好き嫌いは個性か
若い子と話していて、以前から気になっている事がある。それは彼らがすぐに「私、そういうの苦手なんで」とか「俺、そういうの無理っす」と言う事だ。
特に食べ物の好き嫌いに多い。「ちょっとあの肉は生臭いっすね」「硬いっすね」「あれは無理なんです」「子供の頃から駄目なんです」など、よく聞く。
別に私も、うるさい方ではないので最初は聞き流していた。「ふーん」で済む話である。それでずっと「ふーん」で流していたが、あまりにも「苦手」「無理」と彼らが言うので、私も段々に疑問を持つようになった。今では、完全に懐疑的である。
もちろん、アレルギーがあるとかなら仕方ない。完全に好き嫌いをなくすというのも無理だろう。しかし疑問なのは、彼らは自分の好き嫌いを金科玉条の如きものとして考えている事にある。自分の好き嫌いを疑ってみる、好き嫌いを越えて何かを評価しようとする、そういう観点が彼らには全然ない。
私自身は、自分の好き嫌いを相対化して見るようにしている。例を上げると、私は「スーパーロボット大戦」というゲームが比較的好きで、かなりの数、クリアしている。しかし、それはただの好き嫌いなので、人と積極的に語り合いたいとも思わない。「スーパーロボット大戦」に普遍的価値があるとも思わない。まずまず面白い、まあまあよくできたゲームという感じだ。
一方で、私の読書歴で言えば、「読むのがだるかった」けれど、価値ある作品と認めざるを得ない、というようなものは沢山ある。というより、そういうものが古典として残るのだろう。現代人からすれば、古典作品は、大抵読むのが面倒なものばかりだ。それでも我慢して読み切ると、そこに内在する普遍的な価値がおぼろげに感じられるようになる。そういう印象を重ねながら、自分の中で普遍的な価値観を作り上げていく。これは古典を読む上で普通の読み方ではないかと思う。
しかし、最初に言ったような子達は、自分の好悪を越えたなにものかがあるとは全く考えない。想像もできない。だから、彼らは我慢ができず、すぐに「嫌い」「無理」「苦手」と言う。食物でも、我慢して食べれば美味しく感じるかもしれない、とは思わない。そこには修練の過程というものがない。というか、彼らには一切の意味における「過程」がない。
食べ物の話で言えば、彼らは私には贅沢な悩みと思える事を当然のように言う。「おいおい、世界の十人に一人は飢えてるんだぞ」「たかだか何十年も前の日本人はろくに食うものもなかったんだぞ」と説教も始めたくなるが、こらえている。…こらえた結果、ここで鬱憤を晴らしている、というわけだ。
※
この人々の好き嫌いというのはかなりひどいものにまで成長している。だが、これを諌めるよりも、彼らに迎合した方が利益になり、儲かるとわかっているから、企業も社会も彼らを甘やかしてきた。
この動かない主体は、何よりも多数派である。だから彼らに迎合し、ご機嫌を取り、彼らから利益を絞り上げるのがいい。彼らを叱る、真の意味での優しい人間はいない。今は、やたら優しさとか内輪の暖かさを他人に求めるが、それは自分が甘やかされたいからだ。甘やかされたいというのは、自分が動きたくないという事だ。山に登るのは面倒くさいから、山の方で勝手に下りてきてくれというわけだ。
あれは嫌い、これは嫌い、これは好き、これは可愛い、これはかっこいい。そんな価値観が蔓延している。その結果、どうなったか。ドラクエとFFとスラムダンクと、犬と猫とラーメンと。そんな大衆向けの面白いものばかりで溢れた奇態なワンダーランドが現れた。この塀の外を考えてみる事もできない。出た人間は無視され、嫌われる。尊敬されるにしても、意味のわからない存在としてぼんやり遠くから見ていて、一応手を叩いてみるという感じだ。
この社会はもう内容というものを全然必要としていない。二枚の絵があって、どちらが優れているかを決めるのは絵の「値段」らしい。だったらもう絵を見る必要はないではないか。値段だけ見てればいい。実際、数字しか見ていない空っぽの人間が沢山存在する。
