね。乗るといいよ。』
「え、え!?」
『ほら、早く。護神様って言われても、ボクは何もしていないのだもの。世の中の移り変わりを、この世界の記憶を知っていくだけさ。』
「そういえば、なんで護神様って呼ばれてたんだい?」
『さぁ? ボクが生まれた頃にはそうだったから。』
皆が敬い、拝む護神様と、親しげに話す父。歩くにつれて緩く揺れている竜の背中と、暖かい日差し、鳥達の井戸端会議が少年を夢の中へと落としていった……
きたぞ、かわりもののククーヤだ
護神様のことを生き物だなんて変な奴だよ
竜が生き物なんてことあるのかい?
奴は竜と触れ合った事があるらしい
でも腕骨格が四本の脊椎動物なんて見た事ないよ
お前の言うことはよく分からんけど
小さな子を連れているがアイツ嫁さんは居ないだろ
いつまでもフラフラとしてるだけで働きもしない
竜の耳に入る彼の話は、あまりいいものでは無かった。だが何となく、彼は自分を思って声を上げていた事はわかった。
竜は生き物であることに拘りはしないし、世界でたった独つの自分を生き物と言うには、あまりに他のモノと違うと認識している
『ククーヤ、キミは嫌われ者って奴なのかい?』
「うん? ……そういえば耳が良いって言ってたか。街の中の声でも聞こえた?」
『近くなってきたからね。』
「そうか。それなら、クヴァを起こさないと。」
『この子、どうしたの? 人は番と交わらないと増えないって聞いた。』
「生々しいな、表現が……拾ったの、ほら村が立ち行かなくなったって言っただろう? このままじゃ口減らしもありそうだったし、私は幸いにも余裕があったから。」
彼の言う余裕というのが、人の世に出回る金属と紙だというのは理解した。たしか、お金と呼ばれるものだったはずだ。
色んなものと交換できて軽くて小さく、腐ったり劣化したりしない。だから人はこれを手元に持っておいて、必要な時に必要な物と取り替える。
『苦労したんだね。』
「苦労は分かるの?」
『ううん、理解は出来ない。でも、それが苦しいものだって言うのは知ってるし、苦しいならボクも分かるよ。』
「物知りだね。」
『竜だからね。』
再び無言になった頃。モゾモゾと動き出した少年が、父を向いて下を見て、慌てたように居住まいを正した。慣れるまでは少し先だな、と苦笑する父に、少年は声をかける。
「おはよう、父さん。」
「あぁ、おはよう。」
『おはよう、少年。滑ると危ないから、翼の付け根を掴んでおいて。ククーヤみたいに角を掴まないでよ、引っ張られると首が痛いんだ。』
「おい、人の失敗をいつまで覚えてるんだよ!?」
『ずっとかな、ボクは竜だからね。』
当然でしょ、というように前を見続けている竜へ、少年がおずおずと問いかける。
「えっと……護神様。なんで竜だと失敗を覚えてるの?」
『呼び方は好きにしていいよ? ククーヤなんて、たまにボクを呼ぶ時はシロって呼んでたし。』
「だってキミ、白いだろ? これからはミルウァって呼ぶよ……発音しにくいからミルでいい?」
『なんでもいいよ? 君にならどう呼ばれても悪くない。』
折りたたんだ翼で、グイグイと肩を押して戯れる竜が、思い出したように少年へと振り向いた。
『なんで覚えてるか、だったね。竜は智恵と記憶の存在なんだ。過去や歴史を少しずつ蓄えていって、夢に見ることで成長する。だから、ボクの経験も見聞もボクそのものだからね、人みたいに見失ったり無くしたりしないんだよ。』
「忘れられないの? 嫌なことも?」
『嫌な事は、ボクらに色んな事を教えてくれる。大事な経験だよ?』
食い違いを感じた父が、すぐに少年へと向き直って説明する。
「クヴァ、竜はキズを負ったりしないんだ。身体にも、心にも。傷というものを知ってはいるけど、それを体感することは無い。だから、悲しみも苦しみも、クヴァみたいに長く尾を引くことは無い。」
『……もしかして、少年はボクを心配してくれたのかい? 優しいんだね。』
遅れて気付いた竜が、少年に礼を言えば彼は照れてしまったのか顔を伏せる。にこやかにしながら森を抜け出せば、麓にある草原が眼前に広がる。
この近くに村があったはずだ、と相棒を振り返る竜に、彼が頷きを返す。まだ残ってるみたいだ。
『そういえば、ボクって街に降りると騒ぎになるんだけどさ。キミと旅に出て平気かな?』
「私の言及で竜について研究も始まってる。文献を引っ張り出したり、精巧に描き移されたスケッチを集めたりして、だけど。だから、昔ほどじゃないよ。」
