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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第1話 冷めたスープと銀の指輪

予約していた個室の扉が、また音もなく開くのが視界の端に見えた。


私は手元の懐中時計から、ゆっくりと視線を上げる。ウェイターの若者が、困り果てたような、それでいてどこか憐れむような色を瞳に浮かべて立っていた。


「……レディ・ヴァレンシュタイン。あの、スープをもう一度温め直しましょうか?」


その言葉に、私はテーブルの中央に鎮座する白い皿へと目を落とす。

湯気はとうの昔に消えていた。

黄金色だったコンソメは、表面に微かな膜を張り、冷たい油の模様を描いている。それはまるで、今の私の心象風景そのもののようだった。


「いいえ。結構よ」


私は口角を数ミリ持ち上げ、完璧な「伯爵令嬢の微笑み」を作って見せた。頬の筋肉が強張るのを、意志の力でねじ伏せる。


「彼も公務で忙しい身ですから。急なトラブルが入ったのでしょう」

「はあ……。しかし、ご予約の時間から既に二時間が経過しておりますが」

「ええ。ですが、待つのも私の仕事のうちですから」


私の言葉に、ウェイターは短く頭を下げ、逃げるように下がっていった。

扉が閉まる音が、静寂を連れて戻ってくる。


私は小さく息を吐き出し、ソーサーの縁を指先でなぞった。

陶器の冷たさが指の腹に伝わる。

今日は、婚約して三度目の記念日だった。

アーネストは「たまには食事でもどうだ」と、珍しく自分から誘ってくれたのだ。彼が選んだこの店は、予約が半年待ちと言われる王都の名店だった。


『エリシア、君はいつも僕を支えてくれているからね』


三日前、執務室で書類の山から顔も上げずに彼が言った言葉を、私は反芻する。

あの時、彼は私の顔を見ていなかった。

それでも嬉しかった。有能で、王宮でも評価の高い彼が、私という存在を認識してくれている。その事実だけで、積み重なる残業も、彼が押し付けてくる雑務も、すべて正当化できる気がした。


カチ、と時計の針が動く音がした。

午後九時を回った。


私はテーブルクロスに落ちるシャンデリアの影を見つめる。

彼は来ない。

その確信が、胸の奥で黒い染みのように広がっていく。

連絡の一つもないということは、本当にっぴきならない事情があるのか、それとも──単に忘れているのか。


「……確認、すべきではないわね」


私は独り言ちて、ナプキンをテーブルに置いた。

ここで王宮の執務室に使いを出したり、魔道具で連絡を入れたりするのは、彼の「有能な婚約者」としての振る舞いではない。彼を信じて待つ。あるいは、来られない事情を察して身を引く。それが、私が三年間で学習した「正解」だった。


私は立ち上がる。

椅子の背に掛けていたショールを手に取り、肩に羽織った。絹の感触が、冷えた二の腕に僅かな温もりを与える。


会計は既にヴァレンシュタイン家の名義で済ませてある。

私は誰もいない椅子の向かい側に、一度だけ頭を下げた。そこに彼がいるかのように。

そして、重厚な扉を開け、廊下へと足を踏み出す。


店の出口へ向かう足取りは、極めて落ち着いていたはずだ。

すれ違う給仕たちが、私の背中にどんな視線を投げかけているかなど、想像したくもなかった。


「あ──」


重い木の扉を開けて外に出た瞬間、湿った冷気が全身を包み込んだ。

雨だ。

それも、石畳を叩きつけるような激しい雨が降っていた。


馬車寄せには、客待ちの馬車が一台もいない。

予約の際に「帰りの馬車は連れが手配する」と伝えてしまっていたことを思い出す。アーネストが手配しているはずもなかった。


「……歩きましょう」


私はショールを頭から被り、雨の中へと足を踏み出した。

王宮までは、歩いて三十分ほどの距離だ。

雨粒が容赦なく頬を打ち、丁寧にセットした髪を濡らしていく。

冷たい。

靴底から水が染み込み、足の感覚を奪っていく。


王都の大通りは、雨のせいか人通りもまばらだった。

ガス灯の光が、濡れた石畳に滲んで揺れている。


私は左手の薬指に触れた。

そこには、銀細工の婚約指輪が嵌まっている。

三年前、彼が「家にあるもので悪いが」と言って渡してくれたものだ。サイズ直しをしていないそれは、雨に濡れた指の上で、頼りなく滑った。


『君は強い女性だ。僕の隣に立つ資格がある』


そう言われた時の誇らしさを、私は必死に思い出そうとする。

雨に打たれながら歩く惨めさを、その記憶で上書きしようとする。

私は彼の補佐役だ。将来の妻だ。

これくらいの雨、これくらいのすれ違い、なんてことはない。


彼はきっと、今も王宮で国のために働いているのだ。

私との食事よりも優先すべき、高尚な使命のために。

そうであれば、私が怒ることは「間違い」になる。

理解ある婚約者として、後で彼に温かいお茶を淹れてあげるのが正解なのだ。


──本当に?


不意に、心の奥底で小さな声がした。

私は立ち止まり、濡れた前髪をかき上げる。

雨音にかき消されそうなその声を、私は首を振って否定した。


視界の先に、王宮の尖塔が見えてきた。

黒い空に突き刺さるようなそのシルエットは、威圧的で、けれど私の唯一の帰る場所でもあった。


私は濡れた靴を引きずるようにして、衛兵の立つ門をくぐる。

文官棟の窓には、まだ明かりが灯っていた。


あそこに戻れば、いつもの日常がある。

未処理の書類、インクの匂い、そしてアーネストの背中。

そこに戻れば、この胸の痛みも「業務」の中に埋没させることができる。


私は震える手で、重たい文官棟の扉に手をかけた。

金属の冷ややかさが、指輪の感触と重なる。


大丈夫。私はまだ、正しくいられる。

そう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと扉を押し開けた。

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