第7話 夕暮れのバルコニーと白亜のハンカチ
『便利だからさ』というアーネストの軽薄な声が、鼓膜の奥にこびりついて離れない。
私は文官室の扉の前で、一度深く息を吸い込んだ。
肺に満ちる空気ですら、今の私には酷く重苦しい。
抱えている書類の束が、まるで鉛の塊のように感じられた。さっきまでアーネストの承認を得るために奔走していたこの紙束は、今や彼の「道具」としての私を象徴する呪物でしかない。
私は扉を開けた。
室内は相変わらず静寂に包まれている。ペンの走る音、紙をめくる音。
何も変わらない日常がそこにあったが、私の視界だけが灰色にフィルターがかかったように彩度を失っていた。
足を進める。
アーネストの空席が目に入る。
以前なら「早く戻ってきてほしい」と焦がれていたその場所が、今はただの空虚な穴に見えた。
私は彼の机に近づき、抱えていた書類を置こうとした。
だが、手が震えた。
指先が微かに痙攣し、書類の端が机に当たってバサリと崩れた。
「……ッ」
私は崩れた書類を拾おうとして、膝をついた。
床に散らばる文字の列が、意味をなさずに揺らぐ。
拾わなければ。片付けなければ。
便利な道具として、最後まで完璧に振る舞わなければ。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
視界が滲む。
涙ではない。これは、悔しさだ。三年間、あんな男に人生を捧げてしまった自分自身への、どうしようもない憤りだ。
「……触るな」
頭上から、鋭い声が降ってきた。
私はビクリと肩を震わせ、顔を伏せたまま固まる。
黒い革靴が、私の視界に入り込んでいた。
ルシウス様だ。
「ルシウス、様……申し訳、ありません。すぐに、片付け……」
「いい。そのままにしておけ」
彼は私の腕を掴んだ。
強引だが、乱暴ではない。私の体を床から引き上げるその力は、溺れた人を岸へ引き上げるように確かなものだった。
「来るんだ」
「え……でも、仕事が」
「これは業務命令だ。ついて来い」
彼は有無を言わさず、私を連れて歩き出した。
崩れた書類はそのまま床に放置された。
文官室の同僚たちが驚いて顔を上げる気配がしたが、ルシウス様は一顧だにしない。
彼の背中は、周囲の視線など存在しないかのように堂々としていて、私をその影の中に隠してくれた。
連れて行かれたのは、文官棟の最上階にある小さなバルコニーだった。
普段は鍵がかかっていて誰も使わない場所だが、ルシウス様は懐から鍵を取り出し、慣れた手つきで開錠した。
風が吹き込んでくる。
夕暮れの風だ。
空は茜色と群青色が混ざり合い、眼下には王都の街並みが広がっている。
彼は手すりに寄りかかり、私を見た。
夕日が彼の銀縁眼鏡を赤く染めている。
「……泣きたいなら、泣けばいい」
唐突な言葉だった。
私は大きく目を見開く。
「な、何を……私は、泣いてなど……」
「顔を見れば分かる。限界まで張り詰めた人間が、糸が切れる寸前にする顔だ」
彼はポケットから、一枚のハンカチを取り出した。
白亜の絹。端にイニシャルが刺繍された、清潔で上質なものだ。
第1話の雨の日、私が彼に借りた上着のポケットに入っていたものと同じ匂いがした。
「……聞き、ました。サロンでの会話を」
私は観念して、ポツリと漏らした。
隠しても無駄だと思った。この人の目は、すべてを見透かしている。
「アーネスト様は、私を……便利な道具だと。愛してなどいないと」
言葉にすると、胸の傷口が広がるようだった。
けれど不思議と、涙は溢れなかった。
代わりに、空っぽになった心の中に、ルシウス様の存在が満ちていくのを感じた。
「そうか」
ルシウス様は、驚かなかった。
ただ静かに頷き、ハンカチを持った手を下げないまま、私を見つめ続けた。
「君はどうしたい?」
「……え?」
「道具として使い潰されるのが嫌なら、どうしたいと願う?」
問いかけはシンプルで、だからこそ残酷だった。
私は手すりを握りしめた。
冷たい鉄の感触が、熱を持った掌を冷やす。
「……辞めたいです。婚約も、補佐の仕事も。全部」
「ならば、そうすればいい」
「でも……家同士の契約があります。私の我儘で破棄などすれば、父や母に迷惑が……」
染み付いた「正しさ」が、私の足を止める。
貴族として、娘として、波風を立てずに耐えることが美徳だと教えられてきた。
ルシウス様はため息をつき、一歩、私に近づいた。
彼の影が私を覆う。
「エリシア。君の人生は、誰のものだ」
低い声が、私の芯を揺らす。
「親のものか? 家のものか? それとも、あの愚かな男のものか?」
「それ、は……」
「違うだろう。君のものだ。君が痛みを感じ、君が喜びを感じるための、たった一度きりの時間だ」
彼は私の手を取り、握らせていた手すりから引き剥がした。
そして、自分のハンカチを私の手に握らせた。
「泣かせる奴のそばにいる必要はない。……君を笑顔にする価値のない人間に、君の涙を使うな」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の胸を貫いた。
私は握りしめたハンカチを見つめる。
白くて、柔らかくて、温かい。
これが、私が欲しかったものだ。
地位でも名誉でもなく、ただ「私」という人間を尊重し、守ってくれる温もり。
「……ルシウス様は、優しいですね」
「誤解だ。私は欲しいもののために動いているだけだ」
彼はそっぽを向いたが、その耳が夕日よりも赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
欲しいもの。
それが何を指すのか、自惚れてもいいのだろうか。
心臓が早鐘を打つ。
これは依存ではない。
吊り橋効果でもない。
もっと根本的な、魂が引かれ合うような引力だ。
私はハンカチを顔に当てた。
彼の匂いがする。
涙は出なかったけれど、代わりに深い安堵の息が漏れた。
「……ありがとうございます。少しだけ、強くなれそうです」
「そうか」
彼は短く答え、バルコニーの外へ視線を向けた。
その横顔は理知的で、冷ややかで、けれど誰よりも熱い情熱を秘めている。
私は左手の指輪を、ハンカチ越しに強く握りしめた。
もう迷わない。
この冷たい金属の輪よりも、この柔らかい布の持ち主の手を取りたい。
その願いは、明確な「恋」となって、私の中で形を成していた。
「戻ろう。……あの書類は、私が処分しておいた」
「えっ、いつの間に……?」
「部下に指示した。君があの男の文字を見る必要はない」
彼は事も無げに言って、扉を開けた。
その過保護さに、私は思わず小さく笑ってしまった。
笑ったのは、久しぶりだった気がする。
彼の背中を追いかけながら、私は誓った。
私は自分の足で歩く。
そしていつか、この人の隣に胸を張って並べるようになりたい、と。