『ふぅん。世代交代の早い生き物って、やっぱり変化や進化が早いんだね。今が始まりになるっていうか、変化に近づいた形で始まるというか……』
「専門用語で言うと、適応って言うらしいね。」
『適応、か。短い言葉で伝わるのは、楽チンでいいね。』
「覚える手間が、人にはあるけどね。」
村に歩くあいだ、そんな会話をずっと続けている。入れない少年が、その様子をぼんやりと聴きながら進み続けた。足元を揺れる花々に、流れる雲。穏やかな天気だ。
「ねぇ、父さん。」
「どうした?」
「二十年前の約束って、なんだったの?」
「あぁ、それか。」
『ボクが竜は知ることが大事って教えたら、それなら旅をしよう、迎えに行くからって言ってくれたのさ。』
「うん、まぁ、そういうこと。私も探し物があるから、旅をするには良い人選さ。」
『それは初めて聞いた。何を見つけるの?』
「見つかったら教えるよ。」
『ふぅん、そっか。』
少年も気になる事ではあったが、竜が素直に引いたのに自分が首を突っ込むのは違う気がした。一緒に探せたら役に立てるのに、と思いつつもそれを父が望まないのだろう、とも。
そのまま、のんびりという空気があまりに相応しく、時々取り留めのない雑談や雑学が飛び交いながら、村の見える位置まできた。竜の記憶にあった頃とは、明らかに違った村。具体的にいうと、人が減り、地面が割れ、建物がボロい。
『いつの間に?』
「徐々に、かな。」
『そっかぁ。』
少年か竜から降りて、村の中を二人と一頭が歩いていれば、ふと顔を上げた村人が驚いた顔で固まった。
「ま、まも、護神様だぁ!」
その声を皮切りに、ワラワラと集まってくる人々に、あっという間に取り囲まれてしまう。
畏敬と畏怖の感情が、遠巻きにはさせているものの。それはそのまま進むのは難しい勢いだった。
「ククーヤ、お前は何年も帰らねぇで!」
「おい! あのクー坊がガキ拵えてやがる!」
「待て、そりゃどーゆー意味だよ、おやっさん。」
「護神様じゃぁ……十八年ぶりの御周回じゃぁ……」
『あの、拝まないで……?』
「ねーねー、お名前は? 一緒にあそぼ!」
「な、名前? クヴァ……わぁ!」
騒がしさから走って逃げ出し、村の外れの父の家へと飛び込んだ。一息着いたかれが、担ぎあげていた少年を下ろし、ボロボロの家屋でコップを漁る。
「水は?」
「はい!」『ボクも〜!』
少し割れたコップを軽く洗い、水を組んで飲み干す。
『小川の方が美味しいね。』
「ド田舎だし廃油とかは流れてないだろうけど、微生物とかでも人間には毒だったりするからね?」
『でも、ここの人は変わらないねぇ。好奇心旺盛だ。』
「娯楽が少ないからかな、目新しい物が好きなんだよ。まぁでも、キミが滅多に降りてこないのもあるんじゃないかな?」
『十年くらい寝てただけなのに……』
「十七年と三ヶ月、ね。」
積もった埃を雑に払い、ゴロリと寝転んだ父に、真似して少年も転がった。
何か面白いのだろうか、と竜も真似した時には、父の我慢が決壊していた。押し殺したようにクツクツと笑う男に、一人と一頭はキョトンとして顔を見合わせる。
「そうして見ると、兄弟みたいだね。」
『それで笑ってたの? キョウダイって面白い?』
「面白いの?」
『え、分かんない。ククーヤが笑ってたからそうかなって。』
「そっかぁ。」
『うん。』
「こんなとこ見れば、君を神様だとかでシンボルにしてわちゃわちゃやるのも減るんだろうけどねぇ……」
『……なんかあった?』
「いや。別に。」
『ふぅん。』
それ以上の追求もなく、竜は土間でその身体を丸くする。これでは、今日は誰も出入り出来ないな、と男性も潰れきった布団を引っ張り出してきた。
モゾモゾとそれに潜り込んできた少年と、二人並んで寝る男性が顔を横へ向ける。寝息を立てる相棒が、明日の朝にちゃんと起きるのを願って、目を閉じた。
朝日が照らすより前に、ゴトゴトと音がして二人と一頭は目を覚ます。
何事かと家の中を見渡した皆の視線が、扉で止まる。
「何方です?」
「アタシよ、クー。アンタ、帰ってきたのに挨拶も無し?」
「あ、キミか。待ってね、ミルの翼が扉を抑えちゃってるんだ。」
「ミルって何よ。」
『クーって呼ばれてるんだ、可愛いね。』
「君からしたら人間は皆、可愛いだろ?」
