第2話 深夜のホットミルクと借り物の温もり
重たい扉が背後で閉まり、雨音が遠い世界の出来事のように遮断された。
私は王宮文官棟の廊下に立ち尽くし、髪の先から滴る雫が床に黒い染みを作っていくのをぼんやりと見つめていた。
石造りの廊下は冷え切っていて、濡れた衣服が肌に張り付く不快感をより一層際立たせる。
三度目の記念日は、泥と雨水にまみれて終わった。その事実が、冷気よりも鋭く胸を刺す。
「……仕事、しなくちゃ」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた声は、震えていた。
こんな惨めな姿で帰宅するわけにはいかない。それに、ここにはまだアーネストが残していった書類の山があるはずだ。
仕事をしていれば、余計なことを考えずに済む。
私は濡れた靴音を響かせないよう、慎重につま先で歩き出した。
文官室の扉は、廊下の突き当たりにある。
深夜の王宮は静まり返り、壁に設置された魔導ランプの光だけが、青白く揺らめいていた。
私は冷え切った指先でノブを握り、ゆっくりと回す。
鍵は開いていた。
中に入ると、馴染み深いインクと古い紙の匂いが鼻孔をくすぐる。それは私にとって、香水の香りよりも落ち着く、日常の匂いだった。
部屋は暗い──そう思っていた。
しかし、部屋の最奥、上席文官たちが座る区画にだけ、小さな明かりが灯っていた。
「……誰だ」
静寂を裂くような、低く、硬質な声。
私は肩をびくりと震わせ、反射的に身を竦めた。
デスクライトの光の中に、書類に視線を落としたままの男の姿が浮かび上がっている。
銀縁の眼鏡。整えられた黒髪。そして、感情を削ぎ落としたような端正な横顔。
ルシウス・アルベルト先任文官。
法務と調整を担当する王宮文官の筆頭であり、私の上司にあたる人物だった。
「も、申し訳ありません……エリシアです。忘れ物を取りに……」
嘘をついた。
濡れ鼠の令嬢が深夜に現れる理由として、それが精一杯の取り繕いだった。
ルシウス様が、ペンを走らせていた手を止め、顔を上げる。
眼鏡の奥にある灰色の瞳が、私を捉えた。
その視線が、私の濡れた髪、水を含んで重くなったドレス、泥の跳ねた靴先へと、値踏みするように滑り落ちる。
私はスカートの裾を握りしめた。
指先から絞り出された冷たい水が、床に落ちる。
見られたくなかった。
よりによって、職場でも一際厳格で、「氷のようだ」と噂されるこの人に、こんな無様な姿を見られるなんて。
「……エリシア嬢」
彼は短く私の名を呼び、音もなく椅子から立ち上がった。
背が高い。
普段は遠くから背中を見ているだけだから忘れていたけれど、近づいてくる彼が纏う空気は、威圧的というよりは、巨大な岩のような安定感があった。
「その姿は、なんだ」
問いかけは淡々としていて、非難の色はない。
けれど、事実だけを突きつけられるその口調に、私は言葉を詰まらせた。
「雨に、降られまして」
「見ればわかる。私が聞いているのは、なぜ傘もささずに、こんな時間まで外にいたのかということだ」
「それは……」
アーネストが来なかったからです。
そう言えれば、どれほど楽だろう。
けれど、婚約者の不実を職場で言い触らすような真似は、私のプライドが許さなかった。それに、もしそんなことを言えば、アーネストの評価に傷がつくかもしれない。
私は唇を引き結び、視線を床に落とした。
「……馬車が、捕まらなくて」
苦しい言い訳だった。
沈黙が落ちる。
雨音だけが、窓の外で小さく響いている。
彼に見放されたらどうしよう、と不安が胸をよぎった時、視界の上から何かがふわりと降りてきた。
温かさと、微かな珈琲の香り。
驚いて顔を上げると、私の肩には分厚い黒の上着がかけられていた。
ルシウス様が着ていた、仕立ての良いフロックコートだ。
「え、あの、ルシウス様……?」
「濡れる」
彼は短くそう言い捨てると、私の濡れた肩ごとコートの襟を合わせるようにして、前を軽く閉じた。
彼の体温が残っている裏地が、凍えた肌に直接触れる。
その熱が、皮膚の下までじんわりと染み込んでいくのを感じて、私は思わず小さく息を漏らした。
「座っていろ。今、何か温かいものを用意する」
「い、いえ、そんな! これ以上ご迷惑を……」
「命令だ。補佐官が風邪で倒れれば、業務に支障が出る」
反論を許さない口調だった。
彼は私の返事を待たず、部屋の隅にある給湯スペースへと歩き出した。
その背中は、迷いがなく、機能的だ。
私は言われた通り、自分のデスクの椅子ではなく、来客用のソファの端に浅く腰を下ろした。
借りたコートは私には大きすぎて、袖から指先すら出ない。まるで子供が父親の服を着ているようだ。
けれど、その重みが不思議と心地よかった。
カチャカチャと、陶器が触れ合う音が聞こえる。
私は膝の上で、冷え切った両手を重ね合わせた。
左手の薬指にある銀の指輪が、今はひどく冷たく、異物に感じられた。
アーネストは今頃、何をしているのだろう。
急な仕事が入ったのなら、文官棟にいるはずだ。でも、彼の席は暗い。
他の部署へ行っているのか、それとも……。
悪い想像を振り払うように、私は頭を振った。
その時、目の前に湯気を立てるマグカップが差し出された。
「ミルクだ。砂糖を入れてある」
ルシウス様が、片手に自分の珈琲、もう片手に白いマグカップを持って立っていた。
私は慌てて立ち上がろうとしたが、彼が視線で制する。
「ありがとうございます……」
恐る恐るカップを受け取る。
温かい。
掌から伝わる熱が、冷え切った指の関節を一つずつ解凍していくようだ。
私はカップに口をつけた。
甘い。
