16.死闘
豚鬼という超常の存在に対して一番初めに動き出したのはアレスだ。妖魔(二グロ)という存在を知っていて、今回も何が起きたのかおおよそ予想がついたから。超常現象に対する慣れと言ってもいい。
その慣れが、アレスを最も早く驚愕から引き戻した。
「しっかりしろ! 来るぞっ」
二人に呼び掛けながら、少女を腕の中に抱き込むと、急いでバルコニーから距離を取る。外れた肩に気を配ることが出来ず、少女が小さく呻くのを申し訳なく思いつつ、視線は豚鬼から外さない。
アレスが声を上げるのと同時に、豚鬼がバルコニーを蹴り付け、跳び上がろうとして――バルコニーから落下した。正確にいうなら、バルコニーの床面が豚鬼の重さと激しい踏み込みに耐え切れず、崩れたのだ。
――今だ!
アレスは少女をその場に残し、豚鬼との距離を詰める。こうなると中途半端に距離をとってしまったのは失敗だったかと思いつつ、それは結果論でしかないと自戒する。
常のように動いてくれない身体がもどかしい。水中で行動するような反応の鈍さに焦りながら、それでもこの機を逃すわけにはいかないと、痛む身体に鞭を打つ。
一歩毎に軋む身体。
残された体力はそう多くない。この一回。相手が動けぬこの隙に全力を注ぎ込む覚悟でアレスは地面を蹴りつける。
疾風が如く。
足も千切れよとばかりに全力で間合いを詰めるアレスの速度は、万全の時のそれと遜色ないもの。この一回に全てを賭ける覚悟がこの疾走を可能にしていた。
豚鬼は尻餅をつくような形で地面に落ち、まだ立ち上がっていない。アレスとて一撃でどうにか出来るとは少しも考えておらず、兎に角機動力を削げればいいと考えていた。
何せ、あの巨体。
超重量を支える足の一本が機能不全に陥れば移動することも難しくなるだろう。
そうなれば、打てる手は幾らでもある。逆にここで機動力を削げなければ、全員が命を落とすことになる。
今回はバルコニーが崩れてくれたから良かったようなものの、豚鬼は跳ぼうとしたのだ。あの巨体で。
つまり、あの巨体でありながら豚鬼は自在に跳び回れるだけの機動力を有しているということになる。
そんなもの、相手に出来るわけがない。
故に、アレスは必死だ。
身体が壊れかねない全力の疾走を躊躇いなく行える。何せ、失敗すればどの道その先に待っているのは死だけなのだから。
「カアアァァッ!」
叫び声を上げながら剣を逆手に持ち、木こりが斧を振るうように、身体の捻りを活かして全力で叩きつける。最早剣術など関係ない、全力の一撃。
剣も折れよとばかりに全体重を乗せた斬撃は立ち上がりかけていた豚鬼の足首の裏側を深々と切り裂いた。
――何て硬さだよ、おいっ。
アレスの剣は半ばからへし折れていた。それは、別に構わない。そのつもりで剣を振ったのだから。
今の一撃はアレスが出せるものの中では『切り札』を抜きにすれば最高の威力だったと断言出来る。隙が大きく、剣にも負担がかかる、人間相手はおろか魔獣相手にも出さないような、威力重視の斬撃。
その斬撃を直撃させて、断てたのはギリギリ腱まで。その腱も半ばまで断った程度で、両断とまではいかない。とても生物の硬さだとは思えなかった。
「ギッ……」
無茶の代償が、訪れた。
全身がひび割れるような激痛が走り抜ける。体力は尽き、最早指の一本すら動かせそうにない。意識が暗く落ちて行くのを感じる。
――駄目だ、意識を保て。
アレスはここで死ぬつもりはない。未だに目的に近付けてもいないというのに、余りに未練が多過ぎる。しかし、ここで意識を落とせば間違いなく、死ぬ。
アレスは折れた剣の刃を腕に突き立て、痛みで意識をはっきりさせようとした瞬間――
「GAAAAAAAA!」
――咆哮が、響いた。
怒りと、痛みの込められた豚鬼の絶叫。
アレスの視界が、ブレる。
凄まじい衝撃がアレスの全身を貫き、風に吹かれた木の葉のように吹き飛ばした。
アレスの意識が一瞬にして消し飛び、庭の木に激突した痛みで意識を覚醒させる。
「グ、ギ……ガハッ」
アレスは口から血を吐き出した。赤黒く濁った血は間違いなく危険だ。最早痛みすらなく、全身の感覚がない。手足が繋がっているのかすら分からなくなっていた。
視界は赤く霞み、呼吸は水っぽく、息が苦しい。
――これは、マズイ。
自分の状態が全くもって分からないが、分からないことこそが危険信号だとアレスは理解している。
――死ぬ、のか?