ガタガタと、少し歪んだ扉を譲りながら開けると、驚いた顔の女性が立っていた。手に持っているのは、水桶と雑巾。どうやら、この家が人が入れる程度に保たれていたのは、彼女努力らしい。
「あ、あ、アンタ……もしかしてミルって護神様!?」
「え? 言ってなかったっけ?」
「いや、手紙に名前が分かったんだ〜とか呑気に書いてたけど!! 護神様と友達なんて、信じた瞬間一度も無かったわよ! 友達の一人も作れないで森に逃げてる言い訳だと思って!」
「え、酷くない?」
『ねぇ、ボクもクーって呼んで良いかい?』
「ミルぅ、多分それどころじゃない。」
タコ殴りにされている父を見て、竜を諌める少年の声に、女性がハッと顔を上げる。
「……え、子供?」
「あ、言ってなかったっけ? 息子のク」
「聞ーてませんけどぉ!?」
「痛い、死ぬ、締まってる……」
『……元気だねぇ。』
首を捕まえてガクガクと揺さぶっている女性が落ち着くまでに、少年が床をビショビショにして、竜が屋根裏に住んでいたネズミを数え終える程かかった。
情報の整理が終わったらしい女性が、ぐったりとした男性を前にして床の水を拭き取りながら、視線で説明を促せば彼は頷いた。
「ミルのことは子供の頃に話したよね。昨日迎えに行ったら、ちょうど起きる頃だったみたいで動いてくれたんだ。」
『もしかして、寝てる時に来てくれた? ごめんね、夢を見てないと成長出来ないものだから、キミといっぱい話して知ったこと、早くボクの物にしたくて。』
「今朝は起きてくれてホッとした。」
『竜は寝る時間を選べるから。あの時は全部見るまで、今朝は一晩だけ。』
話が逸れたことを、父の脛をつねって知らせる女性に、少年がそっと話しかける。
「えっと、クヴァです。お姉さんは、父さんのお友達?」
「あら、しっかり者で可愛い子ね。クーと大違い。私はね、彼と同じ年に産まれたの。フラフラしててポワポワしてるコレの目付け役だったわ。」
『それはトモダチとは違うの?』
「え、っと……遊んだり仲良くしたりって事は、無かったのです。彼の安全を気にしたり、ちゃんとするように説得したり、という仲でございました。」
『ふぅん、そっか? ククーヤは愛されてたんだねぇ。』
「危なっかしかっただけだよ。彼女、世話焼きというかお節介というか……面倒見が良いからさ。」
「本人の前で言う?」
睨みつけてくる視線から逃げるように、少年を膝に持って来て父は過去を思い出しながら話す。
「クヴァは五年くらい前から一緒に旅をしていてね……ほら、東の方に寒くなると葉が赤くなる木々のある国があるだろ?」
「あぁ……そういう事。アンタのお人好しも変わんないのね。」
パタパタと膝の埃を落とし、空になった桶を手に取った彼女に、男性は小走りに土間へ降りて扉を開けた。
「気が利くようになったのね。」
「少しはね。」
「また、行くの?」
「うん。今日荷物を揃えて、すぐに。家、ありがとうね。なんだったら、好きに使ってもらっていいから。」
「突然帰ってくる家主がいるのに? ま、物置くらいにはしてるかも。子供たちが大きくなって、旦那の荷物が肩身、狭いから。」
「はは、床が抜けないといいけど。」
外へ出た女性が、振り返って深く頭を下げる。少年が竜を見上げ、竜はキョトンとした。
「それでは、護神様。失礼致しました。」
『何も失礼なことはされて無いよ?』
「ミル、これはさよならって挨拶みたいなものだよ。」
『ふぅん、変わった言い回しだね。キミがよく言っていた、またねって方がポカポカしてボクは好きだな。』
「君、けっこう天然なところあるよなぁ。」
『竜だからね。』
「自然の物って意味じゃないよ?」
『そうなの?』
長い首をユラユラとふり、うんうんと唸って考え込む竜を見ていれば、自然に笑いが込み上げてくる。
「ふふふ、クーと気が合う訳だわ。」
「それ、どーいう意味さ。」
「自分で考えたら?」
ご飯の支度があるから、と小走りに帰っていく女性を、長いこと見送っている相棒の肩にズシリと重みがかかる。
『好きなの?』
「ん〜……分からない。でも、なんか安心してさ。」
『ふぅん。人の事でもキミが知らない事はあるんだね。』
「山ほどね。君には、好きが分かる?」
『ククーヤのことは好き。』
「はは、ありがと。」
サラサラで軽い鬣を梳いていると、父の手にも重みがぶら下がった。
「僕も父さんのこと、好き。」
「うん、ありがとな。父さんもお前の事、大好きだ。」