肉は柔らかくないと食べれない、という人間には屠殺所で殺された豚の生首でも放り込んだらどうか、という不気味な妄想が一瞬広がる。豚も牛も鳥も、我々の知らない所で殺され、皮を剥がれ、内蔵を抜き取られ、血を抜かれている。そうして切断されてパックに包まれて出てくる。豚が殺される所についてあれこれ言ったり、それをカメラで映すと、「グロ映像」であって、「見たくもない」とくる。「そういうのやめてください」「私、苦手なんで」。だが、肉の切れ端については、柔らかくないと食えないなどとグルメらしき事言う。自分に罪がないと考えている人間ほど罪のある者はいないのではないか。
異世界に行けば、急にモテるらしい。なんにもしていないボケッとした女が、イケメンの社長から急に言い寄られるらしい。そんなドラマが平気で作られ、流される。誰も彼も全く動かない。修練の過程がない。成長というものがない。成長は、自分の意識の時間ではなく、ただの数直線であり、無味乾燥の単線の時間だ。そう言っても、人生で積み重ねた事のない人には伝わらないだろう。
他にも愚痴は色々あるが、きりがないのでこれぐらいにしておく。それにしても、今のこの社会というのはどうなっているのだろう? 一方では、悲惨な事件が起こっている。凶悪な事件が起こっていて、誰が被害者に、加害者になってもおかしくないほど追い込まれているのに、相変わらず公的な場所では過去の「ちゃんとした家庭」「ちゃんとした生き方」というものが喧伝されている。
私の実感ではこれらは全部嘘だった。あまりにも子供っぽい愚痴かもしれないが、大人達の言っていた事は全部嘘だった。正しい生き方もなければ、普通の生き方が一番いい、という事もなかった。というか、「普通の生き方」を作る為に一体、いかに多くのものが犠牲になっているか、いかに多くの先人の積み重ねがあったか。そういう何もわからずに「普通が一番」などと言い、お茶をすすっている。私には彼らがどういう存在なのか、さっぱりわからない。
深い感動もない。人生の行路もない。彼らは自分自身に安住している。だが、彼らを非難するのは間違っている。みんなの「個性」は称えられるもので、「みんな違ってみんないい」からだ。鼻が高いのが個性なら、野菜が食べられないのも個性。何でも個性で、「それはそれで価値がある」。もちろん、それは結構だろう。だがそこには普遍性はない。普遍的な「道」というものがない。
現在、一番理解されないのはこの「道」だ。過程のない社会だからだ。普遍的なものを求めていく行路というのはない。そんなものは必要ない。というのは、それぞれの好悪の寄り集まりがそのまま「普遍性」とされているから。こうして、通俗的なあらゆるもの、三流の俗悪品は聖性を帯びる事になった。それは人々の集団的な肯定を受けている。それらは最も価値のあるものだ。人々が一斉に支持しているから。
ポップソングは「ありのままのあなた」を肯定してくれる。ありのままでいいのだそうだ。鼻を垂らした子供の鼻垂れ具合だって、「個性」であって「それでいい」という事なのだろう。なんとも奇怪な社会である。最も、こんな事を言うのになんの意味もないのは私が一番よくわかっているつもりだ。単なる愚痴でしかない。
しかし、この社会がこのまま進んでいくかどうかはわからない。座して動かない人々を奈落に突き落とす何か現れるかもしれない。「あれは食べれない」「これは苦手」と言っている人間も飢えて三日もすれば『それ』に喜んで齧りつくだろう。
不幸を知らない人間は幸福も知らない。幸福でも不幸でもなく、強く求めるものも、肯定するものも否定するものも何も持たない人々がどこに行くか、私にはわからない。彼らはおそらく、ダンテの『神曲』にあるように地獄にも天国に入れずに、その外側でもじもじしている事だろう。彼らの居場所はそこにある。彼らは、求めなかったがゆえに何者にもなれなかった。というか、彼らが一体何か、正直言って私には全然理解できないのである。