嫌だな、とアレスは思う。死そのものは大して怖くはない。戦う者として、死は常に身近にあるものだから。しかし、目的を果たせずに死ぬのは嫌だった。
霞む視界の中、ライノが豚鬼と戦っている姿が映る。機動力を削いだためかまだやられてはいないが、時間の問題だろう。
暗殺者の少女が此方に駆け寄って来るのも見えた。無表情が崩れ、酷く慌てた表情をしている。
――そっちの方が可愛らしいな。
そんなことを思い、アレスは静かに覚悟を決めた。
■ □ ■ □
――ちっ、何だァ。コイツは!
ライノは豚鬼を前にライノは剣を構えるも、どうしたらいいのか分からず立ち尽くしていた。先程アレスが使った『切り札』もライノには理解できないものだったが、豚鬼という化物は輪を掛けて理解出来る範囲を突き抜けている。
大柄なライノの三倍近い巨躯。二足歩行。そんな生き物は見たことも聞いたこともなかった。
ライノは強者と戦うのが好きだ。それ故名高い騎士であるアレスと戦うのは楽しみだったし、水入りになったのは残念で仕方が無い。
赤い風を纏った後のアレスの強さは人間離れしていたが、ライノはアレスがあの技を使いこなせていないことを見抜いていたし、いざ一対一の決闘で戦うとなれば、通り名どおり人のいいアレスが『切り札』を使わないであろうとも考えていた。
――だが、あの豚鬼は違う。
残虐に、その人外の力を以って蹂躙してくるだろう。
「そいつァ御免だ」
逃げてしまおうか。ライノがそう考えた瞬間、一つの影が豚鬼との距離を一息に詰め、起き上がりかけた豚鬼の足首を切り裂いたのだ。
――『お人好し』の野郎。
先程までは超常の力を振るっていたアレスだが、今の一連の動きは人間の枠を外れた動きではない。ただ鍛え抜かれた肉体と技術で化物に手傷を与えて見せたのだ。鍛え抜かれた肉体と技術。それはライノも有するもの。
つまり、ライノと同じ条件にあって、アレスは動き、ライノは動けなかった。自分はただここで逃げることを考えていたのだ。
――ふっざけんな!
『黒騎士』ライノ様がビビって動けなかっただァ? 聞いて呆れる。ライノは吐き捨てるように思い、両手両刃剣を構え直すと豚鬼目指して駆け出した。
視界の中でお人好しが吹き飛ばされた。
虫を払うような、叩くというよりは押しのけるように振られた豚鬼の腕だったが、凄まじい勢いでアレスは地面と水平に飛ばされ、木に叩きつけられた。
――死にやがったか?
死んでもおかしくはない一撃だった。生きていたとしても、この戦いに復帰することはないだろうとライノは思う。
代官に送り込まれた暗殺者の少女が吹き飛ばされたアレスに向かって焦った様子で走って行くのを見て、ライノは決闘の邪魔をしたのだから、いい気味だと笑いつつ、痛みに悶える豚鬼との距離を殺し切り、振り回される腕を掻い潜って担いだ剣を振り下ろした。
硬い皮膚に阻まれながらも、太腿を切り裂くことに成功するライノ。アレスに注意が向いていたにしろ、見事なものだった。
――硬ェ。
奇しくも、抱いた感想はアレスと同じものだった。
アレスの傷ほど深くないが、それでも手傷を与えたライノを警戒したのだろう。豚鬼はライノに向き直ると、その巨大な拳を振り下ろしてくる。
ライノは前動作からそれを予測して、身を躱している。
――速ェ。
空気を引きちぎりながら、自身の鼻先を通り過ぎる豪腕。豚鬼の見た目からは想像し辛い速度に、ライノは鼻白む。しかし同時に――
――躱せるなァ。
豚鬼の体構造が人間に近いことがライノには好材料になる。動きが読みやすいのだ。足を傷つ付けられて動きが制限されている今、攻撃を躱し続けることは難しくない。
「が……長くは保たねェか」
ライノの全身金属鎧は通常のそれよりも遥かに重い。着けたまま動き回れば、それだけ消耗する体力も大きいのだ。本来ならばそれでも長時間活動出来るだけの体力をライノは有しているのだが、今は恐怖と緊張感によって消費される体力は通常の比ではない。
体力が限界を迎えるのもそう先のことではない。
その上、豚鬼にライノが与えた傷からは既に出血が止まっている。アレスが与えた傷は深いためかまだ血が流れ出しているが、それもかなり穏やかなものに変わっている。
――この短時間で治り始めていやがる。
悪態をつくライノ。これは本格的に逃げを打たなければ不味いかもしれない、と弱気の虫がライノに囁く。
認めたくはないことだが、実際このままでは大口を開けて待ち構えている死の顎に飛び込むようなものだ。
「さァて、どうするかねェ」
赤く燃える豚鬼の瞳に、ライノは冑の下で顔を引き攣らせる。
豚鬼は、途轍もなく強大だった。




