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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第4話 金色の署名と奪われかけた誇り

枯れた花束をゴミ箱に捨てた時の、乾いた音がまだ耳に残っていた。


私は早足で歩くアーネストの背中を追いかけながら、抱えた資料の束を胸に押し付けた。

革表紙の冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。

呼吸を整える暇もない。

十分前、文官室に飛び込んできた王宮侍従が告げた言葉が、私の日常を強制的に中断させたのだ。


「王弟殿下が、提出された『国境交易税に関する試算書』について説明を求めておられます。担当官は直ちに出頭するように」


その報告書は、三日前の深夜、私がアーネストの机で仕上げたものだった。

彼は「君の練習のために任せるよ」と言って私に丸投げし、自分は夜会へと出かけていった。

私は一睡もせずに数字を精査し、過去十年の判例を紐解き、完璧な書類を作り上げた。

提出者の欄には、当然のように『アーネスト・クライヴ』の署名を入れて。


「いいかい、エリシア。余計なことは言わなくていい」


前を行くアーネストが、立ち止まらずに肩越しに振り返った。

その顔には、隠しきれない焦燥と、脂汗が滲んでいる。


「殿下は細かい数字について聞きたいだけだ。僕が概要を説明するから、君は横で頷いていればいい。万が一、僕が失念している詳細なデータを聞かれた時だけ、補足しなさい」

「……はい、承知いたしました」


私は短く答え、視線を床に落とした。

いつものことだ。

彼の手柄になることも、私が「補佐」という名目で実務を肩代わりすることも。

それが婚約者の務めであり、優秀な彼を支える私の喜びだと思っていた。

つい数日前までは。


「急ごう。殿下をお待たせするわけにはいかない」


彼は私の返事を聞くと、安心したように再び速度を上げた。

自分が内容を理解していない書類の説明を求められているというのに、彼には「私がなんとかする」という確信があるのだろう。

その無自覚な依存が、今はひどく重苦しい。


謁見の間の重厚な扉が見えてくる。

衛兵が槍を引き、扉がゆっくりと開かれた。

豪奢な深紅の絨毯。天井から吊るされた巨大なシャンデリア。

そして、部屋の中央にある執務机の向こうに、この国の王弟殿下が座っていた。

その傍らには──見慣れた長身の影があった。


ルシウス様だ。

彼は法務官として、殿下の補佐に就いているのだろう。

目が合った瞬間、彼は微かに眉を動かした気がしたが、すぐに無表情に戻った。


「失礼いたします。文官のアーネスト・クライヴです」

「その婚約者、エリシア・ヴァレンシュタインでございます」


私たちは並んで礼をとる。

カーペットの毛足に沈む靴の感覚が、ここが日常とは違う場所であることを告げている。


「うむ。楽にせよ」


王弟殿下は、手元の書類から顔を上げた。

四十代半ばの、理知的だが鋭い眼光を持つ方だ。その手には、私が見慣れた筆跡で埋められた報告書が握られている。


「クライヴ卿。この試算書は見事だ。特に、関税率の変動リスクを『季節ごとの天候不順』という変数まで組み込んで計算している点は素晴らしい。これまでの文官たちは、ここを見落としていた」


殿下の言葉に、アーネストの背中がピクリと反応した。

彼はすぐに顔を上げ、誇らしげな笑みを浮かべる。


「あ、ありがとうございます! 光栄の至りでございます。国の利益を第一に考え、不眠不休で仕上げた甲斐がありました」


滑らかな嘘だった。

不眠不休で働いたのは私だ。彼はその間、社交クラブでグラスを傾けていたはずだ。

私は奥歯を噛み締め、俯いたまま表情を殺す。

慣れているはずの痛みが、今日はやけに鮮明だった。

ルシウス様がこちらを見ているのを感じる。その視線が、私の沈黙を問い詰めているようで、居心地が悪い。


「うむ。そこで一つ聞きたいのだが」


殿下がページをめくり、特定の箇所を指差した。


「この第4章にある『北部山岳地帯の輸送コスト削減案』だが、君はここで『雪解け時期の河川利用』を提案しているな。しかし、あの川は水流が激しく、座礁のリスクがあるはずだ。その対策はどう考えている?」


部屋の空気が凍りついた。

アーネストの笑顔が引きつるのが、横目で見ても分かった。

彼はそのページを読んでさえいない。

「河川利用」などという単語が書かれていることすら、今初めて知ったはずだ。


「え、ええと……それは、ですね。その……現地の、専門家と協議し……」


彼の声が上ずる。

額から汗が流れ落ちるのが見えた。

殿下の目が、怪訝そうに細められる。

沈黙が落ちる。

一秒が永遠のように長い。

このまま彼が答えられなければ、彼の評価は地に落ちる。それは婚約者である私の評価にも関わることだ。


私は小さく息を吸い込んだ。

条件反射のように、体が動いてしまう。


「……恐れながら、殿下」


私は一歩前に出た。

アーネストが、溺れる者が藁を掴むような目で私を見る。


「補佐のエリシアより、補足説明をさせていただきます。その件につきましては、資料の別紙7ページにご覧いただけます通り、『新型の平底船』の導入を前提としております。これは従来の船よりも喫水が浅く、急流でも安定した航行が可能です。既に北部の商工ギルドとは試験運用の合意が取れております」