ワシャワシャと頭を撫でくり回し、悲鳴を上げて駆け回る少年を少しの間追いかける。チラと目配せをして竜と交代すると、家に入っていった。
追いかけっこにつかれ、竜の尻尾を撫でていると、不意に竜が顔を上げた。高く伸ばした首も含めれば、その頭は父より高い位置にあることを、初めて知った。
『……来る。』
「なにが? どうしたの?」
『家の中……だと心許ないかな。えっと、こういう時は……ダメだ、人の事は分からないや。』
畳んだ翼をグッと伸ばし、家の扉を破壊する勢いで叩く。驚いた相棒が顔を出し、竜の事を見つめた。
「どうした?」
『来る。』
「なにが。」
『大きくて激しいの。グルグルでビュービューでザバザバのやつ。人がなんて呼ぶのか知らない。』
「ん? ……嵐か!?」
空を見上げれば、雲ひとつない晴天。しかし、鳥の一羽、虫の一匹も飛んでいない。
「どっちから?」
『あっち。多分、太陽が真上に来る頃にはここに来るよ。』
「あと四時間くらいか……? 避難するには余裕はあるか。ミル、あの山の中腹に神社があっただろ? あの裏の洞穴が避難場所だ。少しなら備蓄もある。」
『なら、そこへ行こうか。人はそうするんでしょ?』
家の中に纏めていたらしいカバンを息子と竜に預け、しゃがみこんで視線を合わせる。
「いいか、クヴァ。今から父さん、皆に知らせてくる。だから父さんの大事なもの、全部ここに詰め込んだから。クヴァはこれを守っててくれる?」
「父さんは?」
「遠くまで走ってくる。だから、荷物は重たいんだ。クヴァにしか頼めないことだよ、お願いできるかな?」
「分かった。」
「ありがとう。」
息子を強く抱き締めた父が立ち上がり、相棒の視線とぶつかる。
「君が首を掲げると、いつも僕と同じ位置に頭が来るな。」
『キミが大きくなったからね。ねぇ、あの頃のようにボクに乗っていくかい? キミよりうんと速いよ。』
「ミルにはクヴァを頼みたいんだ。他の何より、君が信頼できるから。」
『竜だからね。』
「ミルだから、だよ。私の一番の友よ。」
『ふぅん? ……待ってるから、早く帰ってきなよ。約束だ。』
「約束は嫌いだったんじゃないの?」
『キミは約束を破らないって覚えたから。』
「光栄だね。」
にこやかに笑った男性は、しかし約束の返事はしなかった。
『それじゃ、キミの大事なもの、預かっておくね。』
「うん、頼んだ。クヴァ、ミル、君達の事大好きだ。」
「僕も!」
『ボクもだよ。これまでもこれからもいつまでも、キミはボクの相棒だ。』
満足そうに笑った父は、村の中へと駆けていく。きっとその後、進路上の生活圏の全てを回るつもりなのだろう。
「ミル、神社ってどっち?」
『あっち。少し前にククーヤと葉っぱ拾いしたばかりだから、あんまり変わってないと思うよ。』
「ねぇ、それ何年前?」
『えぇっと……十八年だったかな。』
「そっかぁ。」
『そうだねぇ。』
朽ちた神社は洞穴の入口を塞いでおり、崖の上にある裂け目からその身を滑り込ませて中へと入った。後から来た村民達も、竜に引かれて次々と中へ避難する。
「クーが嵐が来るかもしれないと言っていたのですが、本当ですか?」
『うん、音が聞こえたし、空気の重さも流れも変わった。間違いなく来ると思うよ。』
「そうですか……ところでクーは?」
『みんなに知らせてくるって。一緒じゃないの? キミの家は、外れの方だったと思うんだけど。』
「まさか……山の方に行ったんじゃ。」
彼女が振り向いた方角は、嵐が来る方向とは真逆。そちらの山村へ手伝いにいったのなら、ここへ避難するのは嵐の中へ突っ込む事になるだろう。
「父さん、帰ってこないの?」
『……きっと、向こうで避難するよ。だってククーヤはとっても賢くて、なんでも知ってるんだもの。』
「僕、迎えに」
『ダメだよ、キミはそれを任されたんだから、ちゃんと守らないと。ククーヤは約束を守る、だからボク達もククーヤとの約束を守らないと。』
竜だって、少しは人の事が分かる。重い荷物を守ってくれと少年に預けたのは、「そこを動くな」という遠回しなお願いだ。それを守らせるのが、竜の役目である。
今になって会いに来たのも、きっと彼を頼みたかったから。彼の約束は何時だって良かったのに、子供を連れて竜の眠るこの山まで出向くのは大変だったに違いない。
(これくらいは分かるようになったよ、相棒。でもキミが何を考えてるのか、そこまではいまいち分からない。ねぇ、もっと教えてくれるんでしょ……?)
