第5話 揺れる梯子と確かな腕
金色のインクで記された自分の名前を思い出すたび、指先に微かな熱が宿るような気がした。
私は書類の山を崩さないよう慎重に脇へ寄せ、自分のデスクスペースを確保する。
数日前、王弟殿下の前で私が発言して以来、アーネストの機嫌は最悪だった。彼は私を無視するという、子供じみた報復に出ている。
必要な連絡は全て付箋か部下任せ。視線すら合わせようとしない。
以前の私なら、彼の顔色を窺い、機嫌を取ろうと必死になっていただろう。けれど今は、その静寂がむしろ心地よかった。彼のために無駄な気を使わなくて済む分、業務効率は驚くほど上がっていたからだ。
「……エリシア嬢」
ふと、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、いつの間にかルシウス様がデスクの横に立っていた。
銀縁眼鏡が窓からの午後の光を反射し、表情を読み取らせない。
「は、はい。ルシウス様」
私は反射的に椅子から立ち上がる。
アーネストが少し離れた席で、わざとらしく大きな音を立てて書類をめくったのが聞こえたが、私は無視した。
「先日の税率計算の件で、追加の資料が必要になった。古い通商条約の原本を確認したい」
「承知いたしました。すぐに手配を……」
「いや、保管場所が特殊だ。私が直接行く。君も同行してくれ」
ルシウス様は短く告げると、私の返事を待たずに踵を返した。
上司からの直接指名だ。
私は筆記用具だけを手に取り、彼の背中を追う。
通り過ぎざま、アーネストの刺すような視線を背中に感じたが、不思議と痛みはなかった。
王宮の地下にある第三資料室は、重い鉄扉の向こうにあった。
鍵を開ける金属音が、ひんやりとした廊下に響く。
中に入ると、カビと古紙、そして防虫用の乾燥ハーブの匂いが濃厚に漂っていた。
そこは迷宮のように背の高い書架が立ち並ぶ、静寂の空間だった。
「目的のものは、G列の最上段だ」
ルシウス様が顎で示した先は、天井近くの棚だった。
見上げるほどの高さに、分厚い革表紙の背が並んでいる。
「私が取ります。場所は把握していますので」
私は部屋の隅にあった木製の移動式梯子に手をかけた。
古びた木材が軋む感触が掌に伝わる。
ルシウス様が何か言おうと口を開きかけたが、私はそれを制するように梯子を架け、一段目を踏んだ。
自分の有能さを証明したい。
ただ守られるだけでなく、対等に仕事ができる人間だと、彼にもっと認めてもらいたかった。
スカートの裾を気にしながら、私は慎重に梯子を登っていく。
五段、六段。
視線が高くなり、埃を被った本の背文字が鮮明に見えてくる。
「……これですね」
目的の『東方通商条約・改訂版』を見つけ、私は右手を伸ばした。
指先が背表紙に触れる。
重い。
予想以上の重量に、引き抜くバランスが崩れた。
同時に、古びた梯子の留め具が、悲鳴のような音を立てて外れた。
「あっ──」
足場がぐらりと傾く。
重力が内臓を浮き上がらせる感覚。
視界が回転し、私は硬い床への衝撃を覚悟して目を閉じた。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、ドン、という鈍い衝撃と、鋼のような硬さが背中を受け止めた。
「……無茶をする」
頭上から降ってきたのは、呆れたような、けれど焦燥を含んだ低い声だった。
私は恐る恐る目を開ける。
視界いっぱいに、ルシウス様の整った顎のラインがあった。
彼は私を背後から抱きとめる形で、右腕を私の腰に強く回し、左手で傾いた梯子を支えていた。
近い。
あまりにも近すぎる。
背中に触れている彼の胸板の厚みと、そこから伝わる体温が、ドレスの生地越しに私の肌を焼くようだ。
彼の心臓の音が、トクン、トクンと、私の鼓動とシンクロするように響いている。
「あ、あの……ルシウス様……」
「動くな。まだ梯子が安定していない」
彼は私の耳元で囁くと、私を抱えたまま慎重に体勢を立て直した。
その吐息が首筋にかかり、背筋に電流が走る。
珈琲の苦い香りと、清潔な石鹸の匂い。
アーネストの甘ったるい香水とは違う、大人の男性の匂いが鼻孔を満たした。
梯子を壁に戻し終えても、彼の腕は解かれなかった。
私の足はすでに床に着いているのに、腰に回された腕は、まるで私を逃がさない鎖のように固定されている。
「……怪我は?」
「あ、ありません。ありがとうございます……」
声が震えた。
恐怖からではない。
今まで「怖い上司」だと思っていた彼の腕の中が、恐ろしいほど安心できて、同時に心臓が破裂しそうなほど高鳴っていることへの戸惑いからだった。
彼は私をゆっくりと解放し、私の顔を覗き込むようにした。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、僅かに揺れている。
いつも冷徹な彼が、こんなにも人間臭い、心配そうな表情をするなんて。
「……君は、頑張りすぎる」
彼は私の乱れた前髪を、大きくて無骨な指先でそっと払った。
その優しい接触に、私は息を呑む。
指先が額に触れた一瞬、時間が止まった気がした。
「仕事への熱意は評価する。だが、自分の身を危険に晒してまで証明する必要はない」
「で、ですが……私は、役立たずだと思われたくなくて……」
「誰がそんなことを思う」
彼は私の言葉を遮り、強い口調で言った。
そして、一歩踏み出し、私との距離を詰める。
背後の書架に私の背中が当たる。
逃げ場のない、完全な密室。
「私は君を高く買っている。……仕事だけではない」
彼の声が、一段低くなった。
その響きが、鼓膜ではなく、直接心臓を揺さぶる。
「もっと頼れ。重い荷物も、高い場所にある本も、……理不尽な婚約者も」
最後の言葉に、私ははっと顔を上げた。
彼は全てを見透かしている。
私がアーネストに冷遇されていることも、それでも平気なふりをしていることも。
「私を使えばいい。……君のためなら、私はいくらでも踏み台になる」
それは、上司が部下にかける言葉の範疇を越えていた。
彼の瞳にある熱は、明らかに「承認」以上のもの──焦がれるような「渇望」の色を帯びていた。
私は唇を開きかけたが、言葉が出なかった。
ただ、彼の熱量に当てられたように、顔が熱くなるのを感じる。
左手の薬指にある銀の指輪が、今はただの冷たい枷にしか感じられない。
目の前にいるこの人の腕の温もりの方が、今の私にはずっとリアルで、切実な救いに思えた。
「……本を、回収しましょう」
彼がふいに視線を逸らし、咳払いをしたことで、魔法のような緊張が解けた。
彼は私から離れ、軽々と手を伸ばして、先ほどの条約書を取り出した。
その動作の滑らかさに、私は自分の無力さと、守られることの甘美さを同時に噛み締める。
資料室を出る時、私の足取りは行きよりも不安定だった。
書類を抱える指先が、微かに震えている。
それは恐怖ではなく、胸の奥で暴れ始めた、名前のつけられない感情のせいだった。
廊下の冷たい空気が火照った頬を撫でる。
私は隣を歩く彼の横顔を、盗み見る。
彼はもういつもの鉄面皮に戻っていたけれど、私の腰にはまだ、彼の腕の感触が幽霊のように残っていた。
この動悸は、梯子から落ちかけた恐怖のせいだ。
そう自分に言い聞かせても、心の奥の小さな声が否定する。
私は、この人に触れられて、嬉しかったのだと。




