表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/12

第3話 謝罪の花束と透き通った嘘

借りていた上着をクリーニングに出さずに返した時の、ルシウス様の拍子抜けするほど淡々とした「ああ、受け取ろう」という声を思い出しながら、私は羽ペンをインク壺に浸した。


あの日から二日が過ぎていた。

深夜のホットミルクの温もりと、彼が低い声で告げた「急務などなかった」という事実。その二つが、私の胸の中で小さな棘となって突き刺さったまま、抜け落ちずにいる。


カツ、カツ、と軽快な足音が近づいてくる。

私はそのリズムを聞いただけで、誰だか分かってしまう自分が恨めしかった。

顔を上げる前から、胃のあたりが重く沈む。


「エリシア、やっと見つけた」


私のデスクの前に立ったのは、今日も完璧に身だしなみを整えたアーネストだった。

彼は柔らかな亜麻色の髪を揺らし、人当たりの良い、そして私がかつて「太陽のようだ」と感じていた笑顔を浮かべている。

その手には、どこかの花壇から摘んできたような、小さな花束が握られていた。


「アーネスト様……」


私はペンを置き、椅子から立ち上がる。

反射的に浮かべた微笑みは、もはや訓練された条件反射だった。

内心でどれだけ彼を疑っていても、私の体は「従順な婚約者」として振る舞うことをやめられない。その習い性が、今はひどく疎ましかった。


「ごめんよ、一昨日は。本当に申し訳なかった」


彼は私の手を取り、その甲に芝居がかったキスを落とす。

触れられた皮膚が、ちり、と粟立った。

以前ならときめきを感じていたはずのその行為が、今は濡れた爬虫類に触れられたような違和感しか生まない。


「……お忙しかったのですか?」


震えそうになる声を抑え、私は短く問いかけた。

これが審問だとは気づかず、彼は滑らかに言葉を紡ぎ始める。


「ああ、参ったよ。部下がとんでもない計算ミスをしてね。その尻拭いで、地方の出先機関まで緊急の伝令を出さなきゃならなかったんだ。君も知っているだろう? あの部署の連中は要領が悪くて」


彼は肩をすくめ、困ったように眉を下げて見せる。

その表情はあまりに自然で、練習を重ねた舞台俳優のようだった。

呼吸をするように、彼は嘘をつく。


──嘘だ。


私の中で、何かが音を立てて冷えていくのを感じた。

ルシウス様は言っていた。「急務は発生していない」と。

王宮の全業務を統括・調整する筆頭文官の言葉と、自分を正当化するために部下を貶める婚約者の言葉。

どちらが真実かなど、考えるまでもなかった。


「……そう、でしたの。それは大変でしたね」


私は引きつりそうになる頬を必死に保ちながら、彼の手から花束を受け取った。

茎の切り口が乾いている。

おそらく、ここに来る途中で王宮の庭師に頼んで切ってもらったものだろう。記念日のプレゼントを用意していなかった埋め合わせにしては、あまりにも即興で、安直だった。


「分かってくれるかい? 君ならそう言ってくれると思ったよ。エリシアは僕の一番の理解者だからね」


彼は安堵の息を吐き、満足げに私の肩を抱いた。

その馴れ馴れしい重みに、私は呼吸を止める。

香水の匂いがした。

私の知らない、甘ったるい花の香り。

部下の尻拭いで徹夜をした人間から、こんな匂いがするはずがない。


「それにしても、この書類の山はどうだい。君の優秀さにはいつも助けられているよ」


彼は話題を変えるように、私の机の上に積まれた決裁書類を指先で弾いた。

その書類の半分以上は、彼が本来やるべき仕事だ。

私が何も言わずに処理していることを、彼は「感謝」しているのではない。「便利だ」と思っているだけなのだ。


ふと、視線を感じて顔を向ける。

部屋の奥、上席文官のエリア。

ガラス越しの席に、ルシウス様の姿があった。

彼は書類に向かっていたが、その手は止まっていた。銀縁眼鏡の奥の鋭い瞳が、じっとこちらを見ている気がした。

あの夜、彼がミルクを淹れてくれた時の、無骨だが温かい沈黙を思い出す。

彼は嘘をつかなかった。

私の惨めな姿を見ても、嘲笑わず、ただ事実だけを告げて、守ってくれた。


もし、目の前のこの男がルシウス様だったなら──。


不敬な比較が脳裏をよぎる。

ルシウス様なら、自分のミスを部下のせいにしたりはしない。

約束を破れば、言い訳を並べる前に頭を下げるだろう。

そして何より、こんな萎びた花束で、私の傷ついた心を誤魔化せるとは思わないはずだ。


「……アーネスト様」


私は花束を机の隅に置き、彼の手を肩から外した。

その動作に、彼は少しだけ怪訝な顔をする。

拒絶されることなど想定していない、傲慢な子供の顔だ。


「どうしたんだい?」

「いいえ。ただ、業務中ですので。……部長に見咎められますわ」


私はルシウス様の席の方へ視線を流すふりをした。

アーネストは「ああ、あの堅物か」と嫌そうに鼻を鳴らし、一歩離れた。


「分かったよ。じゃあ、週末にでも埋め合わせをしよう。今度は絶対に空けておくから」

「……ええ。楽しみにしています」


嘘だ。

彼も、私も。

彼は約束を守る気などないし、私は楽しみになどしていない。

私たちの間にある言葉は、まるで薄氷のように透き通っていて、踏み込めばすぐに割れてしまう空虚なものだった。


「じゃあ、頼んだよ。これ、急ぎだから」


彼は去り際に、自分が持っていたファイルの一束を、当然のように私の机に追加した。

そして、爽やかな笑顔を残して、自分の席──あるいは、誰かとの密会場所へ──と戻っていった。


残されたのは、乾いた花束と、増えた仕事。

そして、完全に冷めきった私の心だけだった。


私は机上の書類に手を伸ばす。

紙の端が指に触れる感触だけが、唯一の確かな現実だった。


『君を大事にしない奴の気が知れない』


あの低い声が、呪いのようにリフレインする。

私は左手の指輪を親指で強く押した。

銀の輪が肉に食い込み、微かな痛みを与える。

その痛みが、私に教えていた。

この関係はもう、修復不可能なところまで来ているのだと。


私は顔を上げ、部屋の奥を見た。

ルシウス様はもうこちらを見ていなかった。

その背中は遠く、けれどアーネストの隣にいる時よりも、なぜか近くに感じられた。

私は小さく息を吐き、ペンの先をインク壺に突き立てた。


今はまだ、気づかないふりをしよう。

この決定的な亀裂が、いつか崩落するその時まで。

私は静かに、しかし確実に、彼を見限る準備を始めていた。


「……この花、水揚げしても無駄ね」


呟いた声は、驚くほど冷静だった。

私は花束を視界の端に追いやり、冷徹な計算式が並ぶ帳簿へと意識を切り替えた。

数字は裏切らない。

今の私に必要なのは、甘い言葉ではなく、確かな結果だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