第8話 金色の招待状と空虚な約束
綺麗に洗濯された白亜のハンカチを箪笥の引き出しに仕舞った時の、清潔な石鹸の香りがまだ鼻先に残っていた。
ルシウス様から借りたそれを返すのは、もう少し後でもいいと自分に言い訳をしている。それが手元にあるだけで、バルコニーで彼がくれた「君の人生は君のものだ」という言葉が、物理的な重みを持って私を支えてくれる気がしたからだ。
私は背筋を伸ばし、文官室の自分の席へと向かった。
以前のように、扉を開ける前の深呼吸は必要なかった。
中に入ると、既に数人の文官が出勤しており、紙をめくる音が静かに響いていた。
私の机の上に、一通の封書が置かれていた。
王家の紋章が蝋で封印され、縁が金箔で彩られた厚手の封筒。
王宮主催の夜会の招待状だ。
「……今年も、この時期なのね」
私は封筒を手に取り、ペーパーナイフで慎重に封を切った。
刃先が紙を裂く感触が、指に伝わる。
中から現れたカードには、流麗なカリグラフィーで開催日時と場所、そして『婚約者同伴』を推奨する文言が記されていた。
貴族社会において、この夜会は単なる娯楽ではない。
家同士の結びつきを確認し、次代の夫婦としての在り方を周囲に示す「公務」の一環だ。欠席は許されないし、パートナーを伴わない参加は、二人の関係に亀裂が入っていると公言するに等しい。
私はカードを指先で弾き、視線を上げた。
三席向こうに、アーネストの背中があった。
今日は珍しく朝から席にいる。もっとも、広げた書類の下に隠したゴシップ誌を読んでいるのは、肩の角度を見れば明らかだったが。
「アーネスト様」
私は椅子から立ち上がり、彼の元へ歩み寄った。
かつては、彼に話しかけるたびに「邪魔をしていないだろうか」「機嫌は悪くないだろうか」と胸を痛めていた。
だが今は、ただの事務手続きだ。
「ん? ああ、エリシアか。何だい?」
彼は雑誌を慌てて書類の下に滑り込ませ、爽やかな笑顔を作って振り返った。
その動作の軽薄さに、私の心はピクリとも動かない。
ただ、冷徹な観察眼だけが作動する。
「王宮夜会の招待状が届きました。来週の金曜日です」
私は招待状を彼の目の前に差し出した。
金色の縁取りが、窓からの光を受けてキラリと光る。
彼はそれを一瞥すると、露骨に眉をひそめた。
「ああ、あれか……。面倒だなあ」
第一声がそれだった。
私は瞬きもせずに彼を見つめる。
「ですが、王弟殿下も臨席される公式行事です。欠席はできません」
「分かってるよ。分かってるけどさ、その日は確か、友人と狩りの約束があった気がするんだよな」
彼は手帳を確認する素振りすら見せず、頭を掻いた。
嘘だ。
彼の手帳は私が管理している。来週の金曜日に予定など入っていない。
単に、堅苦しい夜会よりも、取り巻きたちと遊ぶ方を優先したいだけだ。
「……アーネスト様。これはヴァレンシュタイン家とクライヴ家、双方の顔に関わる問題です。必ず、エスコートをお願いします」
私は努めて事務的に、しかし逃げ道を塞ぐように告げた。
これが最後の機会だ。
もし彼がここで「分かった、必ず行く」と言い、誠実な態度を見せるなら──いや、そんな期待はもう欠片も残っていない。
私はただ、彼が「約束した」という事実、あるいは「約束を軽んじた」という事実を、確定させたいだけだった。
「はいはい、分かったよ。行けばいいんだろう、行けば」
彼は投げやりに手を振った。
まるで、うるさい蠅を追い払うような仕草だ。
「一応、予定は空けておく。でも、急な仕事が入るかもしれないからな。その時は許してくれよ? 僕は忙しいんだから」
「……『行けたら行く』ということですか?」
「そういうこと。君だって、僕が国のために働いていることは理解しているだろう? パートナーなら、それくらいの融通は利かせてくれよ」
彼はニッと笑い、また書類(の下の雑誌)へと視線を戻した。
会話は終了だ、という合図だ。
私は招待状を持つ手に力を込めた。
厚紙が僅かに歪む。
『忙しい』。
その言葉が、どれほどの免罪符として使われてきたことか。
そして実際にその裏で何が行われているかを知ってしまった今、その言葉は滑稽な響きしか持たなかった。
「……承知いたしました」
私は低く答え、踵を返した。
怒りはなかった。
あるのは、深く静かな諦念と、冷ややかな納得だけ。
彼は来ないだろう。
急な仕事など入らなくても、当日の気分次第で平気ですっぽかす。そういう人間だ。
席に戻り、私は招待状を机の引き出しの奥、一番底へと仕舞い込んだ。
暗闇に沈む金色のカードが、まるで私たちの未来の墓標のように見えた。
左手の薬指に触れる。
冷たい銀の指輪。
これを外す日は、そう遠くない。
その時が来たら、私はどんな顔をするのだろう。
泣くのだろうか。それとも、笑うのだろうか。
ふと、視界の端にルシウス様の姿が映った。
彼は上席のエリアから、じっとこちらを見ていた。
目が合う。
彼は何も言わない。眉一つ動かさない。
けれど、その灰色の瞳には、「見ていたぞ」という無言のメッセージが含まれていた。
そして、微かに──本当に微かに、顎を引いて頷いてみせた。
『君の判断を信じる』
そう言われている気がした。
バルコニーでの彼の体温を思い出す。
あの日、彼がくれた言葉とハンカチが、今の私を支える唯一の支柱だった。
私は小さく頷き返し、ペンを手に取った。
インク壺にペン先を浸す。
黒いインクが、ペン先を染めていく。
準備は整った。
彼が来ようと来まいと、あの夜会が全ての終わりの場所になる。
私はもう、誰も待たない。
自分の足で歩き、自分で幕を引くのだ。
「……ドレスの手配をしなくては」
独り言は、驚くほど落ち着いていた。
私は手帳を開き、来週の予定欄に『夜会』と書き込み、その横に小さく『決別』と書き添えた。
ペン先が紙を走る音が、静かな決意の音となって響いた。




