00.プロローグ
――夜。
「はぁ、はぁ」
十になるかならないかの金髪の少年が片手両刃剣を身体の前で構えて荒く息を乱していた。その手は細かく震えていて、瞳は恐怖の色に染まっている。
少年――アレスは怯えていた。
自身の理解を超えた存在に。
それは、影のような生き物だった。ぐにゃぐにゃと不規則に何かの形を作っては溶けるように崩れる。球体であったり、狼や熊といった獣の形をとることもあったが、アレスはこの『影』がまともな生き物ではないことを本能的に悟っていた。
――逃げたい。
どう足掻いたところであの『影』に勝つことは出来ない。剣の師と立ち合った時と同等、或いはそれ以上の絶望感がアレスの裡からこみ上げてくる。
アレス一人なら、まず逃げ出していただろう。恥も外聞もなく剣すら放り捨てて涙と鼻水を垂れ流して敵に背を向けていた。しかし現在、アレスは震えながらも剣を構えて敵に向かい合っている。
――若き騎士よ、神を愛し、婦人を尊ぶことを学べ。 さすれば、汝の誉も育つ。騎士道を実践せよ。汝を気高くし、戦いにおいて汝に誉をもたらす作法を学べ。
幼い時から言い聞かせられてきた偉大な騎士の教え。
神は自分の名と同じ戦神アレスを信奉しているが、愛してはいない。気高くあろうとも思っていない。アレスは少し捻くれたところのある子供だったが、それでも、「婦人を尊ぶ」というのは全くその通りだと思っていた。
女の子に格好悪いところを見せる? ましてや置いて逃げる?
「……冗談じゃない」
そんなことをする位なら死んだ方がマシだ。アレスは未だ恐怖で噛み合わない歯を強く噛み合わせ、ただみっともなく身体を守るために立てて構えていた剣を王国騎士剣術の構えの一つである『鉄の門』に構える。
身体の前で剣を立てて構えていることに変わりはないが、先程までとは異なり、腕は縮こまっておらず、何より敵を斬る意思が感じられた。
――逃げなさい!
アレスの肩の上では小さな人型の生き物――妖精――が叫んでいる。姿を消したと言われている神秘の存在だが、アレスにとってはそれよりもただ一人の友人であるということの方が重要だ。
そして、女の子だということは輪を掛けて。
『影』は私を狙っているのだから、と重ねる妖精の少女。成る程それはますます逃げるわけにはいかないとアレスは剣の柄を一層強く握る。
「嫌だよ」
即座に突っぱねるアレス。視線は未だに身体を変形したり崩したりを繰り返している『影』から外さずに続けた。額には玉のような汗を浮かべながらも、その言葉には強さがある。
「君こそ逃げてよ。そうしたら後で僕も逃げるからさ」
いかにも余裕があるとでもいうように、アレスは軽い調子で言う。虚勢にもならない格好付け。青褪めた顔で、身体を小刻みに震わせながら放たれたその言葉に説得力は皆無だった。
――出来るわけないでしょう!
妖精の少女は強く反論するも、アレスにその言葉に応えている余裕は無かった。
――来る。
これは、確信だ。
絶対に勝てない相手を前に、女の子を守らなければという決意に背を押されてか、アレスの感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。
『影』の空気が変わった。剣から伝わってくる圧力が高まっていくのをアレスは感じて、動く。
――今!