殿下は慌てて別紙をめくり、該当箇所を確認した。

そして、感心したように唸る。


「なるほど……。ギルドとの調整まで済んでいるのか。完璧だな」

「はっ、はい! その通りです!」


アーネストがすぐに勢いを取り戻し、私の言葉に便乗した。


「彼女の言う通り、私の指示でそのように手配させました。細部まで抜かりはありません」


殿下は満足げに頷き、ペンを取った。

決裁のサインをしようとする。

この書類が通れば、アーネストの手柄として記録され、彼の昇進は確実になるだろう。私はまた、彼の影として消費される。


「──お待ちください、殿下」


凛とした声が、署名を止めさせた。

ルシウス様だった。

彼は一歩前に進み出ると、銀縁眼鏡の位置を正しながら、冷静に口を開いた。


「この書類の作成者欄を、訂正する必要がございます」

「何? どういうことだ、アルベルト卿」

「クライヴ卿の発言には矛盾があります。先ほどの『ギルドとの合意』ですが、その交渉記録の日付を確認しましたところ、クライヴ卿が長期休暇を取得されていた期間と重なっております」


ルシウス様の手には、別の書類束があった。

それは文官室の出勤記録簿だった。


「休暇中に、これほど緻密な交渉と計算を行うことは不可能です。あるいは、クライヴ卿は休暇を返上して、記録に残らない場所で執務をされていたのでしょうか?」


「そ、それは……!」


アーネストが狼狽する。

反論できるはずがない。彼はその期間、友人の別荘で狩りを楽しんでいたのだから。


ルシウス様は冷徹な眼差しをアーネストに向けた後、ゆっくりと私へと視線を移した。


「さらに、この試算書の筆跡、および計算式の独特な展開方法は、文官補佐エリシア嬢のものと一致します。彼女は先週、夜遅くまで資料室に残り、過去の判例を調べていました。私はそれを見ています」


「ルシウス様……」


私は息を飲んだ。

彼は見ていたのだ。

私が一人で埃まみれの資料と格闘していた夜を。誰にも気づかれていないと思っていた時間を。


殿下の視線が、アーネストから私へと移る。

その瞳の色が変わった。ただの付属品を見る目から、有能な実務家を見る目へと。


「……事実か? レディ・ヴァレンシュタイン。これを作成したのは、そなたか」


問いかけられ、私は喉を鳴らした。

ここで「いいえ、アーネスト様の指示です」と言うのが、今までの私だった。婚約者を立て、波風を立てない正解。

けれど。


『君を大事にしない奴の気が知れない』


ルシウス様の言葉が背中を押す。

私は左手の指輪を握りしめ、顔を上げた。


「……はい、殿下。僭越ながら、その試算およびギルドとの折衝案は、私が考案し、作成いたしました」


初めて言った。

自分の仕事を、自分のものだと。

隣でアーネストが息を飲む音が聞こえたが、私は彼を見なかった。


「そうか。……素晴らしい才能だ」


殿下は力強く頷き、書類の表紙にある『作成者』の欄に二重線を引き、その横にさらさらとペンを走らせた。


『Elysia Wallenstein』


金色のインクで、私の名前が記される。

公式文書に、補佐ではなく、作成者として。


「クライヴ卿。部下の育成も重要だが、他者の成果を自らのものと誤認させる報告は感心せぬな。この件、評価は彼女に帰属させる」

「は……はっ! 申し訳ございません……!」


アーネストは顔を真っ赤にして、深く頭を下げた。

屈辱に歪むその横顔を見ても、私の心は驚くほど静かだった。


謁見が終わり、私たちは退出した。

重い扉が閉まった瞬間、アーネストが私に向き直った。


「エリシア! どうしてあんな余計なことを……!」


怒鳴ろうとした彼の声を、背後からの足音が遮った。

ルシウス様が出てきたのだ。

彼はアーネストを一瞥もしなかった。ただ、私の目の前で立ち止まり、静かに言った。


「良い仕事だった。あの計算式は美しい」


それだけ言うと、彼は風のように去っていった。

たった一言。

けれどその言葉は、アーネストのどんな甘い愛の言葉よりも、私の胸の奥深くに響き、熱を持たせた。


私は自分の両手を見つめる。

インクの染みがついた指先。

それは恥ずべきものではなく、私が私であるための誇りの証なのだと、初めて思えた。


「……行きましょう、アーネスト様。仕事がまだ残っています」


私は呆然とする彼を置いて、先に歩き出した。

その足取りは、来る時よりもずっと軽かった。

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