54. 名前を呼んで
サラは、白い砂漠に立っていた。
誰かに呼ばれて振り返ると、知らない青年と女性が手招きをしていた。サラは笑って、彼らの方に駆けていく。砂の大地を易々と駆ける自分の体は、男性のものだ。大きな手に逞しい腕。褐色の肌が砂にまみれて黄金に輝いている。
サラは二人に追いつくと、女性を片手で抱き上げ、もう片方の腕を青年の肩に回した。お互いが何かを言う度、サラ達は笑った。青年は弟、女性は妻だった。
(これは、アグロスの記憶……?)
サラの意識が誰かの記憶を共有している。これは、アグロスのものだとサラには分かった。
サラ達は小さなオアシスに辿り着いた。
町中に張り巡らされた石造りの水路を辿ると、まばらに民家があり、それぞれの庭にはヤシの木が茂り、ヤギや牛が繋がれていた。あちこちから笑い声が聞こえてくる、華美ではないが、豊かな暮らしのようだった。
サラが家に戻ると、父と母が出迎えた。母の腕には、生まれたばかりの我が子がいた。サラは妻を優しく床に降ろすと、腰に下げた狩りの獲物を父に渡し、母から娘を預かった。娘はよく眠っている。妻に似て、まつ毛が長い。銀色の髪は自分と同じだ。
サラは両親と弟に何か言うと、妻と娘を連れて庭の小さな泉の傍に座った。くつろいでいると、飼い犬が擦り寄ってきた。乳臭い、娘の匂いが好きなようだ。娘の手に鼻を擦り付け、千切れんばかりに尻尾を振る犬を見て、サラと妻は見つめ合って笑った。
(なんて、幸せなんだろう)
意識の境がはっきりしない中で、サラは幸福感に包まれていた。
アグロスの、人としての記憶はほとんど残っていない。恐らくこの光景は、アグロスの砂漠の心に残された、最後のオアシスなのだ。
ふと、サラは空にシミを見つけた。
何だろう、と立ち上がる。
シミから、小さな蟲の様なものが、一匹、また一匹と這い出してきた。
背筋がゾッと寒くなった。サラは妻の手を取った。
空のシミは、穴だった。
おびただしい数の『何か』得体の知れないものが、オアシスを覆っていた。
サラは妻の手を引きながら、声を張り上げ家族に危険を知らせた。2階のテラスから『何か』を見上げた両親が、消えた。
弟が家から飛び出し、サラ達を飲み込もうとしていた『何か』の大群を魔法で散らした。その弟の真上を、黒い霧が横切った。弟は、半分になった。
サラは喉の奥から悲鳴をあげた。
妻の手を強く握りしめ、走りだす。犬が吠えながらついてきた。
あちこちから助けを求める声が聞こえては消えていく。
もう少しだ。もう少しで町を出る。
犬の声も聞こえなくなった。
急に、前触れもなく、妻を引く手が軽くなった。
振り返ると、妻は手首から上だけを残して…………消えていた。
「「うわああああああ‼」」
サラとロイは、同時に悲鳴を上げた。
はっと目を開けると、サラはロイを胸に抱きしめたままだった。ロイと視線が合う。ロイも、サラと同じものを見てきたようだ。現実世界では、ほんの一瞬の出来事だったのだろう。周りはまだ、白い光に包まれていた。
「ううっ!」
ロイが呻いた。僅かな動揺の隙を突いて、主導権が入れ替わった。
「放せ、サラ・フィナ・シェードォ!」
「うっ!」
アグロスの手が、サラの首に手をかけた。骨が折れるかと思えるほどの強さで握られたかと思うと、ふっと弱くなったり、また強くなったりを繰り返している。ロイも戦っているのだ。
「あなた……何、したいの……?」
サラは声を絞り出した。
「全部、奪ってやる!」
ロイの顔で、アグロスが叫ぶ。
「私から全てを奪った魔王‼ 許さない‼ 許せない‼ 私が先に、全ての『魔』を吸い尽くしてやる! あいつには、渡さない。私が、魔王ごと飲み込んでやる‼」
その瞳は、何処までも深く、哀しい色をしていた。
サラは、アグロスの事が憎い。シズを傷付け、ロイを傷付け、多くの人の命を奪った。
だが、サラは見てしまった。
幸せだった記憶を。かつては誇り高い戦士だった、彼の心を。理不尽な暴力で奪われた、彼の全てを……!
「カザル」
ビクッと、アグロスの肩が揺れた。サラは、泣いていた。悔しくて、哀しくて、涙が止まらなかった。サラの涙が、アグロスの手に落ちていく。
「カザル」
サラはもう一度、名を呼んだ。
かつて人間だった頃の、温かい人達に囲まれた、アグ族の青年だった頃の彼の真名を。
サラは手を伸ばし、アグロスの両頬を包んだ。
サラの首を掴む手には、ほとんど力が入っていなかった。
サラは、アグロスの頬を伝う涙を拭った。
「カザル。魔王は、私が倒します。貴方の代わりに、私が、必ず倒すから……!」
「う……ああああああああ」
アグロスの喉から、力なく声が漏れ出る。
「もう一度……」
アグロスの瞳は、サラを通して別のものを見ている様だった。
「……名前を呼んで」
サラは笑った。その笑顔は、記憶の中の妻が彼に向けたものとよく似ていた。
「おやすみなさい……カザル」
再び白い光が、サラから溢れ出した。光は朝日の様に、黒い闇を払っていく。魔界を繋ぐ穴が、見る見る小さくなっていく。
ふと、細くて大きな手がサラの手を握った。
ロイだ。ロイはにっこりと微笑んだ。
サラとロイは手を握り合い、空を見上げた。
「アグ・ロス」
ロイが呟いた。
光から逃れようと暴れまわっていた『何か』達がピタリと動きを止め、一斉に穴の中へと還っていく。
光はどこまでも広がり、『魔』を浄化していく。
魔力を一気に消費し、ふらりと倒れかけたサラの肩を、誰かが支えた。リーンだ。掌を通して、魔力を送り込んでくれている。その目が「よくやったね」と労っている。「うん」とサラは頷いた。
そのサラの、あいている手をパルマが握った。
ロイの手を、エドワードが握った。エドワードをグランが支える。
リュークが、黒い魔石を取り出した。リュークは魔石をロイの胸に当てた。
「あ……!」
ロイが思わず声を上げる。体の中に残っていた、『何か』が吸い出される感覚があった。そして、アグロスと呼ばれた男の魂も。
ロイは目を閉じた。
吸い出される瞬間、アグロスは穏やかな顔をしていた。
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