18.戦いの後で
「…………あれっ?」
アレスは間の抜けた声を上げた。死んで、あの世などというものがあるとは思っていなかったから。助かったという可能性も僅かに考えたのだが、少しも身体が痛くない。あの傷で何の影響もないというのはあり得ないだろう。
目を開くと、見覚えのある天井が映った。
品のいい意匠が刻まれた天井。身を起こしてみれば、これまた見覚えのある光景が。
何本も剣がぶら下げられた壁。大量の本や紐で綴じられた資料に、発掘した貴重な物品が飾られた棚。
「何だ。あの世ってのは俺の家だったのか」
それも、普段拠点にしている宿ではなく、実家である。とぼけたことを言いながらベッドから下りるアレス。その動作に淀みはなく、身体の調子を確かめるように軽く腕を回しても、何処も痛まない。
――あの世か、死ぬ直前の白夢中か。
身体の調子は絶好調。下手をしなくともダースト領の一件に関わる前よりも調子がいい位で。
しかし、あの世だとすると何でこんな場所なんだろうな、と思いつつ、アレスはまあどうせ死んでるなら好きにするか、と机に就くと羊皮紙を広げ、ファッジが起こした変化、豚鬼に対するアレスなりの所見を綴っていく。
――最早役にも立たないだろうが。
それでも書いておかないと落ち着かない。書き終えるまでに随分と時間は掛かったが、中々満足の行くものが書けてふむ、とアレスは鼻を鳴らした。
「……本当、どうなってるのやら」
アレスは大きく溜息を吐いた。さっぱりと状況が分からない。現実逃避に走ってみるも、何も変わらなかった。
――外に出てみるしかないか。
正直怖いんだがな、とアレスはぼやきつつ、立ち上がると壁に掛けられた剣の一本を剣帯を着けて腰に吊った。実家であることは間違いないのだが、この外がどうなっているのかは分からない。
窓から見える風景もアレスの記憶通りではあるのだが、それが余計に怖かった。
「まあ、どうせ死んでるなら気にする必要もないか」
自身を奮い立たせようと独り言をブツブツ呟き、扉をゆっくりと開くアレス。やはり見覚えのある廊下。何となく人の気配も感じる。
足音を立てないよう慎重に、しかし素早い動きでアレスは廊下を進む。曲がり角の向こうから何者かが近付いてくる音が聞こえて、咄嗟に手近な部屋へと飛び込んだ。
絵の具臭いその部屋は、アレスの弟の部屋だ。本人はいないようだったが、散らかった部屋の壁には所狭しと絵画が並ぶ。幸い、部屋の中に人は居らず、アレスは扉に耳を付けて音を探る。
「アレス様は未だ意識が戻られないのですね……」
「ええ。メテウス様も心配なされておりますし、早く目を覚まされると良いのですが」
おそらく、侍女であろう声に、アレスは身を固くする。メテウスはレグルス家の当主であり、長兄。アレスの同腹の兄だ。
今の会話で、アレスは一つの可能性に思い至ったのである。
――俺、もしかして生きてる?
アレスは病人用のものである緩い服の胸元から自分の胸板を覗いてみる。何か大きな傷を負ったような痕があった。
ダースト領での一件以前には無い傷痕である。生きているのだと喜びかけて、いやいや待てよと自制する。
――あの傷で、あれだけ無茶をして生きてるって?
あり得ない。
胸の傷だけで致命傷。内蔵も少なからず傷付いていて、出血も多量。その上から二度目の『切り札』だ。この状態で生き残るには余程の奇跡でも起こらないと不可能だ。
自分に都合のいい夢でも見ているのではないか、という疑念はどうしても消せない。
「あ、アレス様が、アレス様が居なくなっています!」
叫び声が、上がる。その声は随分と響いたようで、アレスは屋敷全体がざわめいたのを感じた。
アレスは自分の頬を抓ってみる。確かな痛みを感じた。
本当に、生きているのか?