蜂蜜の香りがする温かいミルクが、喉を通り、胃の中に落ちていく。その熱源が体の芯に灯った瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた気がした。
「……美味しい、です」
「そうか」
ルシウス様は私の向かいの椅子に腰を下ろし、黒い珈琲を一口飲んだ。
そして、それきり何も言わない。
ただ静かに、書類の束をサイドテーブルから引き寄せ、目を通し始めた。
私はその沈黙に救われていた。
何かを聞かれれば、きっと嘘をつくか、泣いてしまうか、どちらかだっただろう。
彼は何も聞かない。
ただ、そこにいて、私が温まるのを待ってくれている。
給湯室の魔導コンロの火を落とし忘れていないか、後で確認しなくては──そんなどうでもいい思考が頭を掠める。
思考が日常に戻りつつある証拠だった。
私はカップの縁越しに、彼の横顔を盗み見た。
眼鏡の奥の瞳は、書類の文字を追っている。
その表情は、いつもの職務中と変わらない、厳格なものだ。
けれど、私にかけてくれたコートは、最上級の生地で、とても温かい。
不器用な優しさ、という言葉がふと浮かんだ。
「……今日は」
不意に、彼が口を開いた。
視線は書類に向けられたままだ。
「今日は、記念日だったのではないか」
心臓が跳ねた。
私はカップを持つ手を止める。
なぜ、それを知っているのだろう。
私は職場では私的な話をほとんどしない。アーネストも同様のはずだ。
「……ええ。そうです」
「そうか」
彼はページをめくった。
紙の擦れる音が、静かな部屋に響く。
「記念日に、婚約者を雨の中に放置するような急務は、私の把握している限り、今日の王宮には発生していない」
淡々とした事実の提示だった。
それは、私が必死に自分に言い聞かせてきた「仕事だから仕方ない」という理屈を、粉々に打ち砕く宣告でもあった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
「……彼にも、事情があったのだと思います」
「事情、か」
ルシウス様は眼鏡の位置を指で直しながら、小さく息を吐いた。
そして、初めて書類から目を離し、私を真っ直ぐに見据えた。
「エリシア嬢。君は優秀だ」
「え……?」
「君の処理する書類にはミスがない。判断も的確で、他者への配慮も行き届いている。それは、誰にでもできることではない」
突然の評価に、私は目を瞬かせた。
いつも「遅い」「もっと効率的に」と叱責されることはあっても、褒められた記憶などほとんどない。
アーネストでさえ、「君は僕の補佐として役に立つ」とは言ってくれても、私の能力そのものを認めてくれたことはなかった。
「……ありがとうございます。でも、私はただ、アーネスト様の指示に従っているだけで……」
「謙遜は美徳だが、過剰な自己卑下は事実を歪める」
彼はきっぱりと言い切った。
そして、カップの中身が空になっているのを確認すると、立ち上がって私の手からそれを回収した。
「君を大事にしない奴の気が知れない」
ボソリと、独り言のように彼が呟いた。
その声はあまりに小さく、雨音にかき消されそうだったけれど、私の耳には痛いほど鮮明に届いた。
「え……?」
「もう遅い。今日は家まで送らせる」
彼は私の問いには答えず、壁際のベルを鳴らして王宮の御者を手配し始めた。
その背中は、先ほどよりも少しだけ頑なに見えた。
「君を大事にしない奴」。
その言葉が、胸の中で反響する。
アーネストは私を大事にしていないのだろうか。
私は愛されていると信じていた。必要とされていると信じていた。
でも、今日の雨の中での二時間は、そしてこの温かいミルクとコートは、どちらが「大事にされている」状態なのだろう。
私は借りたコートの襟を、ぎゅっと握りしめた。
そこには、アーネストからは一度も感じたことのない、安心できる匂いが染み付いていた。
御者が到着するまでの間、私たちはまた沈黙を守った。
けれど、その沈黙はもう、入室した時のような冷たいものではなかった。
私は自分の濡れたハンカチを鞄の奥に押し込んだまま、ルシウス様の背中を見つめていた。
彼となら、きっと雨の中でも濡れずに済んだのだろうか。
そんな許されない想像が、湯気のように立ち上っては消えていく。
「……準備はいいか」
「はい」
私は立ち上がり、コートを脱ごうとした。
けれど、彼は手でそれを制した。
「着ていけ。風邪を引かれたら困る」
「ですが……」
「明日、返してくれればいい。クリーニングは不要だ」
有無を言わせない強引さに、私は苦笑して頷くしかなかった。
大きなコートに包まれたまま、私は彼の先導で廊下に出る。
出口まで送ってくれる彼の足取りに合わせて歩きがら、私は左手の指輪を無意識に撫でた。
冷たい金属の感触は変わらない。
けれど、その冷たさを感じ取る私の心は、さっきよりも少しだけ、冷静さを取り戻していた。
もし、明日アーネストが「ごめん」と言ったら、私は何と答えるべきだろう。
「いいのよ」と笑うべきか。それとも、「寂しかった」と伝えるべきか。
ルシウス様の言葉が、棘のように心に残っている。
『君を大事にしない奴』。
その定義が正しかったとしたら、私が守ろうとしているこの関係は、一体何なのだろうか。
馬車に乗り込み、遠ざかる王宮の窓を見上げる。
あの明かりの下にいる人は、決して嘘をつかない。
その信頼感と、平気で約束を破る婚約者への不信感が、天秤の上で揺れ始めていた。
明日、私はどんな顔でアーネストに会えばいいのだろう。
その答えが出ないまま、馬車は雨の夜道を揺れていった。




