第12話 白亜の夜明けと約束の輪
あの重い扉を背中で閉めた時、手のひらに残っていた金属の冷たさは、もう過去のものになったのだと悟った。
扉の向こう側から漏れ聞こえていたオーケストラの調べも、アーネストの聞き苦しい釈明も、すべてが分厚い木材に遮断されて遠のいていく。
私の目の前に広がっているのは、静まり返った王宮の回廊と、その先に続く夜の帳だけだった。
隣に立つルシウス様の規則正しい呼吸音が、激しく波打つ私の胸の音を、少しずつ凪へと導いてくれる。
「……終わったのだな」
ルシウス様が、独り言のように低く呟いた。
私はその声に、肺に残っていたすべての澱を吐き出すような思いで、深く、長く息を吐いた。
「はい。終わりました。……いいえ、終わらせました」
言葉にすると、足元から力が抜けていくような、それでいて背中が軽くなるような不思議な感覚に包まれた。
三年間、私の薬指を締め付けていたあの銀の指輪は、今頃、床の上で誰かに踏まれているか、あるいは惨めに拾い上げられていることだろう。
それを惜しむ気持ちは、塵ほども残っていなかった。
ルシウス様が、そっと私の肩に手を置いた。
その掌の厚みが、私の震えを物理的に押さえ込んでくれる。
「行こう。私の馬車が、裏の広場に待たせてある。……君を、こんな騒がしい場所にこれ以上置いておきたくない」
「……ありがとうございます、ルシウス様」
私は彼に導かれるまま、静かな回廊を歩き出した。
カツ、カツ、と二人分の靴音が共鳴する。
その一定のリズムが、私の選んだ「正解」を肯定する足音のように聞こえた。
渡り廊下を抜け、冷たい夜気が満ちる広場へと出る。
一台の馬車が、ガス灯の光の下で静かに黒い光沢を放っていた。
御者が扉を開けると、私はルシウス様の手を借りて車内へと乗り込んだ。
ふわりと、車内を満たしている彼と同じ、深い森と珈琲が混ざったような香りが鼻先を掠める。
ルシウス様も対面の席ではなく、私のすぐ隣に腰を下ろした。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。
王宮の巨大な影が、窓の外を後ろへと流れていく。
私は窓枠に手をかけ、遠ざかる光を見つめていた。
「アーネスト様は……あの後、どうなるのでしょう」
ふと、口から問いが漏れた。
未練ではない。ただ、私が関わった人生の最後を、整理しておきたかった。
ルシウス様は、闇に溶ける車内で眼鏡を指で直しながら、冷徹な声音で答えた。
「公式な場であのような醜態を晒し、殿下からも明確な不興を買った。法務局としても、君から奪った成果についての調査を継続する。……おそらく、家督の継承権は剥奪され、北部の辺境へ左遷されるのが妥当な線だろうな」
「……そうですか」
私は目を閉じる。
辺境。
そこは、かつて彼が「面倒だ」と一蹴し、私に代わりの書類を書かせた場所だ。
自分が軽んじていた現場で、今度は自分一人の力で生きていかなければならない。
彼にそんな強さがあるのかどうかは、もう私の知るところではなかった。
ただ、彼の傲慢さが自らを焼き尽くした結果だと思うと、奇妙なほど私の心は凪いでいた。
「エリシア。……君は、後悔していないか」
ルシウス様の問いに、私は目を開けた。
車内の僅かな明かりの中で、彼の灰色の瞳が私を真っ直ぐに射抜いていた。
その瞳には、不安ではなく、ただ私の本心を確かめようとする真摯な光が宿っている。
私は自分の両手を見つめた。
アーネストの隣にいた頃、私はいつも自分の手を「汚れた道具」のように感じていた。
インクに染まり、書類をめくり、誰かの手柄を作るためだけに動く十本の指。
けれど今、膝の上で重ねられたその手は、白く、自由だった。
「いいえ。……一欠片も」
私はルシウス様に向き直り、はっきりと言い切った。
「私が三年間積み重ねてきた『我慢』は、正しさではなく、ただの臆病だったのだと分かりました。波風を立てないことよりも、自分の心に正直に生きる方が、ずっと難しくて、ずっと……誇らしいことだと」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥が熱くなった。
自分を否定し続け、都合の良い道具として扱われることを受け入れていた自分への、葬送の言葉。
私は、間違っていなかった。
そう自分自身で認められたことが、何よりも嬉しかった。
「そうか。……なら、いい」
ルシウス様が、ふっと口元を緩めた。
氷が解けるような、穏やかで優しい微笑み。
その表情に、私の鼓動は一気に加速する。
彼は懐から、一枚の白亜のハンカチを取り出した。
あの日、バルコニーで私に渡してくれたものと同じ、清潔な布地。
「ルシウス、様……?」
彼は私の右手をそっと取ると、そのハンカチを掌に広げた。
そして、その上に小さな、けれど確かな輝きを放つ「輪」を置いた。
プラチナの地金に、透き通った青いサファイアが埋め込まれた指輪。