段々と自分が生きていることを信じてみてもいいかもしれないと思うアレス。部屋から出て行こうとして――
「あんの愚弟がっ。誰でもいい。ひっ捕まえて連れて来い!」
兄、メテウスの怒鳴り声にドアノブに掛けた手を止めた。
――やべ、兄さん本気でキレてるぞ。
アレスの兄、メテウスは理知的な人間で滅多なことでは言葉を荒立てない人間だ。それがあそこまで荒れた言葉遣いをしている辺り、その怒りは相当なものだと分かる。
思わず腰が引けるアレス。
心配を掛けたのだから当然だとは思うのだが、あの穏やかな兄がここまで怒るのは数回しか見たことがない――ちなみに、他数回も全てアレスが怒らせたのだが、ともあれ。
廊下を人が走り抜ける音が聞こえる。扉が次々と開けられていく音も。
――仕方ない。出て行こうか。
思って、ノブを下げようとした時、向こう側から扉が開かれ、アレスは数歩後退る。
「……アレス兄さん。意識が戻られたんですね」
「あ、ああ。アポロか。そう、みたいだな」
この部屋の持ち主、レグルス家四男のアポロが驚いた表情で目を見開いていた。アレスとは違い、赤みの強い金髪は癖っ毛で、背もアレスより頭一つ分は小さい。
線も細く、容姿が整っていることもあり、少女のような外見をしていた。
「良かった。でも、何で僕の部屋に?」
「死んだと思ってたんだ。ここはあの世だってさ。気配を感じたんで隠れてみたら、お前の部屋だった」
「よく分からないんですが……」
「ああ。俺もさっぱりだ」
アレスの要領を得ない説明に眉根を寄せるアポロ。アレス自身、自分が生きているという実感が薄く、混乱していた。
「とにかく、顔を見せた方が良いですよ。メテウス兄さん、怒ってますし、女性が二人も兄さんを心配してましたよ」
その件でもメテウス兄さんは怒ってたみたいですけど、と言うアポロに、アレスは首肯を返し、アポロに続いて部屋を出たところで――
「遅いお目覚めだね、アレス」
「ああ……おはよう兄さん」
――メテウスに、出くわした。
アレスよりも少しだけ背が高く、アレスと同じ金の髪。甘いマスクは社交界の人気を一手に集めるほど。
その整った容貌には笑みが浮かんでいるが、その目は少しも笑っていない。アレスは思わず顔を引き攣らせた。
「話がある。書斎まで来なさい」
言って、背を向けるメテウス。その背からは怒気が立ち昇っているようで、アレスは冷や汗を浮かべるのだった。
■ □ ■ □
「さて、申し開きはあるかな?」
「ないよ。全面的に俺が悪かった」
書斎でアレスはメテウスと向かい合っていた。周りには弟アポロに加え、サキ、暗殺者の少女、ライノが佇んでいる。
「それで? どうして意識が戻ったのにすぐに知らせなかった」
「いや、生きているとは思わなくてさ」
というか、あの傷が治ってるってどれだけ時間が経ったんだよ、と尋ねるアレスに、メテウスは傷? と首を傾げる。
「そんなものは無かったよ。お前がここに連れて来られてから丸一日といったところかな」
「はぁ!?」
メテウスの声の調子に嘘の色は無く、アレスは訳が分からないと声を上げる。
「あれから、十日後くらい」
暗殺者の少女が補足するように言う。表情は常と変わらない平坦なものに見えたが、何となく喜んでいるような雰囲気がある。
「……何で、生きてるんだ?」
アレスは呆然とた様子で声を漏らす。
「あの赤いののぱわーじゃないの?」
こてん、と首を傾げる少女。少女の言う『赤いの』とは『切り札』のことだろう。アレスは首を横に振り、いや、と前に置いて答える。
「あれにそんな効果は無い筈だ……多分」
とはいえ、アレス自身『切り札』については分からないことの方が多い。アレスの知らない力があるというのなら否定は出来ないため、言葉を濁す。
「何かよォ、あの化物を殺した後に傷が治っていったぜ」
でなけりゃ確かに死んでたたろうなァ、と言うライノは、部屋の中だというのに冑を着けたままである。鎧は着ておらず、普通の服であるため、どうにも奇妙な見た目になっていた。
そんなに顔を見せたくないのかと思いつつ、そうか、とアレスは返す。
「聞くに……今までになく無茶をしたようだね。アレス」
「あぁ、その……ごめん」
メテウスの真っ直ぐな視線に耐えられず、アレスは目を逸らす。こうやって純粋に心配してくるものだから、アレスはメテウスとアポロには弱かった。
ちなみに、アレスが兄貴と呼ぶ次男には物理的に弱いため、実質立場が兄弟の中で一番弱かったりする。
「無理をするな、危険に飛び込むな、とは言わないさ。お前の道だ」
ただ、と一拍置いて、メテウスは続ける。
「避けられる危険は、避けるべきだ。今回の件だって、サキ君と一緒に王都まで来るべきだった」
少し時間はかかるが、それで問題なく解決出来た筈だ、とメテウスは言う。正論であり、反論の余地はなく、アレスは黙り込む。
「お前にしろ、アトラスにしろ、武断的に過ぎる。もっと武力以外を使って物事に対処するように。何度も言っているけどね」
「はい」
アトラスはレグルス家の次男にして、アレスでも敵わない凄腕の騎士だ。明朗快活な男なのだが、この場に居ないことを考えると領地の巡回にでも出ているのだろう。
「はぁ、全く。返事だけは毎回いいからな。まぁ、今回も騙されてあげよう……本当に、無事で良かった」
安堵の息を吐きながら言ったメテウスに、アレスはごめん、と頭を下げる。毎度メテウスとアポロには心配を掛けている自覚はあるのだが、それでもいざとなるとそれが頭から消し飛んでしまうのだった。
「私からは、これで終わりだ。私からは、ね」
メテウスは意味ありげに言って、ニヤリと笑うと続ける。
「御婦人方や、ライノ殿は色々と言いたいことがあるようだ。応えてあげるのが騎士の務めだろう、アレス」
メテウスの言葉に、視線を走らせるアレス。サキが、暗殺者の少女が、ライノがそれぞれ何かを伝えるようにアレスに視線を送ってくる。
それに気圧されながらも、アレスは思う。
――いい機会だ。
死ぬ直前――何故か生きているのだけれど――に未練を思った。生き残ったから、未練というのも妙な話ではあったが、死の直前に思い残したことを果たす機会なのだ。
アレスは少し緊張しながらも、この幸運に感謝するのだった。




