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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第9話 冷たい壁際と差し出された掌

手帳に記した『決別』の二文字が、瞼の裏で点滅するように焼き付いていた。


私はシャンパングラスの脚を指先が白くなるほど強く握りしめ、煌びやかな夜会会場の壁際に立っていた。

頭上では巨大なシャンデリアが光の雨を降らせ、楽団が奏でるワルツの旋律が、談笑する貴族たちの声を柔らかく包み込んでいる。

色彩と香水の匂いが渦巻くこの空間で、私だけが、灰色に切り取られた異物のように浮いていた。


「……やはり、来ないのね」


呟いた声は、喧騒にかき消された。

時計の針は既に開宴から一時間を過ぎている。

『行けたら行く』。

その言葉が、これほど残酷で、かつ正確な未来予知だったとは。

私の隣は空席だ。

本来なら婚約者が立ち、エスコートすべきその場所には、冷ややかな空気だけが漂っている。


「あら、あれはヴァレンシュタイン家の……」

「お一人? クライヴ卿はどうされたのかしら」

「また仕事だと仰っていたわよ。でも、この前の狩猟会ではお見かけしたけれど……」


扇子で口元を隠した令嬢たちの囁きが、さざ波のように寄せては返す。

視線が、無数の針となって肌を刺す。

憐れみ。嘲笑。好奇心。

私は背筋を伸ばし、口角を固定したまま、一点を見つめ続けた。

ここで俯けば、私は「捨てられた惨めな女」として確定してしまう。

たとえ事実がそうであっても、私の誇りまで彼に明け渡すつもりはなかった。


グラスの中の液体が、微かな振動で揺れる。

もう十分だ。

私は彼が来ないことの証明を完了した。これ以上、この針の筵に立ち続ける義務はない。


私はグラスを近くの給仕のトレーに戻した。

カチン、と硬質な音が響き、それが私の心を縛っていた最後の鎖を断ち切る音に聞こえた。

帰ろう。

一人で馬車を拾い、一人で屋敷へ戻る。

それは寂しいことかもしれないけれど、嘘つきを待って立ち尽くすよりはずっとマシだ。


私はドレスの裾を翻し、出口へと向かう足を動かした。

人混みを避けるように、壁沿いを歩く。

足が重い。靴擦れの痛みが、心の痛みとリンクして、一歩ごとに私を苛む。


その時だった。

会場の入り口付近が、不自然にざわめき、人波が左右に割れた。

何事かと顔を上げる間もなく、その「波」の向こうから、一人の男性が真っ直ぐにこちらへ歩いてくるのが見えた。


漆黒の礼服。

銀糸の刺繍が施された襟元。

そして、照明を受けて冷たく光る銀縁の眼鏡。


「……ルシウス様?」


私は息を呑み、立ち止まった。

彼はいつもの文官服ではなく、完璧に着こなされた夜会用の正装を纏っていた。

その姿は、お伽噺に出てくる王子様というよりは、夜の闇を統べる王のような、圧倒的な威厳と静謐さを放っていた。


彼は周囲の視線など存在しないかのように、迷いのない足取りで私との距離を詰める。

私の目の前まで来ると、彼はピタリと足を止め、静かに私を見下ろした。


「……帰るのか?」


低く、よく通る声だった。

私は喉が張り付いたように声が出ず、ただ小さく頷いた。


「パートナーが、来ませんので」


精一杯の強がりだった。

声が震えないようにするのがやっとだった。

ルシウス様は、私の左手を一瞥した。

そこにある銀の指輪──アーネストとの繋がりを示す枷──を。

そして、フッと短く息を吐くと、眼鏡の位置を指で直した。


「ならば、好都合だ」

「え……?」

「空いているなら、私が貰っても構わないな」


彼は言い終わるより早く、右手を私に差し出した。

白手袋に包まれた、大きな掌。

それは、かつて私にコートを貸してくれた手であり、梯子から落ちかけた私を支えてくれた手であり、バルコニーでハンカチを握らせてくれた手だった。


「……ルシウス様、それは……」

「一曲、願いたい。……エリシア嬢」


彼は私の名前を呼んだ。

補佐官としてではなく、一人の女性として。

その瞳には、憐れみなど微塵もなかった。あるのは、揺るぎない意志と、焦がれるような熱だけ。


周囲のざわめきが、一段と大きくなる。

「あの氷のアルベルト卿が?」「まさか、申し込みを?」

そんな声も、今の私には遠い世界のノイズにしか聞こえなかった。


私の視界には、目の前に差し出された掌しか映っていない。

この手を取れば、もう戻れない。

アーネストとの関係は決定的に破綻し、私は新しい世界へと踏み出すことになる。

怖い。

けれど、それ以上に──触れたい。


私は震える右手を、ゆっくりと上げた。

私の指先が、彼の手袋に触れる。

その瞬間、彼は私の手を力強く握り込み、引き寄せた。


「っ……」


体が浮くような感覚と共に、私は彼の懐へと招き入れられた。

近い。

彼の纏う珈琲と夜気の香りが、私を包み込む。

彼は私の腰に左手を回し、エスコートの体勢を取った。その手つきは、貴重な硝子細工を扱うように慎重で、けれど所有権を主張するように力強かった。


「顔を上げろ。……君は今日、誰よりも美しい」


耳元で囁かれた言葉に、体中の血が沸騰するかと思った。

お世辞など言わないこの人が、そんなことを言うなんて。

私は恐る恐る顔を上げた。

眼鏡の奥の灰色の瞳が、至近距離で私を射抜いていた。

そこにあるのは、上司としての評価ではない。

男としての、露わな情熱だった。


楽団の演奏が、新しい曲へと変わる。

ゆったりとしたワルツ。

彼は私の動きを待たず、滑らかにステップを踏み出した。


体が、勝手に動く。

彼に導かれるまま、私はフロアの中央へと連れ出された。

ドレスの裾が円を描いて広がる。

さっきまで私を突き刺していた周囲の視線が、今は羨望と驚愕に変わっているのを肌で感じた。


「……私なんかで、いいのですか?」


踊りながら、私は問いかけた。

彼は私の腰を引き寄せ、ターンを決めながら答える。


「君がいいんだ。……ずっと、待っていた」

「待って、いた……?」

「君の隣が空くのを。……あの男が、その価値を自ら手放すのを」


彼の言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

彼は、ずっと見ていたのだ。

私の我慢も、孤独も、そして能力も。

アーネストが見ようとしなかった私の全てを、この人は最初から見つめていてくれた。


回転の遠心力で、視界が滲む。

でも今度は、悔しさの涙ではない。

満たされた想いが、瞳を潤ませていた。


彼の掌から伝わる熱が、私の冷え切った指先を溶かしていく。

この手だ。

私が握るべきだったのは、冷たい指輪で繋がれたあの人の手ではなく、この温かい手だったのだ。


「ルシウス様……」

「なんだ」

「……踏まないように、気をつけます」

「構わない。君になら、踏まれても本望だ」


彼の冗談とも本気ともつかない言葉に、私は思わず吹き出した。

彼もまた、口元に微かな笑みを浮かべていた。


もはや、会場には私たち二人しかいないようだった。

壁際の孤独は消え去り、私は今、確かに誰かに守られ、求められている。

その事実は、私にかつてないほどの勇気を与えてくれた。


曲が終わる頃には、私の心は決まっていた。

この熱を知ってしまったら、もうあの冷たい場所には戻れない。

私は握り返したその手に、ありったけの想いを込めた。

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