竜の耳には、荒れる風と上空へ巻き上げられる様々な物の音が聞こえていた。人が生身で外に出ていれば、数を数えている間も無さそうだ。
「ねぇ……あれ、嵐っていうより……」
塞いでいる社の残骸の隙間から外を見ていた一人が、唖然とした声を出す。ガヤガヤと集まって覗きに来た人々が、慌て始めた。
視界に飛び込んできたのは、激しい風雨などではなかった。雨雲を伴って進行してきたのは、地上の土や木々を根こそぎ遥か上空へと巻き上げる、巨大な旋風。
「おい、ここも不味いんじゃないのか?」
「入口とか塞いどかないと!」
「バカ、どうやって出るんだよ。」
「ミルぅ……」
『うん、何か飛び込んでくる可能性は高いかな。ここで待ってて、崖の岩を少しだけ貰って来るよ。』
そう言って上の裂け目から竜が飛んでいくと、少しして大きな音と共に揺れが洞穴を襲う。
不安と恐怖から慌ただしくなるそこで、少年は荷物を踏まれないようにしっかりと抱え込み、壁に身を寄せていた。
何度と音が響いたか、人の耳にも風の音が聞こえる頃に、上から大きな落石があった。社を潰しながら入口を塞いだその岩は、ちょっとやそっとでは動かないだろう。
「あぁ、護神様の御社が……」
『ただいま。あれ? なんで皆は泣いてるの?』
「ミルが大きな音だして、ミルのお家潰しちゃったから。」
『え? ボクのお家? 特に決まった所は無いけど……』
そういう意味じゃない。だが、信仰を持たない竜には難しい話だった。偶像や仮想という想像は、非常に難解で一から習得するのは困難なのだ。
『とりあえず、この中に入れば潰れたり飛ばされたりは無いと思うよ。この洞穴が崩れなかったら、だけど……』
「怖いこと言わないでよ。」
『大丈夫だよ、崩れても山くらいどかせば良いんだ。』
「ミル、人は山をどかせないし、潰れたら死んじゃうよ?」
『……それもそっか。困ったね?』
崩れないことを祈りながら、外の轟音から耳を塞ぐ。何度も何度も地面が揺れ、土埃と雨粒が顔を打った。
細い隙間から潜り込んでくる風は強く、洞穴の中で出口を求めて荒れ狂う。軽い体重の子供等は飛ぶ事もあり、親や兄弟が必死に抱きとめる。少年も、竜の下に潜り込んでいた。
『みんな、口を開けちゃダメだよ。呼吸は布越にするんだ、服とかでいいからね。目を閉じていて、危なくなったらボクが拾うから、大事なものを離さない事だけ考えるんだ。』
ミル、拾うじゃなくて救うだよ
少年の声にならない指摘が届くはずもなく、竜の音では無い声だけが皆の脳裏に言葉として届く。凛とした、水の流れるような、鈴を転がすような、そんな音を連想させる声。
『人の事、みぃんなククーヤが教えてくれたからね。ボクに任せて。』
少し不安になった人々の気持ちが杞憂だと分かるのは、そこから一時間程度して、風の音が耳障りだと表現できる程度に落ち着いてからだった。
口々に礼を言い、引き止めてくる人々に押され、三日ほどご馳走に宴会にと竜は引っ張りだこだった。美味しいもの、愉快な踊り、楽しい音楽、竜の心を賑やかせるものだった。
しかし、誰一人として村を跨ぐものはいなかった。四日目の朝、黙って促す少年に連れられ、竜は村を後にして旅に出た。




