パーテーションの向こう側
見えもしないのに、自然と足音の主の姿が頭に浮かびました。「酔っぱらいの男性医師が壁にぶつかりながらこの部屋に向かっている」、当然のことだと言うようにそう認識していたのです。
フラフラとした足音が、私の部屋の前で止まりました。ヒュッと喉の奥が鳴り、体中から汗が噴き出しています。
「ガ、チャ」
ゆっくりと戸が開きます。通路の明かりがこっそりと部屋に侵入してきます。自分を囲むパーテーションの隙間から差し込むその僅かな明かりでさえ、ちかちかと点いたり消えたりを繰り返し私の中の恐怖心を煽りました。
パーテーションが開く音、布の擦れるような音、少しの間を置き何かをベッドに叩きつけるような、暴れているような音と、くぐもったうめき声。うめき声は、手で口を塞いだ時の声の出方に似ている気がしました。そこから連想される最悪の最期。
逃げないと。そう思うのですが体が上手く動かせず、次第に呼吸が短くなり、酸素の取り込み方も分からなくなってきて。心臓の音がドンドンと耳に届き、部屋中に聞こえているのではと思う程でした。それを必死に抑えようとすればするほど、頭の中が真っ白になっていきました。
次も違った、その次も私じゃなかった、その次も……そしてその次が、私の番でした。死の順番待ちをさせられていたのです。
パーテーションが少し開き、ぎょろりとした目が私をにゅうと見下ろします。血走った目と、目が合いました。目が合ったまま、彼は緩慢な動きでパーテーションの中へと入ってきます。何か言ったようですが、心臓の音がうるさく聞き取れません。
「せんせい」、声は出ません。
男は白衣を着ていて、注射器を持っているようでした。起き上がろうとしても、体が動いてくれません。私の服の袖を捲ります。注射針の近付く様子がスローモーションのように見えました。これを打たれてはいけない、そう思うのに逃げることも出来ません。
一瞬の痛みの後、目がちかちかして溺れているような感覚。苦しい。息苦しい、なんてもんじゃない。くるしい。くるしいっ!
ジタバタと暴れる音、苦しくて口から漏れ出る声とそれを塞ぐ男の硬い手。夢なら早く覚めてほしい。そう願いながら、意識が遠のくのを感じていました。
「万桜……万桜っ!!」
その時自身を呼ぶ声が聞こえ、急に体の自由が利くようになったのです。やっと得られた酸素を思いっきり吸い込み飛び起きると、少し咳き込んでしまいました。苦しさに涙を流す私に驚愕の表情を向けていたのは、髪と衣服がやや乱れたマネージャーの坪内でした。
「ああ良かった、万桜っ!」
「坪内……私、」
せっかく吸い込んだ酸素が搾り出される程強く抱きすくめられました。数拍彼女にされるがままだったでしょうか。やがて「悪夢から目覚めたのか」と状況を理解して、マネージャーの背に回していた腕には思わず力が入りました。ホッとした部分が大きかったと思います。
「一体どうしたの?」
しばらくして双方が落ち着くと、坪内はいつもシュッとさせている眉毛をこれでもかというほど下に下げてそう聞きました。
「どうした、んだろう……」
「どうしたんだろうって……。呼びに来たは良いけど、返事はないし、暴れる音がしだして、本当に本当にびっくりしたんだから。怪我ない?」
坪内の問いに自分の腕を表にし、裏にし、怪我のないことを確認します。
夢の中では指一つ動かすことは出来ませんでした。ですが、現実では手足をバタバタさせ暴れていたそうです。激しく動いたせいか、少し汗ばみ呼吸も乱れていました。
様子のおかしい私を止めようと、起こそうと、坪内が必死になっていてくれたのは、彼女の乱れた格好を見れば一目瞭然です。
不思議な出来事ではありますが、ただの気味悪い夢でしかありません。道中見た廃病院が記憶に強く残ってたんだ、だからあんな恐ろしい夢を見たんだ。この時は、悪夢のことを深くは考えていませんでした。
坪内は一人で大丈夫と言う私の言葉に耳を貸さなかったので、互いに背を向けて身支度を整えました。部屋を出ると心配そうな面持ちでメイクの松井が待っていました。不安そうな顔をする彼女に問題ない旨を伝え、用意していただいた夕食会場へと向かいました。
挨拶をしながら中へ入っていくと、共演者の弥生 双吾さんが両手にコップを携え声をかけてくれました。
彼は映画で和食処やよいの店主であり、行方不明となった娘を懸命に探す父親を演じています。私の役どころからすると元恋人にあたる役を演じるのが彼、弥生さんです。少し強面なのですが、いつも気さくで周囲を気遣って下さります。
「万桜ちゃん、道中お疲れ様。どっち飲む?」
「ありがとうございます、こちらいただきます」
穏やかな声色で差し出された二つの飲み物のうちウーロン茶らしきものを受け取ると、弥生さんは残った飲み物をぐっと飲み干しました。
出演俳優:弥生双吾さん
◇劇団になろうフェス参加者の江保場狂壱様からお借りいたしました! ありがとうございます。




