13:少年の決意
三人称。
「姉ちゃん、姉ちゃん!しっかりして!」
崩折れるように倒れた姉に、アレクが駆け寄った。揺さぶろうとした友の手を、ラスは止める。
「怪我をしているから、揺すらない方がいいです。ゆっくり横に寝かせてあげましょう」
二人で力を合わせて、ゼニスを横たえる。ぼろぼろになってしまった毛布を持ってきて、胴にかけた。
ラスは彼女の腕を見る。きつく縛った血止めが功を奏して、出血はゆるやかになっている。
応急措置のやり方は、今回の旅の途中でドルシスから教わった。正しいやり方が出来たはずだと、ラスは思う。
「これからどうしよう……」
傷ついていない方の姉の手を握って、アレクが呟くように言った。
彼は地下に落ちてからずっと、明るい態度で皆を励ましてくれた。それなりに無理をしていたと、ラスは知っている。
大きな危機を乗り越え、頼りにしていたゼニスが倒れてしまったことで、張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。
――今度は、僕が頑張らないと。
ラスは決心する。今までずっと、ゼニスとアレクに甘えてばかりいた。自分の無力さを痛感していた。
だから今からでも力を尽くして、少しでも生還の可能性を上げたい。
「出口を探しに行きましょう」
彼は言った。
「狼がいたのだから、どこかに出入り口があるはずです」
「そっか、そうだよな!今ならまだ明るいから、探しやすそうだ!」
辺りは先程の魔力の光が残っていて、歩くのに不自由はない程度に明るい。
話し合った結果、ゼニスはここに寝かせておいて二人で探しに行くことになった。血止めは時々ゆるめて血を流してやる必要があるので、都度戻ろうと方針が決まる。
出発前に一度、ゼニスの血止めをゆるめて縛り直した。布を取ると予想以上に出血があり、ラスもアレクも心が潰れそうになる。
「ゼニス姉さま、行ってきます。僕たち、きっと出口を見つけてきますから」
その旨を紙に書き残し枕元に置いて、二人はその場を離れた。
二人は広い岩場を歩き、狼がやって来たと思われる方向へ向かう。そちらはだんだん岩壁が狭まって、まるで瓶の首のような形をしていた。
やがて行き止まりまでやって来るが、出入り口らしきものはない。
魔力石の鉱脈はこの辺りにも露出していて、明かりは十分だったが、同じような岩壁が連なっているばかりだった。
「困ったな……。見つからないぞ」
アレクが焦ったように言った。彼は目がいいし感覚も鋭いが、それでも何も発見できずにいる。
「……聖典第二十三書、イザクの書。二章十九節、暗闇の洞窟……」
「え?何だって?」
小さく呟かれたラスの言葉をアレクが問うが、答えはない。
「シャダイの民はカナンの地を追われ、苦難の旅が始まった。ある時豪雨に見舞われて、洞窟で雨宿りをした。すると土砂崩れが起き、民と預言者イザクは暗闇の中に閉じ込められてしまった。
闇に怯え、食べるものもなく、苦しい息のもとで息絶えるのを待つばかりだった時、イザクに神が語りかけた。
聖別されたろうそくに、聖なる炎を灯しなさい。私の息吹によって、お前たちの進むべき道が示されるだろう――」
ラスが唱えたのは、シャダイ教の聖典の一節だ。エルシャダイ国を建てる前、シャダイ民族が各地を放浪していた頃の記録である。
彼はリュックからろうそくと火打ち石を取り出し、火をつけた。
「なんでろうそく?じゅうぶん明るいだろ」
「いいえ、明かりのためではありません」
ラスはろうそく台を掲げた。ゆっくりと岩壁に沿って動かしていく。
するとある一点で、ろうそくの炎が不自然に揺れた。そこを中心にろうそくを動かしてみると、どうやら上の方から風が吹いてくる。
よく目を凝らせば、彼らの頭よりも一段高い位置に岩がせり出していて、その陰から風が流れていた。
似たような凹凸はいくつもあるため、見た目には分からなかった。
「出口はあそこですね」
「やったな、ラス!」
アレクがばんばんとラスの肩を叩いたので、ろうそくを取り落としそうになって、彼は苦笑した。
「登ってみよう。どっちが先に行く?」
「アレクが行って下さい。僕は残って、ゼニス姉さまの手当てを続けます」
「ああ、頼む。そういうの俺、下手だから」