根拠は無かった。ただ、この瞬間だと確信していた。
横っ跳びに身を躱し、体勢も整わないままに先程まで自分がいた場所にアレスは剣を突き出す。剣先に、重たい衝撃。手首から肩にかけて駆け抜けた衝撃で手が痺れ、剣を幼い手から弾き飛ばされた。
下手をすれば、もとい下手をせずとも剣を握っていた右の手首は痛めたが、相手はもっと重い手傷を負った筈だとアレスは思う。
『影』が動いてからでは間に合わなかった。
読み切ったのだ。
刃のように研ぎ澄まされた感覚と、本能で。
――糞っ。
手に残る感覚は弾き飛ばされた剣に罅が入ったことを知らせている。あの剣は上質な鋼で腕のいい鍛冶師によって打たれた名剣だ。それに僅か一撃で罅が入った。
舌打ち一つ、アレスは腰の短剣を引き抜く。護身用として剣を受けられるよう分厚く作られてはいるももの、あの『影』を相手に回しては心許ない。
「早く、逃げて。次は、多分無理だから」
――貴方こそ、逃げなさい。
それは無理だとアレスは思う。君みたいな羽根があるわけでもなし。逃げ切れる筈がないのだから、と。
「嫌だ。女の子を、友達を見捨てて逃げるなんて死んでも御免だ」
地面に崩れていた『影』がぐにゃりと形を変えてこちらに向き直る。先程は例えようのない不定形な塊のままに突っ込んできたが、今回は違う。
狼だ。
影絵が立ち上がってきたような真っ黒な身体に、赤い瞳が炯々と輝いている。はっきりとした殺意を宿した形状。
斬りつけた影響など一切ない様子に、アレスは途方に暮れる。
剣で斬っても死なない相手とどうやって戦えばいいというのか。物語の中の勇者や冒険家には魔法や伝説の武具があるが、アレスの手の中にあるのはちびた短剣一本。
せめて一傷という思いすら虚しい。
斬りつけたところで意味などないのだから。とはいえ――
――諦めるわけには、いかない。
自分一人の命なら、絶望するのも自分の勝手だが、今は守りたい、守るべき対象がいる。
腹か、喉か、それともあの燃える瞳か。
弱点は何処かとアレスの思考が高速で回る。自分が死んでも、『影』の命脈は確実に断つという決意があった。
だから、行った。
自分よりも体重の重い相手と戦う時は、常に先手を取り続けろと剣の師は言っていたから。
地面を蹴りつけたアレスは、普段ではあり得ない加速に驚愕する。身体は羽のように軽く、気がつけば『影』との距離は無いに等しい。
身体が動いたのは、日々繰り返してきた鍛錬の成果だろう。
勢いを殺さぬままに身体を翻し、短剣を支点に相手をダンスのパートナーのように巻き込みながら通り過ぎる。
黒い影が血液のように宙に舞う。
「何だ、これ」
アレスは呆然とした様子で呟いた。
本当に身体が軽く感じるし、短剣を突き立てた感覚からして力も強くなっている。
気が付けば、アレスの身体や剣は柔らかな燐光におおわれていた。
――妖精の、祝福よ。今の、貴方、の、剣、なら、『妖魔』を……斬れる。
長くは保たないから、という友の言葉に、アレスは半ば以上を理解しないままに頷いた。ただ、身体がよく動き、『影』に剣が通る。それだけで十分だったから。
声が途切れ途切れなのは気にかかったが、まずは目前の脅威を払おうとアレスは決めた。
「行くぞっ」
声を上げてアレスは妖魔(二グロ)に斬りかかる。先程の傷は確かに効いているようで、動きは鈍く、小刻みに動き回りながら的確に傷を刻んで行くアレスの動きについてこられない。
一つ、二つとアレスと交錯する度に黒い体液を撒き散らす妖魔。
アレスはこれで止めと地面に落ちていた片手両刃剣を蹴り上げ、空中で掴むと妖魔を真っ二つに斬り割いた。
ドロドロと溶け、地面に染み込んで行く妖魔の死骸。
「ありがとう、助かったよ」
安堵の息を吐き、アレスが肩の上の友人に話し掛けた時――妖精の姿はそこにはなかった。
「なっ!?」
驚いて辺りを見渡すアレス。戦いの最中に落ちてしまったのかと地面に視線を走らせるも、妖精の姿は見当たらない。
「リリィ、リリィ!」
妖精の名前を必死の形相で呼ぶアレス。夜が明け、朝になり、喉が枯れるまで呼び続けても――
――声が返ってくることは、なかった。
全編改変中につき、現在矛盾や不自然な部分があります。申し訳ありません。。




