第3話 謝罪の花束と透き通った嘘
借りていた上着をクリーニングに出さずに返した時の、ルシウス様の拍子抜けするほど淡々とした「ああ、受け取ろう」という声を思い出しながら、私は羽ペンをインク壺に浸した。
あの日から二日が過ぎていた。
深夜のホットミルクの温もりと、彼が低い声で告げた「急務などなかった」という事実。その二つが、私の胸の中で小さな棘となって突き刺さったまま、抜け落ちずにいる。
カツ、カツ、と軽快な足音が近づいてくる。
私はそのリズムを聞いただけで、誰だか分かってしまう自分が恨めしかった。
顔を上げる前から、胃のあたりが重く沈む。
「エリシア、やっと見つけた」
私のデスクの前に立ったのは、今日も完璧に身だしなみを整えたアーネストだった。
彼は柔らかな亜麻色の髪を揺らし、人当たりの良い、そして私がかつて「太陽のようだ」と感じていた笑顔を浮かべている。
その手には、どこかの花壇から摘んできたような、小さな花束が握られていた。
「アーネスト様……」
私はペンを置き、椅子から立ち上がる。
反射的に浮かべた微笑みは、もはや訓練された条件反射だった。
内心でどれだけ彼を疑っていても、私の体は「従順な婚約者」として振る舞うことをやめられない。その習い性が、今はひどく疎ましかった。
「ごめんよ、一昨日は。本当に申し訳なかった」
彼は私の手を取り、その甲に芝居がかったキスを落とす。
触れられた皮膚が、ちり、と粟立った。
以前ならときめきを感じていたはずのその行為が、今は濡れた爬虫類に触れられたような違和感しか生まない。
「……お忙しかったのですか?」
震えそうになる声を抑え、私は短く問いかけた。
これが審問だとは気づかず、彼は滑らかに言葉を紡ぎ始める。
「ああ、参ったよ。部下がとんでもない計算ミスをしてね。その尻拭いで、地方の出先機関まで緊急の伝令を出さなきゃならなかったんだ。君も知っているだろう? あの部署の連中は要領が悪くて」
彼は肩をすくめ、困ったように眉を下げて見せる。
その表情はあまりに自然で、練習を重ねた舞台俳優のようだった。
呼吸をするように、彼は嘘をつく。
──嘘だ。
私の中で、何かが音を立てて冷えていくのを感じた。
ルシウス様は言っていた。「急務は発生していない」と。
王宮の全業務を統括・調整する筆頭文官の言葉と、自分を正当化するために部下を貶める婚約者の言葉。
どちらが真実かなど、考えるまでもなかった。
「……そう、でしたの。それは大変でしたね」
私は引きつりそうになる頬を必死に保ちながら、彼の手から花束を受け取った。
茎の切り口が乾いている。
おそらく、ここに来る途中で王宮の庭師に頼んで切ってもらったものだろう。記念日のプレゼントを用意していなかった埋め合わせにしては、あまりにも即興で、安直だった。
「分かってくれるかい? 君ならそう言ってくれると思ったよ。エリシアは僕の一番の理解者だからね」
彼は安堵の息を吐き、満足げに私の肩を抱いた。
その馴れ馴れしい重みに、私は呼吸を止める。
香水の匂いがした。
私の知らない、甘ったるい花の香り。
部下の尻拭いで徹夜をした人間から、こんな匂いがするはずがない。
「それにしても、この書類の山はどうだい。君の優秀さにはいつも助けられているよ」
彼は話題を変えるように、私の机の上に積まれた決裁書類を指先で弾いた。
その書類の半分以上は、彼が本来やるべき仕事だ。
私が何も言わずに処理していることを、彼は「感謝」しているのではない。「便利だ」と思っているだけなのだ。
ふと、視線を感じて顔を向ける。
部屋の奥、上席文官のエリア。
ガラス越しの席に、ルシウス様の姿があった。
彼は書類に向かっていたが、その手は止まっていた。銀縁眼鏡の奥の鋭い瞳が、じっとこちらを見ている気がした。
あの夜、彼がミルクを淹れてくれた時の、無骨だが温かい沈黙を思い出す。
彼は嘘をつかなかった。
私の惨めな姿を見ても、嘲笑わず、ただ事実だけを告げて、守ってくれた。
もし、目の前のこの男がルシウス様だったなら──。
不敬な比較が脳裏をよぎる。
ルシウス様なら、自分のミスを部下のせいにしたりはしない。
約束を破れば、言い訳を並べる前に頭を下げるだろう。
そして何より、こんな萎びた花束で、私の傷ついた心を誤魔化せるとは思わないはずだ。
「……アーネスト様」
私は花束を机の隅に置き、彼の手を肩から外した。
その動作に、彼は少しだけ怪訝な顔をする。
拒絶されることなど想定していない、傲慢な子供の顔だ。
「どうしたんだい?」
「いいえ。ただ、業務中ですので。……部長に見咎められますわ」
私はルシウス様の席の方へ視線を流すふりをした。
アーネストは「ああ、あの堅物か」と嫌そうに鼻を鳴らし、一歩離れた。
「分かったよ。じゃあ、週末にでも埋め合わせをしよう。今度は絶対に空けておくから」
「……ええ。楽しみにしています」
嘘だ。
彼も、私も。
彼は約束を守る気などないし、私は楽しみになどしていない。
私たちの間にある言葉は、まるで薄氷のように透き通っていて、踏み込めばすぐに割れてしまう空虚なものだった。
「じゃあ、頼んだよ。これ、急ぎだから」
彼は去り際に、自分が持っていたファイルの一束を、当然のように私の机に追加した。
そして、爽やかな笑顔を残して、自分の席──あるいは、誰かとの密会場所へ──と戻っていった。
残されたのは、乾いた花束と、増えた仕事。
そして、完全に冷めきった私の心だけだった。
私は机上の書類に手を伸ばす。
紙の端が指に触れる感触だけが、唯一の確かな現実だった。
『君を大事にしない奴の気が知れない』
あの低い声が、呪いのようにリフレインする。
私は左手の指輪を親指で強く押した。
銀の輪が肉に食い込み、微かな痛みを与える。
その痛みが、私に教えていた。
この関係はもう、修復不可能なところまで来ているのだと。
私は顔を上げ、部屋の奥を見た。
ルシウス様はもうこちらを見ていなかった。
その背中は遠く、けれどアーネストの隣にいる時よりも、なぜか近くに感じられた。
私は小さく息を吐き、ペンの先をインク壺に突き立てた。
今はまだ、気づかないふりをしよう。
この決定的な亀裂が、いつか崩落するその時まで。
私は静かに、しかし確実に、彼を見限る準備を始めていた。
「……この花、水揚げしても無駄ね」
呟いた声は、驚くほど冷静だった。
私は花束を視界の端に追いやり、冷徹な計算式が並ぶ帳簿へと意識を切り替えた。
数字は裏切らない。
今の私に必要なのは、甘い言葉ではなく、確かな結果だけだった。




