10.代官――ファッジ――
アレスが村に着いた翌日の、晩。
ロッソの家で装備の点検をしたり、床に伏している村人の検診をしたりしながら領内の話を聞いて回っていると、いつの間にやら随分日が傾いていた。
夕暮れ時に、代官からの使者が「是非当家に足を運んでいただきたい」という旨の伝言に従う形でアレスは領主館に足を踏み入れていた。
「お初に御目にかかります。私はアレス・エニュオル・レグルス。代官殿、本日はお時間を割いていただきありがたく思います」
アレスは領主の館で代官と向かい合っていた。頬には柔らかな笑みを浮かべているが、その目は一切笑っていない。瞳の奥には冷たい光が揺蕩っている。
内心、糞下種野郎が、と吐き捨てるように思いつつ、アレスはできる限り表情に出さないよう努力していた。瞳の奥が凍り付くのは止められなかったが。
豚が服を着て歩いているような風貌のファッジは見るに耐えないが、一点だけ、アレスの目を引くものがあった。
――あれは、黄金の時代の文字。
代官の首に下げられた黒曜石のような、金属のような、奇妙な輝きを持つ黒いメダル。それには紛れもない神秘の時代の文字が刻まれていた。
何処で手に入れたのか訪ねたくなるアレスだったが、ここは堪えろと自制する。
嫌悪の対象である代官が神秘の時代に関わる代物を身に付けているせいか、アレスはどうにもそのメダルから嫌な感覚を覚えた。
しかし、胸元ばかり見て自身の興味を引くようなものであると悟らせるのも馬鹿らしいとアレスは視線を代官へと戻す。
「い、いえいえ。彼の王国が獅子、レグルス家の方に訪れて頂けるとはまことに光栄なこと。このファッジ、感激の極み」
薄っぺらな、上っ面だけを飾った言葉を代官――ファッジが吐き出す。双方言葉の裏側に回れば相手を害そうという黒い感情が渦巻いていた。
「さて――」
「――しょ、食事は済まされましたかな? まだでしたら是非当家自慢の料理人の腕を披露したく思いますが!」
アレスが早速本題に入らせてもらおうか、とでも言うように一呼吸置いたところへ、ファッジが慌てた様子で口を挟む。村への圧政の件に関して触れられたくないというファッジの内心がアレスには透けて見えるようだった。
――さて、どうするか。
この場でダースト領の常軌を逸した税率や法について問い詰めるのは簡単だ。しかし、その場合すぐさま戦闘になるだろう。その場合を考えて装備の手入れは万全だが、ここでアレスが仕掛けてくる可能性は向こうも考えているはず。
何らかの罠が仕掛けられている可能性は考えられた。代官の首をこの場で落としてやりたい気持ちは山々なのだが――
――ここは、一旦様子見だな。
アレスは殺意を押さえ込み、大きく息を吐いた。
「いえ。もう食事は摂ってしまいましてね。有難いお言葉ですが、ご遠慮させて頂きます」
「……そうですか。その、デザートだけでもいかがですかな?」
絶品なのですが、と食い下がるファッジ。毒入りは御免ですね、と言ってやりたくなるアレスだったが、自制して短く「結構」と返した。
「そ、そうですか。では、せめて今宵の宿として当家をご利用下さい……おいっ!」
扉の外にファッジが声を掛けると、使用人らしい女性が入ってくる。
「こちらの方をお部屋までご案内しろ」
「かしこまりました」
何も話さぬ内に会話を切り上げようとするファッジに、様子を見ると決めたが、流石にこのまま従うのは不自然が過ぎるな、とアレスは声を上げた。
「待って頂きたい。少し話したいことがあるのです」
「おお、そうでしたか。しかし申し訳ない。ここのところ領内が騒ついておりまして仕事が尽きんのです。明日には時間を取りますので、お許し下さい」
と言いながら逃げるように部屋を出て行くファッジ。客人よりも先に立ち去るというのはかなり無礼なことであるし、返答を待たぬままに立ち去るのもまた然り。
大体、招いておきながら挨拶をしただけで話を切り上げようとするのは剣を抜かれてもおかしくない程に礼を失する行為だ。一応、食事に誘ったというポーズがあるために無礼ではあるがアレスも腹を立てる演技はしなかった。
しかし、思ったよりも殺意剥き出しだなとアレスは思う。
代官ファッジからは明確な殺意は汲み取れなかったが、執拗にものを食べるよう勧めたのは毒殺する気だというのが透けて見える。
公爵家所縁の人間が領内で命を落とすことがあれば、たとえそれが事故だったとしてもかなりの問題になる。多くの場合実力行使は最終手段で、金や女を使って懐柔しようとすることが殆どだ。
それが理解出来ない程に愚かなのか、或いは何か理由があるのか。
考えてもせんのないことだが、兎に角警戒は怠らないようにしなければなとアレスは気を引き締める。
アレスの経験からして、悪徳貴族の館というのは獣の腹の中と同じかそれ以上に危険な場所だ。今までアレスは何度か命を落としかけているが、その殆どは悪徳貴族の館で気を緩めたのが原因である。
水差しに仕込まれた毒を飲んでしまったこともあった。その時は舌に違和感を覚え、慌てて胃の中のものを吐き出したために助体調を崩す程度で済んだが、無味無臭ならまず命を落としていた。
