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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第11話 銀の指輪と毅然たる告別

「従う義務などない」と突き放した時の、アーネストの呆然とした顔が網膜に焼き付いている。


バルコニーの冷気を背中に背負い、私はルシウス様にエスコートされながら、再び光り輝く会場内へと足を踏み入れた。

ガラス扉を抜けた瞬間に押し寄せる、暖かな空気と音楽の旋律。

けれど、先ほどまで私を押し潰そうとしていたその華やかさは、今はただの舞台装置にしか感じられない。


「待て! エリシア、話を……っ」


背後から追いかけてきたアーネストが、私の腕を掴もうと手を伸ばす。

私は足を止め、静かに振り返った。

その拍子に、会場にいた貴族たちの視線が、一斉に私たちへと集まる。

ひそひそとした囁き声が広がり、波紋のように会場の隅々まで伝わっていくのが分かった。


「アーネスト様。大勢の皆様の前です。少しは身なりを整えられてはいかがですか?」


私の指摘に、彼は自分の乱れたクラバットと、酒の匂いが染み付いた上着を慌てて確認した。

彼の顔が、屈辱で赤黒く染まっていく。

その醜態を、夜会の主催者である王弟殿下すらも、上段の席から冷徹な眼差しで見下ろしていた。


「……君が、君が勝手なことをするからだろう! 婚約者の務めを果たさず、他の男と睦み合うなど、クライヴ家の名誉を傷つける行為だ!」


「名誉、ですか」


私は小さく、乾いた笑いを漏らした。

喉の奥がチリりと焼けるような感覚。

これが、三年間私が守ろうとしてきたものの正体だったのか。


「一昨日、あなたは仕事で記念日の約束を破られました。今夜もまた、仕事でエスコートに遅れたと仰いましたね」


「あ、ああ、そうだ! それが、夫となる者への敬意だろう!」


「ですが」


私は一歩、彼との距離を詰めた。

靴音がカチリと石床に響き、私の覚悟を周囲に知らしめる。


「あなたの仰るその『仕事』、王宮の執務記録には一行も残っておりません。あなたが緊急会議だと称していた時間に、東棟のサロンで同僚の方々とワインを楽しみ、私のことを『便利な道具』だと吹聴していたことも、全て伺っております」


会場の空気が、氷点下まで凍りついた。

アーネストの顔から、急速に血の気が引いていく。

彼はパクパクと口を動かすが、意味のある言葉にはならない。

嘘を塗り重ねて築き上げた彼の牙城が、真実という一撃で音を立てて崩れていく。


「な、何を……証拠もなしに……」


「証拠なら、ここにあります」


私の隣で、ルシウス様が静かに一歩前に出た。

彼は懐から、一束の書類を取り出した。

それは、ルシウス様が法務官としてまとめ上げた、アーネストの不真面目な勤務実態と、私への不当な業務押し付けの記録だった。


「クライヴ卿。君が私の部下であるエリシア嬢の成果を横取りし、虚偽の報告を繰り返していた事実は、既に殿下にも報告済みだ」


ルシウス様の低い声が、断罪の鐘のように会場に響き渡る。

王弟殿下がゆっくりと立ち上がり、重々しい口調で告げた。


「クライヴ卿。弁明の余地はないようだな。……レディ・ヴァレンシュタイン、そなたの望みは何か」


殿下の問いかけに、私は深く一礼した。

そして、ゆっくりと左手を上げた。

月明かりの下ではなく、白日の下に晒された、銀の指輪。

これをはめられた日の私は、まだ何も知らず、耐えることこそが美徳だと信じていた。


「殿下。私は、アーネスト・クライヴ卿との婚約を、本日この場をもちまして解消させていただきます」


私は迷いのない手つきで、薬指に食い込んでいた銀の指輪を引き抜いた。

三年間、私の肌の一部となっていたはずのそれは、驚くほど簡単に外れた。

指輪を外す手に、重い鎖が解ける解放感が宿る。

これこそが、私が私自身を取り戻すための、最初の手順だ。


「……返却いたします。私には、あまりに重すぎるものでしたから」


私は指輪を、アーネストの足元へ放った。

カラン、という軽い金属音が、静まり返った会場に虚しく響く。

それが、私たちの関係が終わりを告げた合図だった。


「え、エリシア……嘘だろ、頼む、考え直して……!」


アーネストが膝をつき、足元の指輪を拾い上げようとする。

その情けない姿を、私は冷ややかに見下ろした。

もう、何の感情も湧かない。

ただ、目の前の男が、私の一番大切な時間を搾取し続けた、他人であるという事実があるだけだ。


「私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます。……さようなら、クライヴ卿。いえ、アーネスト様」


私は二度と彼を見なかった。

ルシウス様が、私の肩を抱き寄せるようにして、エスコートの姿勢を崩さない。

彼の腕の温もりが、震えそうになる私の心臓を、優しく守ってくれていた。


「行こう、エリシア。……君を、正しい場所へ送ろう」


ルシウス様の囁きに、私は深く頷いた。

周囲からのどよめきを背に、私たちは会場の出口へと向かう。

扉の前に立ち、私は一度だけ足を止めた。

この扉を開ければ、もう二度と「便利な道具」としての私に戻ることはない。


私は、自分の意思でこの重い扉を開けた。

正面から吹き込んできた夜風は、どこまでも澄んでいて、自由の香りがした。


廊下の先、ルシウス様が私の歩調に合わせて、ゆっくりと歩き出す。

私は彼の手を、今度は自分から強く握り返した。

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