第6話 半開きの扉と嘲笑うワイングラス
腰に残る熱い腕の感触が、一晩経っても消えてくれなかった。
私は書類にサインをする手を止め、ふぅ、と小さく息を吐いた。
インクの匂いが漂う文官室は、今日も静かだ。
けれど私の心の中だけは、昨日の資料室での出来事が嵐のように渦巻いていた。
ルシウス様の低い声。『私を使えばいい』という、熱を帯びた言葉。
それを思い出すたびに、胸の奥が締め付けられるように高鳴り、同時に罪悪感がチリチリと肌を刺す。
「……いけないわ。仕事に集中しなくては」
私は首を振り、雑念を振り払うようにペンを走らせた。
目の前には、アーネストが決裁すべき書類が山積みになっている。
彼は今日も席にいない。
「他部署との調整がある」と言い残して出て行ったきり、昼休憩を過ぎても戻ってこなかった。
この書類には、彼の実印が必要だ。期限は今日中。
以前なら、彼が戻るまで机で待ち続け、深夜に残業して処理していただろう。
けれど今の私は、それを「待つ」という選択をしなかった。
私は書類の束を抱え、立ち上がる。
彼がどこにいるのか、おおよその見当はついていた。
最近、若手の文官たちが頻繁に集まっているという、東棟の休憩サロン。
そこは本来、貴族出身の文官たちが交流を深めるための場所だが、実態は勤務時間中のサボり場になっていると噂されていた。
「行ってきます」
誰にともなく告げ、私は部屋を出た。
廊下を歩く足取りは、不思議と重くなかった。
ルシウス様の言葉が、私の中で変化を生んでいたのかもしれない。
『君の処理する書類にはミスがない』。
その評価が、私に「彼を探し出してでも仕事を終わらせる」という正当な権利を与えてくれている気がした。
東棟へと続く渡り廊下を進む。
窓の外は晴天で、手入れされた中庭の緑が鮮やかだ。
けれど私の左手の薬指には、今日も冷たい銀の輪が嵌まっている。
この指輪の重みが、私が誰の婚約者であるかを絶えず主張してくる。
サロンに近づくにつれ、笑い声が聞こえてきた。
品のない、下世話な笑い声だ。
私は足音を忍ばせたわけではないが、絨毯敷きの廊下が靴音を吸い込んでしまった。
サロンの扉は、指一本分ほど開いていた。
中から漏れ出るタバコの煙と、ワインの匂い。
まだ勤務時間中だというのに。
私はノックをしようとして、手を止めた。
聞き覚えのある声が、私の名前を呼んだからだ。
「──でさ、エリシアのやつ、最近ちょっと生意気なんだよ」
アーネストの声だった。
私は扉の隙間から中を覗くことさえ躊躇われたが、足が凍りついたように動かなかった。
「おっ、クライヴ卿、もしかして喧嘩でもしましたか? あの堅物令嬢と」
「喧嘩? まさか。あいつが僕に逆らえるわけないだろう」
ワイングラスを合わせる音が、カチンと響く。
私は抱えていた書類の束を、胸の前で強く抱きしめた。
革の表紙がギシと音を立てる。それが私の心の悲鳴のようだった。
「ただね、最近ちょっと仕事で褒められたからって、図に乗ってるみたいでさ。殿下の前で出しゃばったりしてね。まあ、僕がうまくコントロールしてるけど」
「さすがですねぇ。でも、あんな地味な女、よく飽きませんね? もっと華やかな令嬢なんていくらでもいるでしょうに」
同僚の男の下卑た問いかけに、一瞬の間があった。
私は息を止める。
彼が何と答えるか。心のどこかで、まだ「彼は私を愛している」という言葉を期待していたのかもしれない。
けれど、聞こえてきたのは、鼻で笑うような乾いた音だった。
「飽きるもなにも、最初から惚れてなんかいないよ」
ドクン、と心臓が早鐘を打った。
全身の血が引いていくのが分かる。
「えっ、そうなんですか? じゃあなんで婚約なんか」
「便利だからさ」
アーネストは、まるで今日の天気の話でもするように、軽快に続けた。
「あいつ、見た目は地味で面白みのかけらもないけど、事務処理能力だけは高いんだ。僕が遊んでる間に、面倒な書類を全部片付けてくれる。しかも文句一つ言わずにね」
「うわぁ、ひでぇ! まさに『便利な道具』扱いじゃないですか」
「人聞きが悪いな。妻の座を用意してやるんだから、それくらいの労働は当然だろう? 家柄もそこそこだし、親同士が決めたことだから、あいつも断れないしね」
ドッと笑い声が上がった。
複数の男たちの笑い声が、扉の隙間から溢れ出し、私を殴りつける。
私はゆっくりと、扉から一歩下がった。
書類を抱える指が白くなるほど力を込めていた。
涙は出なかった。
悲しみも、怒りすらも通り越して、ただ「ああ、やっぱり」という冷ややかな納得だけが、胸の奥にストンと落ちた。
彼は私を見ていなかったのではない。
最初から「便利な道具」としてしか見ていなかったのだ。
私がどれだけ努力しても、どれだけ尽くしても、彼に届かなかった理由が、これ以上ないほど明確になった。
『君を大事にしない奴の気が知れない』
ルシウス様の言葉が蘇る。
あの言葉は、慰めではなかった。
ただの事実だったのだ。
私は左手を見た。
銀の指輪が、廊下の薄暗い光の中で鈍く光っている。
それは愛の誓いではなく、ただの所有の証、あるいは奴隷の鎖だった。
「……そう」
小さく呟いた私の声は、誰にも届かない。
けれど、私自身の耳には、これ以上ないほどはっきりと響いた。
私は踵を返した。
もう、この扉を開けて彼にサインを求める必要はない。
彼の仕事をする必要も、彼のために我慢する必要も、これっぽっちも残っていない。
廊下を引き返す私の足取りは、来る時とは別人のように速かった。
かつ、かつ、と靴音が廊下に響くが、もう気にならなかった。
背後で続く下品な笑い声が、遠ざかっていく。
それと共に、私の中にあった「婚約者としての未練」も、急速に剥がれ落ちていった。
窓から差し込む陽光が、私の顔を照らす。
眩しい。
けれど、その眩しさは、もう私を傷つけない。
私は決めた。
この茶番劇を、私の手で終わらせる。
「便利な女」は今日で死んだのだ。
文官室に戻るまでの短い道のりで、私は一度も振り返らなかった。
手の中の書類が、ただの紙束へと変わっていく。
その重みは、私が今まで背負ってきた「我慢」の重さそのものだった。
そして今、私はそれを床に叩きつける準備を整えつつあった。