それ以降悪徳貴族の館で飲食は決してしないと心に誓ったアレスだったが、次は部屋に火を放たれた。本館とは別に客人用の屋敷に通されたアレスは、扉の外からその一室に閉じ込められて焼き殺されそうになる。
あの時は、部屋が二階だったため、窓から飛び降りて事なきを得た。足を痛めた為にその後も何度か危機があったが、どうにか生き延びたのだ。
何も信用しないことを心に決めたアレスだったが、ベッドの下から刃が突き出された時は死を確信した。通された部屋のベッド、その下に男が潜んでいて、アレスがベッドに寝転がると背中から胸にかけて強い衝撃に貫かれたのだ。
疲れていて鎧を外していなかったことと、ベッドの下から突き出すためか剣が細い刺突剣であったこと。その二つが重なって、アレスは助かった。
おそらく質の悪い剣だったのだろう。アレスの鎧に弾かれて先端が折れたのだ。衝撃に息を詰まらせながらもアレスは暗殺者を自ら斬り殺した。
他にも様々な経験をして、アレスは常に周囲へ意識を張り巡らせること、油断は命取りになることを学んできたのだ。
今になって思うと経験が少なかったとはいえ余りにも不用心で隙だらけだったな、とアレスは思う。ボタンを一つ掛け違えていたら自分は今ここに生きていないだろう、とも。
――我ながら悪運が強い。
とはいえ、運任せではいられないな、とアレスは小さく息を吐き出し、部屋へと案内するという女性の後に続いて部屋を出る。
――しかし、入って来た時にも思ったが、どうにも空気が淀んでいるな。
感覚的なものなのだろうが、どうにも気分が良くないとアレスは思う。別段神経質ではない――どころかかなり大雑把で神経の太いアレスだが、この屋敷の空気は嫌な感じがした。
ファッジに対して嫌悪感を抱いているから、というのもあるのだろうが、言いようもなく不快な感覚がある。
「こちらです」
侍女の足が一つの扉の前で止まる。羽虫が頭の周りを飛び回っているかのような不快感にアレスが苛立っているうちに目的の場所へ到着していたらしい。
「……失礼だが、隣の部屋でもよろしいかな?」
「え、その、そちらは掃除も済んでおりませんので」
やや上ずった声で侍女が言う。間違いなくファッジからこの部屋に通すよう命じられているのだろう。不愉快な仕掛けが楽しめることは間違いない。
「何、旅の身空では野宿も珍しくない。それに、どうにも勘が騒ぐんだ。私は勘働きは信じる方でね」
言って、アレスは侍女が示した部屋の隣の扉を開けた。どうやらこの辺りの部屋が来客用のものであるというのは間違いないようで、ベッドと箪笥、机に椅子といった調度品が最低限揃えられている。
簡素ながらもしっかりとした作りをしている上質な調度品に、アレスは豚が二足歩行になって品のない豪奢な服を着ているようなファッジにしては、まともなセンスだと変に感心していた。
「あ、あの……」
「頼むような用事が出来たら呼ばせて貰うよ」
勝手に言って、アレスは扉を閉めた。女性に対して酷い態度だとは思うが、正直アレスは今の侍女がナイフを取り出して突き出してくることすら考えていた。
疑心暗鬼もいいところだが、これぐらいで丁度いいともアレスは思う。
ベッドの下を調べ、箪笥の戸を剣で引っ掛けるようにして開ける。誰も潜んでいないことを確認してから、窓の外を壁の陰に隠れながら見渡す。
窓と同じ高さに人が立てるような場所は無いからボウガンによる狙撃は気にしなくても大丈夫。弓による狙撃は高さと奥行きの関係上不可能に近い。
とりあえずそこまで調べてアレスは一つ息を吐き、剣帯から剣を外すと疲れた様子で木製の椅子に身体を預けた。アレスと鎧の重量で椅子が僅かに軋みを上げるが、良い物だけあってしっかりとその身体を支えた。
神経質に思えるかもしれないが、これ位はしないと安心して休めもしない。休むといっても、椅子に身体を預けて目を閉じているのがせいぜいだが、それだけでも大分違ってくる。
外した剣を足と足の間に置いて、アレスは天井に定まらぬ視線を投げた。
――仕掛けてくることは、仕掛けてくるだろうが。
正直、力任せに来る分には問題ないのだ。広いとはいえ屋内であれば数の利は生きてこない。唯一、一対一でも厳しい相手であるライノは所謂戦闘狂のようなところがある。
噂から金にがめつい仕事人気質の人物だと思っていたので意外だったが、ともあれ多対一の場面で出て来ることは無いと考えていい。
ライノ抜きならやり用は幾らでもある。問題は、力任せに来ない場合だ。搦手の類で来られると対応が難しい。アレスは知識を蓄積するのは好きだが、本質的な部分は武人寄りの思考をしている。
命の危険があろうと剣で解決出来る事の方が気楽だと考える性質なのだ。経験を積んで多少慣れたとはいえ、不得手であることに変わりはないのだから。
――コン、コン。
アレスが思考を巡らせながら瞳を閉じて休んでいると、微妙に調子の外れたノックで落ちてはいなかったものの、低く沈み込んでいたアレスの意識が引き戻される。
外していた剣を剣帯に差すと立ち上がって扉に向かう。
――さぁて、鬼が出るか、蛇が出るか。
実際鬼が出たら嬉しいけれど、と冗談混じりに思うアレス。何が出てもいいように身体を程よく緊張させ、意識を戦闘の領域にまで高める。
一呼吸置いて扉を開けたその先には――
改編済みです。




