05:儀式
儀式の日がやって来た。
私たちは魔王様から借り受けた伝統の花婿と花嫁の衣装に身を包んで、お城の一番奥へと向かう。
衣装はともに赤を基調とした、華やかなものだった。たっぷりとした布地に細かな刺繍がびっしりと施されている。
グレンの刺繍は銀色と黒。私のは金色と白だ。
きらびやかな装いは、私は衣装負けしちゃいそうだったけど、グレンは堂々と着こなしていた。すらっと背が高くて、細身なのに男性らしいバランスで整っている。赤の衣装の中で真紅の両目が一番深い色彩で、思わずうっとり眺めてしまった。
彼は着飾った私をとてもきれいだよ、と褒めてくれた。お世辞だとは思わないけれど、美人度ではグレンの方が上だね。
付き人役のシャンファさんに薄紅のヴェールをかぶせてもらって、ちょっとほっとしてしまったもの。
魔王様の先導で、新月の闇の中をしずしずと歩いた。回廊のところどころに灯された淡い光が、ちらちら揺れている。
私の視界はヴェール越しなので、何もかもが薄赤く見える。
元からあまり人のいないお城だけど、今日は特に静まり返っていて現実感が薄い。歩く度にさらさらと鳴る衣擦れの音も、長いスカートの中で小さく響く靴の音も、どこか遠く感じられた。
長い廊下を進んで、いつもは閉ざされている大きな扉を開けた。
付き人をしてくれていたシャンファさんとカイが立ち止まり、魔王様とグレンと私の3人だけで中に入る。背後で扉が閉じる音がした。
小さな広間の先にまた扉があった。魔王様が前に立つと、それはひとりでに開いた。
その先は、広大な空間だった。
お城の内部のはずなのに、まるで別の場所に出たかのような印象を受ける。
ドーム状の空と見まがうばかりの天井に、円形の広い広い床。
黒光りする石造りの壁と床には、赤と銀で魔法文字が刻まれていた。
どこか既視感がある。そうだ、境界の内部に似ている。あれとは比べ物にならないほどの広さだけれども。
そして、中央には巨大な石碑があった。グレンのお屋敷の裏にあった結界とよく似ているものの、一抱え程度の大きさだったあちらに対し、私の背丈の2倍以上あると思う。
「魔王が魔界の王たる由縁は――」
石碑の前に立ち、魔王様が言う。詠うように。
「世界の基点たるこの結界に魔力を注ぎ、天とを繋ぐ役割を果たす、唯一の存在であるゆえ」
彼女の言葉に反応して、石碑が光を孕む。東の結界と酷似した、けれど遥かに力強い魔力が辺りに満ちて行く――
ふと気づいて息を呑んだ。
魔王様の腕、顔、そして恐らくは服に隠れて見えない部分にも、魔力の光に満ちた紋様のようなものが浮かび上がっている。彩雲を思わせる淡い虹色が絶えず輝いている。
肉体を隈なく覆う神経網のような、魔力回路。その流れに沿って魔力の粒子が踊るように煌めき、流動する刻印となって彼女を内側から照らしている。
ゆっくりと振り向いた両の目の奥には、やはり光。発光した真紅が星の瞬きを、星座めいた軌跡を描いている。
「2人とも、こちらへ」
声がもう普段の彼女のものではない。星空の彼方から降り注ぐような、空気を揺らす魔力そのものだ。
圧倒されて足がすくんでしまった私の手を、グレンが取った。触れ合った部分から伝わる体温に、心が少しだけ落ち着いた。
ヴェールの向こうの彼が微笑んで、一緒に一歩ずつ、中央へと向かう。
『新たな縁に天雷の祝福を』
古い言葉で紡がれた祝詞に、円の空間が震えた。魔力が波のように広がって、床を壁を覆い、埋め尽くして、石碑から天へと向かって迸る。
東の境界と同じなのであれば、恐らく次に天界からの魔力が降りてくるのだろう。
それはまるで、天と地を繋ぐ、糸。
――不意に、人界から魔界へと転移した時の光景が幻視された。
光輝くばかりの天空と、沈みゆく黒い大地。天地をかろうじて繋ぐ細い糸たち。
そうだ間違いない、あの時に見た糸がこれだ。何本かの中で一番太く、それでももう力を失って、虚しい願いを放つだけのもの。
あの時よりもさらに鮮明に、それらのヴィジョンが脳裏に投影された。ここはきっと、天に近いんだ。
無意識にそちらに踏み出した。
空間に満ちた魔力が、さざ波のごとく揺れる。魔力回路を通して流れ込むように、流し込まれるように揺らめいて、視界が明滅した。
くらくらと脳が陶酔する。光の中で思考が溶け出す。
体が、意識が浮遊する錯覚――いいや、実感。
糸で細く繋がった先、天に満ちる光が呼んでいた。強く引かれていた。
私を……この魔界に不釣り合いな弱い魔力しか持たない存在を、引き寄せようと呼びかけてくる。
本来、神界は死んだ者たちの魔力が還る場所だと、前に教えてもらった。肉体が死ねば魔力が分離して、神界へと昇っていくのだと。
人界の物理法則、大地に引かれる力を重力と呼ぶならば。
魔力同士が引き合い、強いものが弱いものを飲み込むこの力は、何と呼べばいいのか。
弱々しく不安定な魔力であれば、引く力は強く働いて、とても逃れられない。強靭な魔族とは違う、人間のか細い魔力ではとても抗えない。たとえ生きたままでも、引かれて昇って行ってしまう。
もう一歩、踏み出した。
光はいよいよ強く輝いて、私の意識を溶かしていく。
魔力回路が強く励起。反比例して、肉体の活動レベルは低下。魔力が全身を巡り巡って、肉体の機能を奪っていった。
心臓が凍りついて動きを止める。血液の代わりに魔力が流れる。私という存在が消えて置き換わって行く。
「ゼニス?」
呼ばれて少しだけ引き止められた。腕のあたりを掴まれた感触がする。でも、弱い。上昇――あるいは引力――を留めるほどではなかった。
両手を光に伸ばす。振り仰いだためにヴェールが落ちた。
遮るものがない視界に広がるのは、一面の……光。
魔力回路が煌めいて、肉体を透き通らせた。体が魔力に変換されて、実体がなくなる。掴まれていた感触がほどけるように消えた。
――ああ、浮かび上がる。
「ゼニス、ゼニス、待ってくれ! どこに行くつもりだ!!」
雑音がうるさい。上昇を邪魔されて不快なのに、私の一部が何かを叫んでいる。あの声を聞いて、もう一度手を取って地に戻れと。
……私?
わたし とは なんだったっけ。
細い糸の先の光が、はやくおいでと呼んでいる。還る場所はここだと教えてくれている。
糸の基点、石碑の一部がそこだけ真紅に輝くのが見えた。
古い時代の、原初の魔法文字。識らないはずなのに理解できた。
光に促されるまま読み上げる。
『我らが故郷であり還る場所である神界よ、遥か天空の世界よ、光り輝く魔力に満ちた世界よ。我が望みを聞き入れ、道を拓き給え』
「ゼニス――!!」
呪文の詠唱が完遂するのと同時に。
誰かが誰かの名を呼んで。
浮遊感と多幸感に包まれたまま、全てが光に溶けた。





