表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第6話 半開きの扉と嘲笑うワイングラス

腰に残る熱い腕の感触が、一晩経っても消えてくれなかった。


私は書類にサインをする手を止め、ふぅ、と小さく息を吐いた。

インクの匂いが漂う文官室は、今日も静かだ。

けれど私の心の中だけは、昨日の資料室での出来事が嵐のように渦巻いていた。

ルシウス様の低い声。『私を使えばいい』という、熱を帯びた言葉。

それを思い出すたびに、胸の奥が締め付けられるように高鳴り、同時に罪悪感がチリチリと肌を刺す。


「……いけないわ。仕事に集中しなくては」


私は首を振り、雑念を振り払うようにペンを走らせた。

目の前には、アーネストが決裁すべき書類が山積みになっている。

彼は今日も席にいない。

「他部署との調整がある」と言い残して出て行ったきり、昼休憩を過ぎても戻ってこなかった。


この書類には、彼の実印が必要だ。期限は今日中。

以前なら、彼が戻るまで机で待ち続け、深夜に残業して処理していただろう。

けれど今の私は、それを「待つ」という選択をしなかった。


私は書類の束を抱え、立ち上がる。

彼がどこにいるのか、おおよその見当はついていた。

最近、若手の文官たちが頻繁に集まっているという、東棟の休憩サロン。

そこは本来、貴族出身の文官たちが交流を深めるための場所だが、実態は勤務時間中のサボり場になっていると噂されていた。


「行ってきます」


誰にともなく告げ、私は部屋を出た。

廊下を歩く足取りは、不思議と重くなかった。

ルシウス様の言葉が、私の中で変化を生んでいたのかもしれない。

『君の処理する書類にはミスがない』。

その評価が、私に「彼を探し出してでも仕事を終わらせる」という正当な権利を与えてくれている気がした。


東棟へと続く渡り廊下を進む。

窓の外は晴天で、手入れされた中庭の緑が鮮やかだ。

けれど私の左手の薬指には、今日も冷たい銀の輪が嵌まっている。

この指輪の重みが、私が誰の婚約者であるかを絶えず主張してくる。


サロンに近づくにつれ、笑い声が聞こえてきた。

品のない、下世話な笑い声だ。


私は足音を忍ばせたわけではないが、絨毯敷きの廊下が靴音を吸い込んでしまった。

サロンの扉は、指一本分ほど開いていた。

中から漏れ出るタバコの煙と、ワインの匂い。

まだ勤務時間中だというのに。


私はノックをしようとして、手を止めた。

聞き覚えのある声が、私の名前を呼んだからだ。


「──でさ、エリシアのやつ、最近ちょっと生意気なんだよ」


アーネストの声だった。

私は扉の隙間から中を覗くことさえ躊躇われたが、足が凍りついたように動かなかった。


「おっ、クライヴ卿、もしかして喧嘩でもしましたか? あの堅物令嬢と」

「喧嘩? まさか。あいつが僕に逆らえるわけないだろう」


ワイングラスを合わせる音が、カチンと響く。

私は抱えていた書類の束を、胸の前で強く抱きしめた。

革の表紙がギシと音を立てる。それが私の心の悲鳴のようだった。


「ただね、最近ちょっと仕事で褒められたからって、図に乗ってるみたいでさ。殿下の前で出しゃばったりしてね。まあ、僕がうまくコントロールしてるけど」

「さすがですねぇ。でも、あんな地味な女、よく飽きませんね? もっと華やかな令嬢なんていくらでもいるでしょうに」


同僚の男の下卑た問いかけに、一瞬の間があった。

私は息を止める。

彼が何と答えるか。心のどこかで、まだ「彼は私を愛している」という言葉を期待していたのかもしれない。


けれど、聞こえてきたのは、鼻で笑うような乾いた音だった。


「飽きるもなにも、最初から惚れてなんかいないよ」


ドクン、と心臓が早鐘を打った。

全身の血が引いていくのが分かる。


「えっ、そうなんですか? じゃあなんで婚約なんか」

「便利だからさ」


アーネストは、まるで今日の天気の話でもするように、軽快に続けた。


「あいつ、見た目は地味で面白みのかけらもないけど、事務処理能力だけは高いんだ。僕が遊んでる間に、面倒な書類を全部片付けてくれる。しかも文句一つ言わずにね」

「うわぁ、ひでぇ! まさに『便利な道具』扱いじゃないですか」

「人聞きが悪いな。妻の座を用意してやるんだから、それくらいの労働は当然だろう? 家柄もそこそこだし、親同士が決めたことだから、あいつも断れないしね」


ドッと笑い声が上がった。

複数の男たちの笑い声が、扉の隙間から溢れ出し、私を殴りつける。


私はゆっくりと、扉から一歩下がった。

書類を抱える指が白くなるほど力を込めていた。

涙は出なかった。

悲しみも、怒りすらも通り越して、ただ「ああ、やっぱり」という冷ややかな納得だけが、胸の奥にストンと落ちた。


彼は私を見ていなかったのではない。

最初から「便利な道具」としてしか見ていなかったのだ。

私がどれだけ努力しても、どれだけ尽くしても、彼に届かなかった理由が、これ以上ないほど明確になった。


『君を大事にしない奴の気が知れない』


ルシウス様の言葉が蘇る。

あの言葉は、慰めではなかった。

ただの事実だったのだ。


私は左手を見た。

銀の指輪が、廊下の薄暗い光の中で鈍く光っている。

それは愛の誓いではなく、ただの所有の証、あるいは奴隷の鎖だった。


「……そう」


小さく呟いた私の声は、誰にも届かない。

けれど、私自身の耳には、これ以上ないほどはっきりと響いた。


私は踵を返した。

もう、この扉を開けて彼にサインを求める必要はない。

彼の仕事をする必要も、彼のために我慢する必要も、これっぽっちも残っていない。


廊下を引き返す私の足取りは、来る時とは別人のように速かった。

かつ、かつ、と靴音が廊下に響くが、もう気にならなかった。

背後で続く下品な笑い声が、遠ざかっていく。

それと共に、私の中にあった「婚約者としての未練」も、急速に剥がれ落ちていった。


窓から差し込む陽光が、私の顔を照らす。

眩しい。

けれど、その眩しさは、もう私を傷つけない。


私は決めた。

この茶番劇を、私の手で終わらせる。

「便利な女」は今日で死んだのだ。


文官室に戻るまでの短い道のりで、私は一度も振り返らなかった。

手の中の書類が、ただの紙束へと変わっていく。

その重みは、私が今まで背負ってきた「我慢」の重さそのものだった。

そして今、私はそれを床に叩きつける準備を整えつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