それは、アーネストが「家にあったものだ」と投げ渡したあの銀の指輪とは、比べものにならないほど繊細で、気品に満ちたものだった。
「これは……」
「先ほど君が捨てたものは、過去の鎖だ。……そしてこれは、私の未来への誓いだ」
ルシウス様の声が、重力を持って心臓に届く。
彼は私の指先に触れ、サファイアの指輪をゆっくりと、しかし確かな意志を込めて、私の左手の薬指へと滑り込ませた。
指に、新しい重みが乗る。
それは、私の自由を奪う鎖ではなく、私という人間を尊重し、守り抜くという約束の証だった。
「エリシア。……君はずっと、一人で戦ってきた。誰にも認められず、評価されず、それでも自分の『正しさ』を信じて。……その姿を、私はずっと愛おしいと思っていた」
彼の指先が、指輪を嵌めた私の指を優しく包み込む。
その体温に触れた瞬間、胸の奥に溜まっていた最後の震えが、安堵と共に溶け出していった。
「君のその優秀な頭脳も、粘り強い精神も、そして誰よりも温かな心も。すべてを私が受け止める。……私の隣で、君らしく咲いてほしい。もう、誰かのために自分を殺す必要はないのだから」
ルシウス様の言葉に、視界が急激に滲んだ。
あの日、冷めたスープを前に二時間待たされた夜。
雨の中、ショールを被って惨めに歩いた道。
便利だと言われ、嘲笑われたサロンの扉。
それらすべての痛みが、彼の言葉という光によって、鮮やかな色へと塗り替えられていく。
「……ずるいです。ルシウス様」
私は滲む視界を拭おうともせず、掠れた声で笑った。
「そんな風に言われたら、私は……もう、あなた以外の人では満足できなくなってしまいます」
「満足しなくていい。……一生、私に執着してくれ」
彼は私の手を引き寄せ、指輪の嵌まった薬指に、誓うようなキスを落とした。
唇が触れた一瞬、電流のような熱が走り、それが全身へと広がっていく。
アーネストの隣では一度も感じたことのない、魂が震えるような充足感。
私は自分の自由を、この人に捧げるのではなく、この人と「分かち合う」のだと直感した。
馬車が揺れる。
夜の街並みを抜け、馬車は私の実家であるヴァレンシュタイン家の屋敷へと向かっている。
明日の朝、私は父や母に、今夜起きたことをすべて話すだろう。
婚約を辞めたこと。
アーネストの不実を暴いたこと。
そして──この素晴らしい人と歩むことを決めたこと。
かつては「親に迷惑がかかる」と恐れていた報告も、今は怖くなかった。
自分の人生に責任を持つということは、自分の幸せを信じることだと、今の私なら言える。
「ルシウス様。……一つだけ、お願いがあるのですが」
私は彼の手を握り返し、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
ルシウス様は眼鏡を直し、真剣な顔で頷く。
「なんだ。宝石か? それとも、新しい執務室の椅子か?」
「いいえ。……明日の朝、一番に、私と一緒に仕事をしてくださいませんか? あなたが絶賛してくださった、あの『美しい計算式』を使って、もっと素晴らしい国を創るための計画を立てたいのです」
ルシウス様は一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
そして、堪えきれないといった様子で、低く、愉しげに笑った。
「……君らしいな、エリシア。仕事中毒の上司を持つと苦労するぞ?」
「あら、それを言ったら、私を真っ先に資料室へ呼び出したのはどなたでしたかしら?」
二人で笑い合う声が、馬車の密室を満たしていく。
外はまだ深い夜だが、私の心には、これ以上ないほど明るい朝日が差し込んでいた。
馬車が止まる。
屋敷の前に到着したことを告げる振動。
けれど、ルシウス様はすぐには扉を開けさせなかった。
彼は私の肩を引き寄せ、最後に一度だけ、私の額に優しく唇を寄せた。
「おやすみ、私の誇り高きエリシア。……明日からは、世界中の誰よりも、君を幸せにする仕事を始めよう」
「はい。……おやすみなさい、ルシウス様」
私は馬車を降り、屋敷の玄関へと向かう階段を一段ずつ登る。
かつては重かったドレスの裾も、今は風に乗る羽のように軽い。
背後で、ルシウス様の馬車がゆっくりと走り出す音が聞こえる。
私は玄関の扉に手をかけ、振り返った。
暗闇の向こう側、彼の馬車が見えなくなるまで、私は左手の指輪を見つめ続けた。
サファイアの青が、星空のように輝いている。
私は、間違っていなかった。
自分が信じた「正しさ」を、自分の意思で掴み取ったこの瞬間が、何よりも確かな真実だ。
明日からは、誰かの影ではなく、私自身の光を放って生きていこう。
もう二度と、私の心を殺したりはしない。
私は静かに、けれど力強く、屋敷の重い扉を押し開けた。
その先に待っているのは、白亜の光に満ちた、新しい私の人生だ。
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