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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第10話 夜風の告白と乱入者の足音

ワルツの最後の音が消え、会場を包んでいた拍手の残響が、まだ鼓膜の奥で微かに震えていた。


私はルシウス様にエスコートされ、熱気が渦巻くホールからバルコニーへと続くガラス扉を抜けた。

扉が閉まると、音楽と喧騒がふっつりと遠ざかり、代わりに夜の静寂が降りてくる。

石造りの手すりに手を置くと、ひんやりとした感触が、高揚した体温を少しずつ冷ましてくれた。


「……寒くはないか」


隣に立ったルシウス様が、私を気遣うように問いかける。

その声は、さっきまでのダンスをリードしていた時の力強さとは違い、どこか甘く、柔らかい響きを含んでいた。


「ええ、大丈夫です。……少し、熱いくらいですから」


私は頬に手を当てて微笑んだ。

嘘ではなかった。

彼と踊った一曲の間、私の世界は彼一色に染まっていた。

周囲の視線も、孤独だった時間も、すべてが彼の手の温もりに溶けて消えてしまったようだった。


ルシウス様は眼鏡を指で押し上げ、夜空を見上げた。

月明かりが彼の端正な横顔を照らし、銀縁のフレームを鋭く光らせる。


「……エリシア」


彼が私に向き直った。

その瞳には、隠しきれない情熱の炎が揺らめいている。


「先ほどの言葉は、冗談ではない」

「……え?」

「君が欲しいと言った。……ずっと前から、君を見ていた」


彼は一歩、私に近づいた。

逃げ場のないバルコニーで、彼の影が私を覆う。

怖いとは微塵も思わなかった。むしろ、その影の中に閉じ込められることに、甘美な安らぎすら覚える。


「あの男は、君の価値を理解していない。君がどれほど優秀で、どれほど忍耐強く、そして……どれほど愛らしい女性か、何も見えていない」


彼の大きな手が、私の頬に触れた。

親指が唇の端をなぞる。

その接触に、背筋が甘く痺れた。

アーネストからは一度も向けられたことのない、崇拝にも似た眼差し。

それが私の乾いた心を潤していく。


「私なら、君を泣かせない。君の才能を搾取したりしない。……君を、ただ一人のパートナーとして愛する」


彼は私の左手を取り、薬指にある銀の指輪を親指で撫でた。

その仕草は、まるでそこに嵌められた枷を憎むようでもあり、それを解き放ちたいと願うようでもあった。


「彼から、君を奪っていいか」


問いかけというよりは、決意表明に近い言葉だった。

私は息を呑む。

この手を取れば、私は「不貞」の謗りを受けるかもしれない。

けれど、そんな世間体よりも、目の前のこの人の誠実さが欲しかった。

私は唇を開き、答えようとした。


──バンッ!!


その時、背後のガラス扉が乱暴に開け放たれた。

静寂が砕け散る。

私は驚いて肩を跳ねさせ、ルシウス様は瞬時に私を背後へ庇うように動いた。


「おい! 何をしているんだ、エリシア!」


怒鳴り声と共にバルコニーに踏み込んできたのは、アーネストだった。

彼は乱れた呼吸を整えることもせず、血走った目で私たちを睨みつけている。

着崩れた礼服。

緩んだクラバット。

そして、風に乗って漂ってくるのは、安っぽい香水と強いアルコールの匂いだった。


「……アーネスト、様」


私はルシウス様の背中越しに彼を見た。

以前なら、彼の怒った顔を見ただけで萎縮し、「ごめんなさい」と謝っていただろう。

けれど今は、不思議なほど冷静だった。

恐怖など感じない。

ただ、彼の姿が滑稽な喜劇役者のように見えた。


「探したんだぞ! 会場にいないと思ったら、こんなところで……しかも、他の男と二人きりで!」


彼は私を指差し、唾を飛ばしながら喚き立てた。


「君は僕の婚約者だろう!? 恥を知れ! 僕が忙しい仕事の合間を縫って駆けつけたというのに、この裏切りは何だ!」


「……仕事、ですか」


私はルシウス様の背中から一歩踏み出し、冷ややかに問い返した。

その声の低さに、アーネストが一瞬口ごもる。


「そ、そうだ! 緊急の会議が長引いて……」

「お酒の匂いがしますけれど」

「っ……! こ、これは、付き合いで少し飲んだだけだ! 外交の一環だよ!」


見え透いた嘘。

第1話の雨の日から、何も変わっていない。

彼は自分が被害者だと信じて疑わず、私を悪者にすることで支配しようとしている。

その手口があまりにも稚拙で、今までそれに縛られていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。


「クライヴ卿」


今まで沈黙していたルシウス様が、氷点下の声音で割って入った。

彼は私の肩を抱き寄せ、アーネストを冷徹に見下ろしている。


「レディに対する言葉遣いを改めたまえ。それに、彼女は一人で待っていた。君が約束を破り、姿を見せなかったからだ」

「うるさい! 部外者は黙ってろ!」


アーネストは顔を真っ赤にして、ルシウス様に掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。


「これは僕と彼女の問題だ! エリシア、こっちへ来い! 今すぐ帰るぞ!」


彼は私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。

乱暴な手つき。

そこには愛も敬意もない。ただ「所有物」を回収しようとする焦りだけがあった。


私は反射的に身を引こうとしたが、それより早く、ルシウス様の手がアーネストの手首をガシリと掴んで止めた。


「痛っ……!」

「触るなと言っている」


ルシウス様の腕に力が籠もるのが分かった。

普段は冷静な彼が、静かな激昂を露わにしている。


「彼女は君の所有物ではない。……そして、君は彼女に触れる資格を既に失っている」


「な、なんだと……離せ! この堅物が! エリシア、何とか言え! 僕に従うのが君の義務だろう!」


アーネストが私に向かって叫ぶ。

その必死な形相を見ても、私の心はピクリとも揺れなかった。

義務。

そう、私はずっとその言葉に縛られてきた。

でも、その義務を果たさなかったのは、誰だったのか。


私は左手を見た。

銀の指輪が、月明かりの下で鈍く光っている。

もう十分だ。

私は顔を上げ、アーネストを真っ直ぐに見据えた。


「……アーネスト様」


静かな声だった。

けれど、それは夜風の中でも決して揺らぐことのない、鋼のような意志を含んでいた。


「私はもう、あなたの後ろを歩くつもりはありません」


「は……? 何を言って……」


「聞こえませんでしたか。……従う義務など、もうここにはないと言ったのです」


私の言葉に、アーネストが呆然と口を開けた。

彼の中のシナリオには、私が反抗する展開など存在しなかったのだろう。

その間抜けな表情を見ながら、私は心の中で、最後のページをめくる準備を整えた。


隣でルシウス様の手が、私の肩を強く抱きしめてくれた。

その温もりが、私に「正しさ」を保証してくれている。

私は間違っていない。

そう確信できた瞬間、私の中で長年くすぶっていた何かが、完全に燃え尽きて消えた。


あとは、終わらせるだけだ。

この茶番劇も、偽りの婚約も。

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