ろうそくやロープを詰めたリュックを受け取り、ラスの肩を足場にして、アレクは岩棚によじ登った。
「様子はどうですか?」
「横穴がある。周りに狼の毛もこびりついてる!間違いなさそうだ」
岩棚から顔を出して、アレクが答えた。
「行ってくるよ。必ず助けを呼んでくるから、姉ちゃんを頼む」
「任せて下さい。アレクも気をつけて」
アレクはうなずいて、横穴に入っていった。
出口へ向かった友を見送って、ラスはゼニスのもとに戻った。
彼女はまだ目覚めない。魔力石の白い光に照らされた顔色が、死人のそれのようでラスはぞっとした。
彼は一度だけ死者を間近に見たことがある。ユピテルに来る前のごく幼い頃、祖父の葬儀でだ。
厳格なシャダイ教信者で国王だった祖父とは、あまり接点がなかった。それでも生前は、皺深い顔に厳しい威厳を備えた人だったはずなのに、棺に納められた老人の顔は白く、作り物のようで気味が悪かった。
大人たちは神の楽園に召されたと言っていたが、幼いラスにはとてもそうは思えなかった。
ラスは心配になってゼニスの枕元にひざまずき、そっと指で頬を触れた。……温かい。思わず安堵の息を吐いた。
ゼニスを起こすべきかどうか、考える。意識を取り戻せば、治癒の魔法を彼女自身にかけてもらえる。
でも倒れる前の彼女は、相当に消耗した様子だった。初歩魔法の火矢を使うのも苦労していた。今起こしても、魔法を使う余力はないかもしれない。
それでも、と思い直してラスは彼女の肩をそっと触った。すぐには無理でも、休んでいれば魔力が回復してくるのではと期待を抱いて。
「姉さま、ゼニス姉さま。起きて下さい」
二度、三度と呼びかけても、反応がない。傷が心配で強く揺さぶることもできない。
彼は諦めて、ゼニスのそばで祈りを捧げることにした。
口に馴染んだ祈祷句を唱えていると、少しずつ心が落ち着いてくる。
ラスが師事しているヨハネは、こう言っていた。「信仰とは神頼みをすることではなく、自らの内面に揺るぎない柱を持つこと」と。
大事な人の危機を目の前にして揺るがないほど、ラスの柱はまだ強くない。
時折、血止めの布をゆるめて縛り直しながら、彼は祈り続ける。だんだんと魔力の余波が消えて、暗くなってゆく空間で。
「ゼニス姉さま……」
薄暗く、何もかもが影に沈むように曖昧になっている中で、ラスは思う。
ゼニスは不思議な人だ。
初めて出会ったのは彼女が8歳、彼が5歳の時。あの時、ゼニスは呼吸の病で苦しんでいたラスを助けてくれた。
当時はあまり疑問に思わなかったが、あの時のゼニスの年齢を抜いた今なら分かる。とても8歳のできることではない。
その後も同じだ。彼女が9歳で氷の商売を始める時、大人たちを相手に一歩も引かずに冷蔵の有用性を訴えた。
同席していたラスは、その話の半分も理解できなかったけれど。現状を見れば、彼女が正しかったのが分かる。
だからずっと、ゼニスはラスにとって手の届かない人、憧れのお姉さんだった。
その気持ちが少し変わったのは、彼女の里帰りに付いていった時のこと。
たまたま夜に姿を見かけて後を追えば、彼女は犬のお墓の前で泣いていた。いつもの力強い姿と打って変わって、弱々しい様子に驚いた。それで初めて、昼間の態度が無理をしていたのだと気づいた。
同時に思った。今までのゼニスのきらびやかな経歴も、こうやって苦しさや大変さを表に出さずに掴み取った結果なのではないか、と。
ラスが犬の冥福を祈ると、ゼニスは喜んでくれた。だから彼は、なるべく彼女の助けになろうと決意した。
(それなのに、この有様……)
彼は相変わらず無力な子供。
ゼニスは自身が傷つくのを恐れず守ってくれた。彼は守ってもらっただけだった。
子供だからなどと言い訳は通したくない。彼女だって、子供の頃からやり遂げていたではないか。
三歳の年の差は、昔よりは大きくないと感じる。だから彼女に追いついて、守られるだけでなく、守ってあげたい。
「姉さま、いいえ、ゼニス。アレクと一緒に、無事に家に帰りましょう。僕、もっと頑張ります。早く大人になって強くなりますから。その時は……」
その先の言葉を、今の彼はまだ持っていない。
芽吹いた心が育つ時間があるようにと無意識で願いながら、彼は祈り続けた。





